第3話 「犬に変えられた少年」
仁岸川の流れがせせらぎに変わりゆくとともに、谷もしだいに狭まっていき、上馬場あたりでは明るい田んぼが思い思いに広がっていた平地も、渡瀬あたりまでくると、谷のかたちにあわせて歪んだ田んぼが少ない平地を埋めているだけで、曲がりくねる道のゆく手は、まるで森のなかへと吸われていくように暗く湿っていました。
清沢口と呼ばれる分岐路は生い茂った高い樹々が空を隠す暗い林のなかにあり、ずいぶん昔に建てたらしい傾いた道しるべの根本には白いキノコがいくつも生えていました。
その少年は、そのキノコを根もとからもぎとると、無造作に口へ入れました。
「……まずいキノコだ」
ペッと吐き捨てると、少年はふたたび歩きだしました。
12、3歳の、髪の銀色の少年です。醤油をこぼしたら大変そうな真っ白な詰め襟の洋装に、鞄がわりの負籠を背負っています。これはいまでいうリュックサックみたいなものです。
清沢口からさらに細い道をずいぶんさかのぼって、ようやく西中谷です。道といっても、樹木の生えていないことだけが目印で、荷車さえも通わないために下草に覆われ、迷いやすい場所にはそばの幹に結びつけたロープだけが手がかりという箇所さえありました。
それでも西中谷の村まで来れば、数世帯の林業を営む家があり、井戸やお社もあって里の体裁を成していましたが、少年の目的地は、それよりもさらに杣道へと分け行った、まさに深山幽谷の地というしかない場所になります。
獄平。
それがその地の名です。
獄平……。
その獄平は、山また山の西中谷の村はずれの渓流を渡って、そこから壁のように迫る斜面を木の幹を手がかりに登り詰め、今度は切り立った崖に一筋だけ刻まれたような足場を1時間もたどった先でした。
その苦しい道のりをこえた崖の下に、目指す仙境は見えてくる。
そのはずでした。
うっ、と少年は眼をひそめました。
「滅ぼされてやがるぞ!」
おもわず少年は叫んでいました。
崖の下に白くけむっているのは、静かに光る平和な里の風景ではなく、真っ黒な泥に覆われたように黒ずんだ焼け跡だったのでした。
少年は急な斜面を一気にかけおりましたが、もう大変な状況で、里はカッチャカチャでした。家屋という家屋は焼け落ち、鳥居は倒れていますし、石を積んだ垣はもう粉々に崩れています。一段高いところにある、道場だったらしい瓦ぶきの屋根も無惨に潰れ、中央部がへこんで、いまにも音をたてて崩れ落ちそうでした。
「なんだ、滅ぼされてやがる!」
少年は負籠をその場でおろすと、なかから、さらしに巻かれた何かをガボーンと取り出しました。
それは出刃包丁でした。
そしてそれを握ると、高い声で吼えだしました。
「くそぉーっ!!」
くそぉーっ、くそぉーっ、くそぉーっ、くそぉーっ、くそぉーっ、そうこだまのように叫び声が反響します。
「オレ様の目的、最強のやべえー武人の村で、ケンカして日本一になってやろうと思っていたのによ! くそぉーっ!」
少年は包丁を天にかかげて吼えました。
くそぉーっ、くそぉーっ、とこだまが響き渡ります。
ひとしきり感情を発露しおわり、落ち着きを取り戻すと、少年はあたりを包丁片手にうろうろとさまよいだしました。
そのあたりで、不思議なことに気付きました。
なぜ、これだけ無惨にやられているのに、遺体はひとつもないのか。
骨さえも落ちていません。
少年がワン! と吼えそうになって飛び退いたのは、村の中央あたりでした。
村の中央の、いまは黒く汚れた沼のような水場のほとりに、もとは花畑だったのでしょうか、花のかたちをした炭が焦げて黒いドジョウの蒲焼きのように立ち枯れし、いくつも連なっています。
そこに、です。
なんと、その黒い花畑のなかに、人が倒れていたのです。
まだ子どものように思われました。
あおむけに倒れているその子どものからだは、真っ赤な長羽織りと、桃色のかすりの着物に包まれていました。
その胸のふくらみかたからみて、性別は女と見てよい……。
つまり少女でした。
袴からのぞいた白い素足はつやつやと光っており、草履のさきに爪が貝殻のようにそろっています。
無傷のように見えました。
顔色も、死人のそれとは明らかにちがいます。
閉じられた睫毛が、さらさらと風に揺れている。
「生きてやがるのかよ?!」
近づくと、その唇はあわく濡れているようでした。
やはり死人には見えません。
少年は、思わずその唇に自分の唇を押し当てようとしました。
そのときです。
少女の目蓋がカッと開かれました。
少年は、おもわずワン!と叫んでのけぞりました。
少女は、ゆっくりと上体をおこすと、手のひらで自分の着物のかすりの紋様をなでながら問いました。
「あなたは……鬼?」
少年はなにも答えられませんでした。
よく見ると、紋様は桃のような形をしています。
少年は必死に首をふるだけでした。
しかし、ただ臆病さだけを表明するだけなのも淋しい……。
少年は弁明をはじめました。
「俺が鬼かよ!」
少年は自分の頭の銀色をしたつむじを少女に見せつけました。左巻きです。
「見ろよ、角はない……」
少女がうなづいたのを見て、少年は、
「大丈夫なのか?! この村はなにがあったんだ?!」
と問い直しました。
「里は……ほろんだ」
少女はまるでNHKのアナウンサーのように冷静に、そう告げました。
少年はもう反射的に、なにっ?! と叫ばん勢いの剣幕になって、
「鬼か?!」
と問いました。
しかし、少女は意外にも冷静な様子で、
「わたしが、ほろぼしたのよ」
そのように告げたのです。
「お、おまえが?!」
少年は後ずさりしながら、汗ばむ手で包丁を握り直しました。
「おまえは鬼か!?」
「わたしは桃子……あなたは?」
「俺は金子だ、金子猫一郎だ! 最強の格闘家だ!」
「この鏡を見なさい」
桃子と名乗った少女は、羽織の内側から柄のついたペロペロキャンディー状のなにかを取り出しました。
ペロペロキャンディー状といいましたが、本当にキャンディーであるかのように、柄のさきには赤と黄色で渦巻き状になった丸いものがありました。大きさはちょうど回転寿司屋の皿くらいのサイズでしょう。
桃子はその渦巻きにそって、指さきを滑らせていきました。すると、その渦巻き部分がバネ仕掛けのようにパカッと上方へ開きました。渦巻き模様のある面は蓋だったのです。中身は鏡で、それはコンパクトミラーでした。
桃! 百! 桃! 百! 桃!
そのような文字が、少年の視界のなかの空間に浮かんでは消える!
これは網膜に直接焼き付いた像でなく、脳に入った波形のようなものの断片が、視神経を通じて視野にそのような文字を見せているのかも知れませんでした。
そして桃子は、手に持ったコンパクトミラーの鏡面を金子少年へ向けました。
鏡に少年のうろたえる表情がうつしだされるや、ビャーッ! と光が広がって、少年の身体はその光に包まれ、みるみるかわっていきます。
「これがフルーツ・ミラクル! 鏡の太平洋、ミラクル・ミラー!!」
桃子は呪文のように、あるいは歌うように、そのような内容を口にしました。
おう、驚くべきことに、光がやむと、桃子の手にした鏡のなかに1匹の白い犬がうつっていました。
白い犬は、鏡の正面で、鏡のなかと同じ動きで跳ね回っています。
桃子はその犬の喉元をなでました。
犬は、ワン、ワンと不服そうに吠えています。
「たべな……」
桃子は、これも羽織の内側から竹の皮の包みを取り出すと、指さきを使って紐を解きました。
ぽってりとした黒いあんこのかたまりが竹の皮に包まれていました。
桃子はそれに爪楊枝を刺すと、たくみにすくい取りました。
黒いかたまりはあんこだけかと見えたのですが、下には餅がありました。
これが、一名「きびあんころ」と呼ばれる餅菓子です。
桃子は、そのお餅を犬の鼻先にさしだしました。
犬はパクっと食いつくと、もちもちとたべはじめました。
「やはり人間に変えられていたか……」
つぶやく桃子に、犬はくーんくーんと鳴きながらすり寄りはじめています。
「くるかい?」
犬はワンワンと鳴きました。
桃子は、その犬を抱き取ると、北の方角へと歩きだしました。
もちもちもち……。犬は無心にきびあんころを食っています。
その頃──剱地はるか沖の日本海に浮かぶ孤島、能登鬼ノ島には、不気味な万歳三唱が波濤さえ打ち消さんばかりに響いていました。
『鬼の城 落成修祓式』
そのように墨書された大看板が、紅白に彩られた式典幕の中心で誇らしげでした。
レンガや漆喰の色も真新しい新築の城のエントランスを、満足げに見上げるのは見るもおどろおどろしい鬼ども……。そしてその一団の先頭に立つは、ひときわ黒き禍々しい2つの影。
これこそが鬼の世界の最高権力者である大魔王と、ナンバー2の立場にある首席助役ペッぺでした。
鎧に身を包んだ黒く巨大な鬼が、鬼の大魔王。並みの大人の人間の身長をはるかに超えているであろう、約250cmもの巨体は、ひどくずんぐりしてもいるため、鬼というよりももはや黒い山のようでした。
これが鬼の魔王でした。
そしてその横でヘコヘコと立っている、ネクタイを締めたスーツ姿の、痩せて棒のようなのがナンバー2のペッぺです。
「いや、島で秘密裏に建設が進められていた鬼の城が、ついに完成したわけですな。これも大魔王閣下の力の賜物でありますな」
ペッぺ首席は、上目使いで大魔王を見上げながら、かしこまった口調でそう言いました。
あまりに痩せた体躯のうえ、1本のみの角が非常に長いため、シルエットがやけに細く、まるでマッチ棒のように見える鬼です。
が、そのような風貌であるからこそ、このようにナンバー2の椅子に座ることもできた男であったのかも知れません。
大魔王と居並んだとき、あたかも主君の巨体と対称を成すかのような痩身は、大魔王の威容をことさら引き立てることができるでしょうから。
「各地に潜入しておる鬼どもも、この魔城の完成を知れば、さぞやニンゲンども討伐への士気が上がることでしょう、奥能登統一の日はもう目前ですな?」
そのようにペッぺは言い、ホッホッホとわざとらしく笑いました。
大魔王は、
「そうじゃな……」
と、それだけの返事でしたが、その威厳ある口調は決してまんざらでもなさそうでした。
集まった雑兵らしき鬼どもが、再びバンザーイ、バンザーイと掛け声をあわせました。
魔城は島それ自体を埋め尽くすかのようにして築かれ、あたかも海原に浮かぶ巨大な戦艦であるかのようでした。
まさに難攻不落、天然の要塞、鬼の魔城が奥能登に完成してしまったのです。
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