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 果実
 〜フルーツ・ガール桃子〜

  第2話 「少女の名は桃子」

 砂浜の波打ち際に腰を下ろして草履を脱ぎ捨て、砂のお城を作るでもなく、ただ投げ出した脚を波間に浸すだけの男児とその母──。
 このひとつの光景は、まるで1枚のスナップのように、長い時間そこで時計の針が停まったかのように続いていました。
 能登の輪島の曽々素海岸の近くには、陸をえぐる格好でまるで潟のように凪いだ入り江があり、そこにはわずかばかりの砂浜もありました。
 一名、「巨川」とよばれていたその場所は、現在はすでに埋め立てで消滅してしまいましたが、この物語の舞台である大正時代当時のその砂浜は、近在の人々にとっての海水浴場といってよかったでしょう。
 海水浴は、山また山の奥山の奥へ分け入らなければ辿り着けないような辺境の村の人たちにとっては、さしずめ現代人にとっての温泉浴のように、非常に薬効のある行為だと信じられていた……。そのようなことを言っていた古老を私は知っています。
 その老人は、わしが聞いた話やと……たしかわしが誰々に教えてもろた話やと……としきりに前置きしながらも、そんなことを得々と語っていたものでした。
 海水浴、なんとそこに薬効を信じた人々──。
 そうです、「欠狩」と呼ばれたその村の人々にとっても、それは同じだったことと思います。
 海に囲まれた半島にあってさえ、山また山の欠狩の村は、自家用車どころかバスも行き渡っていない大正初期には、おそらく海岸まで出るのに大人の健脚でも半日はかかったことと想像されます。
 そこは半島の背骨にあたり、はるか後年には県土幹線のとスターラインの建設される付近にも近かったのですが、この当時はそんなものは夢にさえ語るすべもないような、かけらほどもない夢物語といえました。耕地もわずかで、飲み水にさえ事欠いたそうなのですから。
 あまりに不便なことから、おそらく人びとは昭和初期にはすべて離村し、先祖代々の地を捨てたのでしょう。いまはもう、地図には欠狩の名は見当たりません。
 現在もこの付近は、携帯電話の電波が届かないようです。
 海水に脚をひたす男児と母は、その欠狩の在住者でした。
 母親と男児のかたわらの砂の上には、古びたリヤカーが停めてあります。木でできたリヤカーの底には布団が敷いてあり、まくらもありました。どうやら母親は、このリヤカーに子を載せて浜までやってきたらしいことが分かりました。
「さぁさ、海のお水やぞ、海の塩のお水や、こっで、おまさんの脚も、よくなるぞ……」
 波間に浸した息子の細い脚に、一心不乱に、まるで海水を揉みこむようにさする母親の横顔は、髪の毛もざんばらに乱れ、やや狂気じみていました。
 子は、脚を自分では動かせないようでした。
「これが海のお水や、塩の水や、脚がだんだん感じるようになってきたやろ? どうや? 動かせるようになったやろ?」
 子は無言でした。
 母親は、それでもなお構うことなく愛息の干からびたような細い脚に海水を揉みこみ続けました。
 その姿がやがて西日に照らされ、2人の長い影が尾を引く頃になって、男児がやっと口を開きました。
「お母さん、汽船だ」
 子はうわごとのように言ったのでした。
 母親は、息子の頬をしたたかにぶちました。
 突然、容赦なくです。
 いまでいうDVといえました。
「汽船がなんや、あんたの脚が、こんだけ海の塩の水に浸けて、なんで治らん?! いうてみよ!! せっかくリヤカー引いて、まんで遠いがんに、こっだけ、もう10回も20回も連れてきてやっとるのに、ほやろ?! なんでや、なんで薬の水にこんだけ浸けて、治らんがや? 言うてみよ!!」
 母親は、さんざん叫んで叫び疲れると、あとは言葉にもならず泣き狂いました。
 そこへ、1人の少女が砂に足跡を付けながら歩み寄ってくるまで、おそらく1、2分だったでしょう。
 2人とも西の水平線へ向かってしゃがんでいるので、少女の影法師は母親にも、脚のうごかない男児にも見えず、はじめ全く気付かなかったようでした。
 そもそも、少女が2人のかたわらに屈んで声をかけるその瞬間まで、2人とも無心に自分達だけの世界に没入してのですから、それは当然というしかありませんでした。
「もしもし……」
 少女の声は、あきらかに未成年者特有の舌足らずさを残しつつも、低く静かで、芯の通ったものでした。
 真っ赤な長い羽織りと、桃色のかすりの着物に身を包んだその少女……。
 その前髪に隠れがちな濡れた眼差しが、男児の生気のない顔をのぞきこみました。
「歩けないの?」
「母ちゃんが、歩けっていうんだ、歩けないのに……。感覚がないんだよ。海の水が薬なわけがない。こんな脚に効くだなんて」
 細いゴボウのような脚を自嘲するかのように拳でごつごつと叩きながらも、男児は多弁でした。
 子が見知らぬ娘には言葉の多いことにも、母親はひどく立腹した様子で、
「誰やあんた、誰あんた! 誰なんあんた! DVされたいんか!」
 と、しきりに騒いでわめきたてています。
「鬼だね……?」
 謎の少女は男児にそう尋ねました。
「お母さんは、……」
 子が言いかけるのを制するように、母親は大声を出しました。
「鬼なもんか、誰やあんた! 私のなにが鬼やっ?! DVされたいんか?!」
 謎の少女は、黙ったまま羽織りの袖からなにかを取り出しました。
 それは柄のついたペロペロキャンディー状の品物でした。
 それは本当にキャンディーであるかのように、柄のさきには赤と黄色で渦巻き状になった丸いものがあります。
 少女はそれを片手に握ったまま、おもむろに両手両腕を使って踊りはじめました。
 現代的にいえば、それはパラパラの動きに近いものでした。
 さかんに両手両腕を使って踊ります、踊ります、そして踊ります。
 その動きのなかで、少女はペロペロキャンディー的なそれを持ち変えると、その丸い部分の渦巻き模様にそって、指さきを滑らせていきました。
 するとどうでしょう。
 なんとその渦巻き部分がバネ仕掛けのように上方へ開きました。つまり、渦巻き模様のある面は蓋だったのです。蓋の中身は鏡で、それはコンパクトミラーでした。
 この仕組みは、おそらくいまでいう指紋認証のようなものだと思います。
 桃! 百! 桃! 百! 桃!
 そのような文字が、視界のなかの空間に浮かんでは消える!
 脚の動かせないままの男児と、そしてその母親の視野のなかにも、文字は浮かび上がりました。
 異様な光景というしかありませんが、それは事実でした。
 ともすれば、それは網膜に直接焼き付いた像でなく、脳に入った波形のようなものの断片が、視神経を通じて視野にそのような文字を見せているのかも知れません。
 そして少女は柄の先にある鏡面を、母親ではなく、男児のほうに向けました。
「フルーツ・ミラクル! 鏡の刺身!」
 少女が叫ぶや、鏡から桃色の光線が一瞬でのび、男児の上半身を貫通しました。
 母親がとっさに男児の上体を両腕で支えましたが、それはもう無駄でした。
 少女は、首をがくんと反らしたまま苦しんでいる男児を見下ろしながら、
「鬼の童子、なにか言いたいことはある?」
 と問いました。
 すると驚いたことに、男児の顔面が突如おびただしい量の鮮血に染まっていきました。
 いや、それは血ではない!
 男児の顔が、真っ赤な赤鬼に変わっている!!
 見るも恐ろしい2本の角が生え、口からは牙が長くのぞいています。
 そしてその鬼めは、苦悶に唇をねじまげながらも、
「おのれ、このままあと20年は、この女の人生をむさぼってやろうとしたものを……!」
 と、そのような呪詛の言葉を吐きました。
 それを聞いてか聞かずか、少女は、
「爆発」
 こう宣告したのです。
 すると赤鬼の背中からバチバチと火花が勢いよく飛び散りはじめました。
 そして少女の身体が1cmほど横へずれると同時に、鬼は爆発しました。
 あたりに黄色い煙がもうもうとたちこめて、母親には、すぐ近くに立っているはずの謎の少女の姿さえ見えなくなっていたでしょう。
 何分かの時間が経って、猛火と煙がすべて消えると、再び、寄せては返す波濤の音だけが海岸を包み込みはじめました。
 残された母親は、息子の身体のあったあたりの砂をつかんではこぼし、こぼしてはつかみ、狂ったようにその動作を繰り返しています。
「鬼は死にました」
 少女はそう告げました。
 告げられた母親は、糸で操られているかのように、機械的ともいえる機敏さですっくと立ち上がりました。
 そして、昼間に自分が引いてきたリヤカーを今度は押すようにして、少女へ向かって突進してきたのです。
「死ねい!!」
 しかし少女は身をひるがえして、突進してくるリヤカーを避けました。
 リヤカーは勢いあまって波のなかへ没し、巻きおこった泡のなかで車輪が砂に埋もれ、止まりました。
「ふざけるな、ろくでなし、悪魔! あんたが鬼やろ、鬼やろあんたが! 人力車に頼んでひきころしてやる、馬車でもいいわ!」
 母親は泣き叫んでいました。
 なんと、その母親の背後に、鬼の息吹が残っている……。
 すでに母は鬼女といえました。
 少女はなみだをながしながら、所持していた小刀を抜きました。
 果実の鏡の力は、まだ人間の細胞を残している者──つまり半鬼と呼ばれていたそうですが、こうした半鬼にはきかぬからです。
 少女はすべてを終えると、赤く濡れてしまった刀を波間に浸しました。
 しかし汚れはなかなか落ちません。
 なんでそんなことができるのですか? 死ぬというのは、意識が2度と再生しないということです。自分が死んだ、生きている、そのいずれもですよ、そのいずれも全く認識できず永遠に停止した状態におとしめたということですよ? 2度と、考えたり、明日はなにしようと考えたり、できなくした、停止が永遠に続く空間に幽閉したということだ。あんた、責任は取れるんですか。
 少女の心のなかで、いままでさんざん投げかけられてきた呪いのことばが再生されました。
 こびりついた血液のように、それはまとわりつきました。
 やつはなぁ、死んだかどうかも分からねえんだよ、停止してるんだから!
 胸の内側でエンドレスに再生される壊れたテープデッキ──それが少女の脳裏を支配する手錠であるなら、少女はそれを水で濡らしてショートさせて壊すかのように、海のなかへ入っていきました。
 そして、叫んだのです。
「わたしは、正しいことをしてきたの!!」
 叫びながら、波のしぶきに身体をゆだねました。
 そう、この少女の名前はフルーツ・ガール桃子。
 わずか14歳で鬼の王国を滅亡させた少女でした。


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*この小説は完全なるフィクションです。実在の人物・団体・地名・書籍名とは、なんら関係ありません。

  令和3年(2021年)3月6日 公開 (2)


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