いとはん伝説
ジャスコといえば、いまの「イオン」ですが、私が幼いころ、衣料品のみを扱うジャスコというものが石川県内に何ヵ所かあり、そのお店のことを祖母はいつも「いとはん」と呼んでいたものでした。
このページでは北陸ジャスコ(株)の前身であった衣料品スーパー「いとはん」についてを探求し、「いとはん」がどこにあったか、そのあと現在地はどうなっているかを調べていきたいと思います。
最終修正:令和5年5月19日 (1)
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:: いとはんの歴史昭和36年(1961年)10月24日、当時の大和百貨店(現在の片町きららの位置)真向かいに、衣料品を格安で売るスーパー「いとはん」が開店しました。 大阪地方では可愛らしい女の子という意味の「[い]とはん」と“い”を高く発声する言葉があるそうですが、金沢の「いとはん」は「い[と]はん」で、“と”にアクセントを置く呼び方でした。 創業者の諸江賢二氏は戦後の混乱期にあたる昭和24年(1949年)、若冠22歳で靴下製造の「諸江メリヤス製作所」を立ち上げて一旗あげたのち、昭和35年(1960年)から片町で高級菓子・喫茶店「オリンピック金沢」の経営に転身するも、わずか1年半で500万円の赤字を残して閉店……。「いとはん」はその跡地で、“起死回生というより背水の陣で挑んだ”お店だったそうです。 はじめは“いつつぶれるか?”“デパートの目の前とは大胆な……”と囁かれたそうですが、流通革命の波に乗り大成功。チェーン店を次々と開拓し、快進撃を続ける“業界の風雲児”の名を欲しいままにしました。 (株)いとはんは“衣料スーパー”として、衣料品やインテリア、寝具などに的をしぼった商品展開で、生鮮食料品部門は擁していなかったようですが、これをおぎなうように食品スーパーマーケット事業者の「近江町センターバザール(のちのバザールフーズ)」や「鳴和フードセンター(のちのナルックス)」等との“相互乗り入れ”を積極的に行い、その相乗効果を得られる総合ショッピングセンターを各地に開発していきました。 昭和45年(1970年)11月4日、(株)いとはんは西武グループの(株)西友ストアーと提携関係になり、将来的には金沢市や富山市に大型ショッピングセンターを共同出店する計画を構想するとともに、両者間で商品交流を進めるようになりました。また、西友の大阪進出とともに、大阪府への出店が模索されたこともありました(高槻店)。 しかし、西友が百貨店志向を強めはじめ、富山で計画されていた新店舗も実際には百貨店としての出店ということに。量販店としての提携のメリットがなくなったこと等が影響し、昭和51年(1976年)8月に、いとはんと西友は物別れし提携を解消……。一転して、ジャスコ(株)との“合併を前提とした業務提携”に乗り出しました。 ジャスコ(株)にとっては、当時は北陸エリアが手薄で、この時点での保有店舗は福井駅前にあった1店舗だけ(野々市店、大野店はいずれもこの年の11月開店)。そこで北陸3県で19もの店舗を擁する「いとはん」を取り込むことができれば、一挙に北陸全域を手中におさめることができる……という旨味もあったのでしょう。 昭和52年(1977年)2月28日、ジャスコ(株)が子会社として「いとはんジャスコ(株)」を発足させ、同年8月21日、「(株)いとはん」は同社と合併しました。 このとき、ジャスコ(株)本体が開業させていた野々市店、福井店、大野店がいとはんジャスコ(株)へ移管されています。 このようなプロセスで、「いとはん」は「ジャスコ」になったのです。 昭和53年(1978年)5月21日、いとはんジャスコ(株)は「北陸ジャスコ(株)」に商号を変更しています。よって「いとはんジャスコ」という会社名は1年しか存在していなかったわけですね。 平成12年(2000年)2月21日、北陸ジャスコ(株)はジャスコ(株)本体と合併。これにより、金沢片町を源流に脈々と息づいていた「いとはん」の悠久の流れは、完全に「ジャスコ」の大河へ交わりました。 そしていま、「ジャスコ」は「イオン」と名前を変えました。不思議なものです。この名前は「いとはん」とよく似ています。
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:: 片町本店昭和36年(1961年)10月24日、片町1丁目に創業の店舗「せんいのスーパーマーケット いとはん」がオープンしています。当時の大和百貨店(現在の片町きららの位置)真向かい、いま「カラオケJOYJOY金沢片町店」になっている場所でした。
当時、竪町通りにあった「東京ストアー」では食品のほかに衣料品も取り扱っていたそうですが、バトルの結果、「東京ストアー」は衣料品の取り扱いをやめ、食品部門へ一本化したといいます。
創業者の諸江賢二氏は「モロケン心得帳」のなかで、 昭和41年(1966年)10月28日、すぐ近くの現在はアパホテル片町となっている場所に、「スーパーいとはん片町本店」として移転新築オープン。北陸初の本格的スーパーで、ワンフロア916u、柱なし。店舗は1階、2階で、当初からエスカレーター完備となっていたようです。
[1階] 柱がないフロアは、当時としては革新的なものだったようです。昭和40年(1965年)過ぎの頃、諸江氏はアメリカの流通業界を視察したなかで郊外型のスーパーマーケットに着目。視界を遮る柱がほとんどなく、商品の豊富な品ぞろえがひと目で分かる店内に、日本でも将来、同じようなスタイルの店が流行すると確信されたということです。 昭和42年(1967年)4月6日には旧店舗跡地に「ベビーショップいとはん」がオープンしています。このお店は学童幼児衣料に特化したお店で、『東京・大阪の一流デパートにある同じものがそろッている』という触れ込み。紙オムツや可愛いぬいぐるみまで販売されていたようです。 さらに、昭和49年(1974年)3月29日には本店隣りにファッション専門店「ミセスショップいとはん」もオープンしています。 その後、いとはんがジャスコとなったことで「ジャスコ片町店」および「ジャスコベビーショップ」と改称され、北陸ジャスコ(株)本社もこの場所に置かれました。 昭和54年(1979年)6月に「ミセスショップ」は閉店しています。 昭和58年(1983年)4月21日、片町店は女性ファッションの専門店、その名も「MSの街」として大きく業態が転換されました。 “MS”とは、中学校の英語の授業でもおなじみですが、“女性”の呼び名のことですね。女性の英語教師とのあいさつで“グッモーニン、ミズ○○”というように呼びますよね。 この「MSの街」形態は昭和55年(1980年)3月29日から高岡駅前の旧高岡店でも導入されており、金沢片町が2号店舗となりました。 このとき、いとはん発祥の地であった「ジャスコベビーショップ」は閉店したものと思われ、その後は「鈴丹」や「タイトー」のゲームセンター、「ミエコウエサコスポーツ」「サンカルロ」などいくつかの変遷を経て、いまは「カラオケJOYJOY金沢片町店」になっています。 そして「MSの街」も昭和62年(1987年)10月25日に閉店しています。これにより、北陸ジャスコ(株)本社は北町バス停前にあった「ジャスコグリーンシティ金沢」へ移転しました。 「ジャスコ片町店」の建物と土地は平成元年(1989年)7月に不動産会社の(株)秀邦などが買収し、駐車場となったのちに都市型ホテルとして再開発。平成15年(2003年)7月1日に「アパホテル金沢中央」がオープンしています。
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:: ムサシ店昭和39年(1964年)4月25日開業。横安江町商店街からもアクセスできる場所に3階建ての建物で立地していましたが、やはり衣料部門のみの営業でした。 当時の金沢の繁華街といえば大和のある片町、丸越のある武蔵が二大巨頭であり、2号店舗が武蔵に出店するのは必然といえたでしょう。 浄土真宗への信仰が盛んだった金沢では、東別院の門前町である横安江町アーケード街は“横に広がるデパート”といわれるほど賑わっており、あのユニーも出店していたほどです。アーケードが支線のように分岐した先に店を構えていたムサシ店は、当時としては素晴らしい好立地だったのでしょう。
いとはんがジャスコになったことで「ジャスコ ムサシ店」と改められ、営業が継続されましたが、昭和62年(1987年)8月31日に閉店しています。 昭和62年(1987年)7月30日付け北國新聞朝刊に掲載された記事によると、充分な駐車スペースが取れないうえ、衣料品も格安で扱う「ダイエー金沢店」がオープンして以来、売り上げが減少していたそうです。 さらに当地で武蔵ヶ辻ビル再開発計画が持ち上がったことで北嶺グループから要請があり、「武蔵インテリジェントビル」に売却されることとなりました。
閉店に際し、北陸ジャスコ(株)の諸江社長は、 現在、跡地は再開発ビル「グランドパレス武蔵ヶ辻」の専用立体駐車場となっています。
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:: 野町店昭和41年(1966年)4月1日オープン。衣料スーパー業態ですが、道路向かい側に食品スーパーマーケット「東京ストアー野町店」があり、共依存する形で営業されていました。
片町、武蔵ときて、3店舗目はまさかの住宅地のなかへの出店でしたが、創業者の諸江賢二さんは「モロケン心得帳」のなかで、 隣接する「東京ストアー」との相乗効果は大きかったのでしょう。この店舗以降、「いとはん」は食品スーパー各社とタッグを組んで、衣料・食品をワンストップで提供できる大型店舗の開発へと邁進していきます。
その後、いとはんがジャスコになったことで「ジャスコ野町店」として、衣料品や寝具に特化して営業が続けられました。 管理人の野町に住んでいた祖母は、「東京ストアー野町店」へ行くときも「いとはんへ行ってくるわ」などと云っていたのを憶えています。いとはんと東京ストアーをセットで「いとはん」として捉えていたのだろうと思います(もちろん、そのころすでに「ジャスコ」になっていましたが……)。 「ジャスコ野町店」は平成3年(1991年)頃に閉店。跡地は東京ストアーの駐車場を経て、ツダコマ・ゼネラル・サービス(株)が管理する月極駐車場となりました。 その後、時代は大きく下って、「東京ストアー野町店」も(株)東京ストアーの倒産により、平成25年(2013年)2月26日に閉店しました。
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:: 円光寺店昭和46年(1971年)4月29日にオープンした「円光寺ファミリーセンター」の衣料部門を担当していました。食品部門は「F・バザール円光寺店」です。 このショッピングセンターは「高山第2ビル」という複合商業施設で、現在のパチンコ「サンマルコ」になっている場所にあったようです。
「円光寺ファミリーセンター」開業を知らせる新聞広告によると、当初テナントは次の通りとなっていたようです。
[2階] ここも「ジャスコ円光寺店」となりましたが、それも束の間、昭和53年(1978年)頃に撤退。これにより1階、2階とも「バザール」となった模様です。 その後の円光寺ショッピングセンターですが、昭和55年(1980年)版の住宅地図によると、この時点のテナントは以下の通りだったようです。
[1階]
[2階] 5年後の昭和60年(1985年)の住宅地図では、以下の通りとなっています。2階にはなんと「長崎屋」が。ジャスコなきあと、衣料品部門を長崎屋(サンバード)のフランチャイズ店舗として営業していたのでしょうか?
[1階]
[2階] 平成2年(1990年)の地図になるとすでにバザールは閉店している様子で、京都市に本拠地を置いていたスーパーマーケットチェーン「(株)京都厚生会」が後釜として入っていた模様です。
[1階]
[2階] しかし「京都厚生会」が営業していた時期はごく短く終わったようで、平成3年(1991年)4月28日には「円光寺レジャービル」としてリニューアルオープン。1階が「コスモランド円光寺」というゲームセンターに。2階は引き続きカラオケステージ「どれみれど」ですが、これをもって小売り店の要素はなくなってしまった様子です。 平成17年(2005年)の住宅地図でもビル名は「円光寺レジャービル」となっており、1階は「コスモランド円光寺」、2階は「カラオケステージどれみれど」という構成で記載されていました。 その後、いずれかの時期に建て替えが行われたようで、平成22年(2010年)の地図においては現在のように「パーラー サンマルコ」に変わっています。かつてショッピングセンターが存在していた面影は皆無というしかないでしょう。
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:: 鳴和店昭和47年(1972年)6月2日、春日町バス停前でオープンした「城北ショッピングセンター」に出店。食品スーパーの(株)鳴和フードセンター(のちのナルックス)とタッグを組み、2階・3階で衣料品売り場、バラエテーショップ部門を担当していました。 「ジャスコ鳴和店」への転換後も3階で衣料品に特化して営業が続けられていましたが、平成12年(2000年)7月に閉店。売り場跡は100円ショップ「ポピア」になりました。 それから20年、「城北ショッピングセンター」は令和2年(2020年)11月29日に閉店。建物は解体され、跡地には令和4年(2022年)5月25日に「クスリのアオキ鳴和店」がオープンしました。 詳しくは城北ショッピングセンターのページをご参照下さい。
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:: 津幡店昭和48年(1973年)9月29日、津幡町でオープンしたショッピングセンター「スカール」2階で衣料品、日用雑貨売り場を担当していました。食品スーパーは「名鉄ストアー」で、いとはんとのペアはここが唯一の組み合わせでしたが、同時期にオープンした「名鉄丸越百貨店」(スカイビル)への出店にからんでのものだったのでしょうか。 「ジャスコ」への転換後も衣料品スーパーとして営業が続けられていましたが、平成12年(2000年)2月に撤退……。その後「スカール」そのものも平成13年(2001年)1月28日をもって閉店しています。 詳しくはスカールのページをご参照下さい。
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:: スカイビル店昭和48年(1973年)10月1日にオープンした名鉄丸越百貨店「スカイプラザ」3階で衣料品スーパーを手掛けていました。現在「金沢エムザ」の一部となっているフロアです。ジャスコへの転換後も「ジャスコ スカイビル店」として、引き続き営業が継続されていました。 昭和60年(1985年)9月に撤退。同年10月4日に行われた「スカイプラザ」のリニューアルオープンに際し、元ジャスコだったスペースには紳士服売り場や喫茶コーナーが移設されたそうです。 詳しくは金沢エムザのページをご参照下さい。
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:: 七尾店昭和44年(1969年)10月25日、「いとはん七尾ショッピングビル」としてオープン。4階建てで、エスカレーター、エレベーター完備。いとはんが初めて手掛けたGMSで、食品部門は「F.バザール七尾店」が担当。これ以降、バザールとタッグを組んだ大型店の開発が続くことになります。 なお、「いとはん」の七尾進出を契機に、近隣に本店を構えていた地場のスーパー「どんたく」は衣料品の取り扱いを停止し、現在のような食品専業のスタイルに改めたのだそうです。
昭和45年(1970年)5月12日の北國新聞朝刊に掲載されている広告によると、「いとはん七尾ショッピングビル」のいとはん、バザールを除くテナントは下記の通りだったようです。
1階は銘店街のフロアがあり、「森八」や「佃の佃煮」が入るなど、ミニデパートのような雰囲気だったのでしょうね。また、4階のレストランは七尾湾を一望できるスカイレストランとなっていたそうです。 「ジャスコ七尾ショッピングセンター」となったあと、遅くとも昭和56年(1981年)までには「バザール」は撤退。食品部門もジャスコ直営となったようです。ジャスコ本体主導でオープンした野々市ジャスコやジャスコグリーンシティ金沢と同じように、食品、衣料とも自前で供給するスタイルとなっていたのでしょう。 その後、昭和61年(1986年)12月5日に建て替え工事が完成し、店舗面積を拡大させています。
昭和63年(1988年)の住宅地図によれば、当時のジャスコ以外のテナントは下記のようでした。
平成9年(1997年)2月28日、いとはん時代から27年の歴史に幕を閉じました。車社会の波に乗れない市街地の立地条件や、近隣に「パトリア」や「アル・プラザ鹿島」がオープンしたことが痛手だったようです。 七尾ジャスコの撤退にあわせ、終生のライバルだったスーパー「どんたく」は27日までに作事町の本店を「新鮮館」として大規模リニューアル。食品売り場を充実させ、顧客獲得に動いています。 跡地は現在「グラン・リ・ヴァ七尾」となっています。また南側には別棟として立体駐車場がありましたが、こちらは「七尾市袖ヶ江第二立体駐車場」として使われています。
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:: 小松店昭和45年(1970年)4月3日、小松駅前の北陸鉄道(株)小松営業所跡地に開業した「こまビル」の衣料品部門を担当されていました。食品スーパーはこちらも「F.バザール」です。 「ジャスコ」への転換を経て、平成3年(1991年)12月12日に「ブロードタウン新小松」こと「ジャスコ新小松店」(現:イオン小松店)がオープン。新店舗への集約という意味合いもあってか、平成4年(1992年)12月31日を最後に撤退しています。 平成12年(2000年)6月30日を最後に「こまビル」そのものも閉鎖され、跡地は小松駅西口バスターミナルとなりました。 詳しくはこまビルのページをご覧下さい。
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:: 京ビル店昭和47年(1972年)3月18日、小松市中心部の京町交差点角にあった3階建ての「京ビル」にオープン。食品部門は地元スーパーの(株)マルキンが担当していたようです。 「京ビル」は園町飛行場線改良に伴い整備された再開発ビルで、「河岸端防災ビル橋北ショッピングセンター」という仮称で計画。旧小松郵便局跡地(昭和44年の細工町陸橋完成とともに移転していた)にて、昭和46年(1971年)3月26日にオープンしたものでした。 その後も「ジャスコ京ビル店」として営業されていたようですが、平成6年(1994年)3月に閉店。また、スーパーマーケットも「犬丸屋」に変わりました。 のちに京ビルも解体。道路拡張用地として収用され、いまは歩道の一部となっています。 なお、「西町」の浮柳方向のりばは北鉄公式サイトの時刻検索ページではいまも「西町(京ビル)」という名称で登録されています。
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:: 山代店昭和48年(1973年)3月23日、加賀市山代温泉で(株)三栄ビルディングがデベロッパーとなってオープンした「加賀ショッピングプラザ」の衣料部門を担当していました。食品スーパーのタッグパートナーはおなじみの「F.バザール」です。
オープン当時の「加賀ショッピングプラザ」のフロア構成は、次のようになっていたようです。 『遠くからわざわざ車谷にご来局下さる方々』で印象的な温泉通りの「車谷薬局」が支店を設けていたのですね。そして、ここにも「インデアンカレー」が入っていたのですね。 しかし、「いとはん山代店」は昭和52年(1977年)5月29日、「ジャスコ」へ転換されることなく閉店しました。「いとはん」にとっては初の“スクラップ店”となってしまいました。 商圏が狭く売上増加が見込めない、温泉地の立地から高級品志向が強く、チェーンストアの標準化した商品はなじまない等が要因となったようです。 その後、衣料スーパーは長崎屋のフランチャイズ店舗「サンバード」になりました。 「加賀ショッピングプラザ」はのちに「レイ・プラザ」と改称。スーパーマーケットは平成元年(1989年)12月7日より「マルエー レイ・プラザ店」となりました。 が、平成25年(2013年)頃に「マルエー」が撤退後、末期には雑居ビルとなり、建物は令和3年(2021年)2月頃までにとうとう解体されました。
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:: 松任店昭和48年(1973年)5月12日、松任駅前にて「いとはん松任ショッピングセンター」としてオープンしています。 松任駅前の、現在は松任駅南複合型立体駐車場や地下道の堀割の一部となっているところにあり、駅のすぐ横にあったわけですから、列車やバスを利用して買い物に訪れる人の姿も目立ったでしょうし、またバスや列車を待つために店内で時間をつぶすという学生の姿なども多かったことでしょう。 開業日の北國新聞朝刊に掲載された広告によると、当初のいとはん以外の売り場は下記のように記載されていました。
[1階]
[2階]
[3階] この店舗においては、食品スーパーは「グリーンストア」が担当していたようです。 やはりジャスコへ継承され、初代の「ジャスコ松任店」として親しまれました。 昭和63年(1988年)以降、遅くとも平成元年(1989年)までに「グリーンストア松任店」は撤退し、食品部門もジャスコ直営となったようです。
平成2年(1990年)の住宅地図によると、当時のジャスコ(株)松任店のテナントは下記の通り記載されていました。
[2階]
[3階] 「青木二階堂薬局」はクスリのアオキの母体となった薬局ですね。「化粧品アオキ」も同系列でしょうか? 長年「ジャスコ」として営業が続いていた松任ジャスコですが、平成2年(1990年)12月1日、北陸ジャスコ(株)の手掛ける新業態のディスカウントストア「Big J」として転換されています。 平成5年(1993年)秋頃には、同じくジャスコから「Big J」に業態変更を受けていた御経塚店とともに、北陸ジャスコ(株)の子会社である「北陸ウエルマート(株)」という会社へ経営が移管されていたようです。これにより、北陸ジャスコ本体は総合スーパー、北陸ウエルマートは廉売店とすみ分けが図られています。
平成7年(1995年)の住宅地図によると、当時の「ディスカウントストアーBig J」のテナントは下記の通り記載されていました。地元業者系のテナントについては、基本的にジャスコ時代と変わっていない様子です。
[2階]
[3階] しかし、これが最晩年の姿ということになり、平成7年(1995年)9月に閉店しました。 なお、国道8号線バイパス沿いで建設が進められていた「ジャスコ松任ショッピングセンター」(現:イオン松任店)はその後、あたかも旧松任ジャスコの生まれ変わりであるかのように、平成7年(1995年)10月26日にオープンしています。 そして旧松任ジャスコだった建物は松任市に売却され、平成8年(1996年)4月1日より「松任市駅前ふれあいセンター」として活用されるようになり、オープン前日の3月31日にはプレイベントとして1階にて「松任朝市」が開催されています。 平成16年(2004年)の住宅地図では「駅前ふれあいセンター」として記載されていますが、平成17年(2005年)の地図ではすでに取り壊されたあとのようで、更地となっている模様でした。 その跡地が、いまのように松任駅南複合型立体駐車場の用地や地下道の堀割の一部として活用されていくわけです。
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:: 武生店昭和44年(1969年)3月21日、いとはんの県外進出第1号店、それどころか金沢市外進出としても第1号店として、福井県武生市(現:越前市)の国鉄武生駅前広場に面した「武生駅前ショッピングセンタービル」にオープンしています。 大手の北陸進出に備え、北陸地方を商圏とするローカルチェーン整備網の一環として、先手必勝の布石を打ったものということです。 当時、衣類をはじめとした商品は大阪の問屋から調達後にライトバンへ満載し、深夜の下道をぬって運んでいたそうですから、これは管理人の想像に過ぎませんが、ちょうど中間に位置する武生市は、配送経路上の中継地点としてもちょうど良かったのかも知れませんね。 売り場は1階、2階のツーフロアで、おしゃれ衣料、実用衣料、家庭用品、小間物雑貨、化粧品、さらにレコード、おもちゃも取り扱われていたようです。 昭和46年(1971年)版の住宅地図によると、ビルには「いとはん」のほか、「マンモスパチンコ」、地下に「りんご・リアール」「ミニ・ユリイカ美容室」「桃太郎食堂」「美松・ポニー」といったテナントが入っていた様子です。 この店舗も「ジャスコ武生店」として継承されました。
昭和56年(1981年)版住宅地図では、つぎのように記載されていました。 地階に福井市を本拠地としていた食品スーパー「まるまん」(滑川にあったまるまんとは別会社)が入居していたようです。なぜかこの時点でも「いとはん」の文字が残っていますが、「いとはん」の看板のままで営業されていた可能性も?? ところで、建物は5階建てだったのでしょうか? 4階の記載が抜けているようなのですが?? どの年の地図もそうなっていたので、“死”に通じる“4”は忌み数字として飛ばしており、実際には4階建てだったのかも知れません。 昭和57年(1982)年〜昭和58年(1983年)の間のいずれかの時期に「ジャスコ武生店」は閉店しています。 「武生駅前ショッピングセンタービル」は旧平和堂武生店の店舗やハギレヤビル、武生信用金庫駅前支店なども含めた駅前再開発の流れもあって、平成8年(1996年)頃に解体された模様です。跡地は拡張された駅前広場や、平成12年(2000年)3月12日に再開発オープンを遂げた「アル・プラザ武生」の南側一部となりました。
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:: 高岡店昭和47年(1972年)10月27日、高岡駅前に「いとはん高岡ショッピングセンター」として出店しました。 食品スーパーは(株)鳴和フードセンター(のちのナルックス)が出資したという「(株)ホクセイフード」。衣料品、リビング用品を「いとはん」が担当していたようです。
当初のフロア構成は、次のようになっていました。 喫茶の「BUS STOP」というのがなにやら気になりますね。また、「スガキヤ」やお好み焼き、ペアセットでおなじみの「ピーコック」も出店していたのですね。 1、2階に設けられた「レインボーホール」と呼ばれた吹き抜けは北陸では初の本格的なものだったそうです。 その後は「ジャスコ高岡駅前店」となったあと、昭和55年(1980年)3月29日、女性ファッション専門店「MSの街」として業態を一新、大規模に改装されました。 地階はこれまで通り食品売り場(鳴和フードセンターが担当)とし、1〜5階はジュニア、ヤング、ミセス、ベビー、高級雑貨に分けてフロア構成が一新されています。 その後、昭和58年(1983年)7月27日には2代目の「ジャスコ高岡店」が高岡市郊外の江尻に出店していますが、この店舗は「イオン高岡店」として、「イオンモール高岡」オープン後もなお健在です。
「MSの街」のほうの経営は決して安泰ではなかったようで、昭和60年(1985年)3月1日から地下食品売り場の営業を停止しています。食品売り場を担当していた(株)鳴和フードセンター(ベターライフナルワ)が経営不振を理由に退店したためですが、「MSの街」そのものがヤング女性対象の店であり、食料品の買い手である主婦が集まりにくかったことも背景にあるようです。 昭和63年(1988年)2月20日、「MSの街」は閉店しました。 建物は末広開発(株)という会社が買収し、昭和63年(1988年)7月29日に「末広プラザ」として1階のみを暫定的にオープン。通信機器販売店「ホクテレ」とカー用品の「CAR夢IN848」の2店舗が入居しました。 その後、平成2年(1990年)9月13日より解体工事が開始され、跡地は長い間駐車場として使われていましたが、平成16年(2004年)4月1日、高岡市中央図書館や高岡マンテンホテル駅前などが入る高岡駅前西再開発ビル「ウイング・ウイング高岡」がオープン。駅前一等地の新たな顔が生まれ、再び人が集まる場所に生まれ変わりました。
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:: 高岡西町店昭和49年(1974年)11月30日、高岡市の国道8号線沿いにオープンしています。十栄商事(株)という会社が開発した「トーエープラザ」の中核となる店舗でした。
昭和53年(1978年)5月19日付け北日本新聞朝刊の報道によると、この「トーエープラザ」は大型ショッピングセンター「ジャスコ」の出店候補地となっていたこともあるようですが、十栄側との折り合いが付かなかったのか、新店舗は江尻への出店に落ち着き、当地では引き続き衣料品、寝具などにしぼった(従来のいとはん系のスタイルの)「ジャスコ高岡西町店」として営業が継続されました。
昭和56年(1981年)の住宅地図によると、この当時のトーエープラザのテナントは次の通りでした。 このほか、駐車場内に別棟として「お食事ポーク」がありました。
平成11年(1999年)12月4日、「トーエープラザ」は食品販売を主体としたディスカウントスーパー形態として改装オープンしています。改装にあわせ、食品部門の4店が集まって(株)ビッグ・ライオンを設立し、レジ業務を一本化したそうです。 その後、平成12年(2000年)6月25日にジャスコ高岡西町店は閉店。一時期はGMSになる構想さえあった当地から撤退となりました。 平成12年(2000年)8月5日、旧ジャスコ部分には(株)電陽社が「ブックオフ高岡西町店」をオープンさせ、“高岡のブックオフといえばここ”といえる基幹店舗として現在に至っています。 なお、食品部門の(株)ビッグ・ライオンは平成13年(2001年)1月19日、自己破産申請、事実上倒産しました。過小資本体質のために資金繰りがひっ迫していたそうです。
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:: 砺波店昭和49年(1974年)10月10日、砺波市新富町に「いとはん砺波ショッピングセンター」としてオープンしています。 食品売り場は1階の「ホクセイフード」が担当。「いとはん」は1階の家庭用品、家電売り場と2階の衣料品売り場を担当していたようです。
当初のフロア構成は次のようになっていたようです。 ジャスコへの転換後、昭和53年(1978年)12月1日の新装オープン時に食品売り場はジャスコ直営となったようです。また、このとき中越レース跡地を借りて駐車場が拡大されています。 その後、時代は流れジャスコ砺波店は平成4年(1992年)11月21日に「コスモタウン21」の核店舗として、北へ約200m離れた場所へ移転再オープン。のちには「イオン砺波店」となりましたが、平成25年(2013年)2月28日に閉店。跡地には平成27年(2015年)7月14日、「イオンモールとなみ」が再びオープンし、いとはん砺波店の系譜は令和に受け継がれています。 なお、いとはん砺波店だった新富町の旧店舗跡地には「クスリのアオキ新富店」が出店しています。
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:: 上市店富山地方鉄道(株)上市駅に完成した“民衆駅”「上市ショッピングセンター」の衣料スーパー部門として、昭和47年(1972年)11月23日にオープンしています。 「上市ショッピングセンター」は“上市駅から0分”をキャッチコピーとしていました。駅そのものがショッピングセンターなのですから、それもそうです。 1階が食料品・日用品雑貨売り場「くみあいマーケット」、2階の衣料品・寝具・インテリア・オモチャ売り場を「いとはん」が担当していたようです。 平成2年(1990年)1月20日、「ジャスコ上市店」は閉店、撤退しました。いまでは「くみあいマーケット」もまた閉店してしまいましたが、建物は地鉄の駅舎として現在も残っています。
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:: 高槻店昭和48年(1973年)9月28日に国鉄高槻駅前でオープン予定だった「西武タカツキショッピングセンター」に、いとはんが資本出資していたという「マルハツ」──若かりし頃の諸江社長が修業され、精神を教え込まれたという衣料問屋だそうです──を母体として設立された子会社「関西いとはん」が衣料品テナントとして出店。当時提携していた(株)西友ストアー(西武グループ)からの要請によるものだったそうですが、大手スーパーの地方進出の流れとはまったくの“逆攻撃”として耳目を集めました。 しかし、オープンを目前に控えた昭和48年(1973年)9月25日、放火による火災が発生……。すでに商品の搬入を進めていた関西いとはんは、当時のお金で約1億5〜6千万円もの損害をこうむったそうです。なお、準備に当たっていた社員約40人は全員無事だったということです。 「西武タカツキショッピングセンター」は1年後の昭和49年(1974年)11月15日にようやくオープン。しかし、昭和51年(1976年)8月に(株)いとはんは西友との業務提携を解消し、まもなくジャスコへと合流。その過程でいとはん高槻店も閉店したのではないかと思料されます。 その後の西武タカツキショッピングセンターは「西武高槻」「オーロラモール」を経て、平成29年(2017年)10月1日に阪神阪急百貨店グループへ譲渡。令和元年(2019年)10月5日、建物は「高槻阪急」に生まれ変わりました。
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