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017−2

僕は女の子よりカツカレーの方が好きだ 第2


 ホ.

 トレーニング・ルームへの渡り廊下の、わずかな傾斜のある床をとんとん踏みしめ、劇のケイコ場である柔道場へと小走りぎみに歩いていると、ツンと溶剤のニオイが鼻をついてくるのに気が付いた。リウヤは一瞬ぎょッとしたけれど、歩いていくにつれて、納得した。白いエプロンを着た生徒たちが、体育棟の風とおしの良い露台をつかって、立て看板にペンキを塗っている。
 ちらっと見ながら、けれども歩みはとめず、すぐに立ち去ってトレーニング・ルームへの道をいそいだけれど、リウヤの胸のなかでは、ああ、文化祭なんだという思いがおさえきれずに躍っていた。あと二週間。二週間もない。
 舞台への不安が呼んでくるものだろうか、かるい焦燥がリウヤの胸を焦がした。そうでなくとも、文化祭というまつりは胸をときめかせるものなのだから、なおのことだ。
 お祭り騒ぎがさして好きなほうでもないリウヤではあるけれど、文化祭は、きらいではなかった。まつり本番もさることながら、こうした準備期間の、なんとなく気ぜわしく甘い切迫感にうごかされる日々。作業をとおして、クラスじゅうのみんなと気兼ねなくはなせるようになったり、これまで知らなかったほかのクラスの人と知り合えたり。それはたのしいことだと思う。ましてや今年など、劇のステージに立つのだ。ケイコをかさねることによって、ふだん顔くらいしか知らなかった生徒たちの意外な熱演や、係りとしての活き活きした働きぶりを目にすれば、そうか、自分もがんばろうというモチベーションがわいてくる。
 文化祭というおまつりはそして、夢さえも見させてくれる。だいたい、リウヤにとって自分が劇の舞台に立つことじたいが、ふだんからすれば、まったく考えも及ばない夢物語だ。それだって夢のひとつだし、そして。
 リウヤはきゅっとカバンの持ち手をにぎった。
 あぁ、柔道場のとば口に立つだけで、何十人の群衆のなかから、どうして一目で見つけられるんだろうか。少女はセーラー服のリボンをゆらしながら、誰かにぺこんとおじぎしている。
 リンゴ。梨郷サトリ。
 リンゴに出会うことができて、知ることができて、そして、リンゴのよこで演じていられるのなら、それだけでもまさに夢、だ。
 そんな風に思ってしまう自分に途惑いながら、リウヤは上履きを脱いで歩いて行った。
「枯渕さん、」
 呼ばれて、リウヤは足を止めた。胸のあたりがうずく。紅茶をひとくち含んだような、甘く、にがい感じがする。
 リンゴがこちらへ歩いてくる。にげだしたいような、面はゆいような気がして、とっさにうつむいてしまった。セキするときみたいに、折ったこぶしを口元にあてる。顔があつくて、満足に相手の顔も見られない。
「おひとつどうぞ、」
 すっと、うつむいた目線のさきにカンカン箱が差し出された。見れば、金属のしかくい容器のなかに、こんがりキツネいろのクッキーが詰まっていた。
 リウヤは、きょとんとしながら顔をあげた。リンゴはにっこりわらっていた気がする。気がするというのは、顔がひどくあついために、結局すぐに目線をそらしてしまって、一瞬しか見られなかったのだ。
 ひとつひとつ形が揃っていないところを見ると、クッキーは手作りかもしれなかった。リウヤは、さぁっと高ぶってくる気持ちをおさえつけながら、遠慮がちに、いいの、と訊いた。リンゴは三回くらいこくこくこくとうなづいた。
「じゃあ。い、いただきます。」
「どうぞ、」
 指さきでつまんだ焼菓子は、さくりと歯にあたって、くだけると同時に舌のうえでとけた。おいしい。これをリンゴがあつらえたのだろうか。すすめられるままに、もうひとつ口にいれた。今度は香ばしい味が口のなかにひろがった。
「いかが?」
「おいしい。おいしいよ。」
 リウヤはうわずったような声で感想を云った。リンゴは、じつはおかぁさんが焼いてくれたんです。劇のみんなに、って。と、そう云うと、頬にえくぼをつくってわらった。
 リウヤはまた下を見るようなかげんになって、ありがとう、おいしかった。とつぶやくように繰りかえした。リンゴは笑って、さっき誰かにしたようにペコリとおじぎすると、こちらに手を振りながら行ってしまった。べつの生徒にも声をかけて、箱をまわしている様子だった。
――そりゃ、そうですよね。
 リウヤには、淡い期待のようなものが無いでもなかった。もしかすると、自分への贈り物なのではないかと思いながら、クッキーに手をのばしたのは事実だった。そんな風に思ってしまった自分が、いま、ひどく滑稽に思える。あまりにも虫の良すぎるはなしだ。自分とリンゴは、しょせん学年劇で共演するだけの仲である。そのために仲良くなれたように錯覚してしまっただけで、まだ友達ですらない。ましてや――、
 リウヤは大人びた溜息をついた。
 遠巻きにして、ようやくリンゴの姿をまともに目にできる。いまは背を向けて誰かと話しているけれど、近くにいては、背中だって見ていられないのではないかと思う。意識しているな、ということだけは意識していた。おちつきはじめていた呼吸が、またはやまってきた。
 スキになっていくほど、顔が見られなくなる。ほんとうに、馬鹿みたいだ。さっき、リンゴはどんな表情をしていたんだろう。いまもおなじ顔してるんだろうか。ほかの誰かにむけて親しげに微笑んでいるであろう彼女のうしろ姿を、リウヤは遠くから見つめていた。

「それそれ、キミたち、あそんどる場合じゃないよ、練習をなさい、練習を。本番は近いんだから。それそれ、さぁさぁ、」
 カン高く、それでいてよどんだような、つまりイヤミな声が、畳張りの柔道場にひびいた。紺のベストにネクタイしめて、分厚いメガネにポマードあたまの五十男が、サンダル脱いでどかどかと上がりこんできた。切久保という、技術科の教師だった。この教師が、きょうの"エグゼクテブプロヂューサー"らしい。
「それそれ、キミたち、云っとるだろう、あそんどらんと練習を、ケイコをしたまえケイコを。いかんよ、怠惰は。怠惰は身をほろぼすという言葉が……、それそれ、キミだ、キミ、なにしておるか。のんきにお話し、お話ししとる時間じゃないですよ!」
 べつにその生徒がとくべつ目立つというわけでもない。たんに目にとまったというだけのことで、いわば見せしめのために、その生徒をえらんだらしい。大きな声だして、ねちねちと詰問しはじめた。
 カントクの尾神が、見かねてとんできた。
「先生、いいですよいいですよ。号令かけますから。……おい、みんな、やるぞやるぞ!」
 尾神がメガホン片手にさけぶやいなや、切久保先生が大声だしても全く静まらなかった劇団員たちが、ただちに静まって、あつまってきた。
「ほおう、尾神くん、キミもたいしたもんだね。えらいえらい。キミ、教師になったらいいんじゃないかな。ずいぶん頑張ればなれんでもないよ? ……で、それじゃ、キミにまかせてもいいのかな、ン?」
 切久保はもったいぶったような口調で云った。尾神はおそらく、余計なことをするな、オレに任せておけばいいんだ、とでも云ってやりたいところなのだろうけれど、相手は教師という手前、わかりました。と控えめにこたえた。普段はいつもの"いいよいいよ"だけのような男だけれど、そのくらいのわきまえは持っている。本質的にはかしこい少年である。
 尾神はメガホンでポコポコてのひら叩きながら、さっそく指示をだしはじめた。その間隙をぬって、切久保は腕組みしながら、せせこましく茶々を入れてくる。云わずもがなの内容が大半だった。おかげで、きょうはいつもの調子がくるったか、みんなの凡ミスが普段より多かった。
 いつものユーレイ服に袖を通して、ひとしきりの通しゲイコを終えたあと、大半の生徒が予想した通り、切久保から講評があった。講評と云うが、つまりナンクセ付けである。役ごとに、ひとりずつに対して、いろいろねちっこく注文をつけた。金沢なまりが抜けておらずドロくさい、女子の声の出し方が蓮っ葉すぎる、ポケットに手をつっこむ演技は気に食わない、など。べったり七三分けのこの教師には、たいそうなコダワリがあるらしく、尾神が指示しての演技や、ほかの先生のアドバイスによって加えられた演出にも、そうと知ってか知らずか容赦なく注意を加えた。
 リウヤに対しては、ユーレイ役でありながら声が高すぎる、恐ろしみがない。とケチがついた。リウヤはまだ変声が終わりきっていない。高すぎる、と云われても困る。どう低くすればいいのだろうか。ほとんど中傷といえた。
「……だいたい、ふだんから低い声をだす練習が肝心だよ、キミ。そら、もっと低い声は出ないか。土手でだね、大声だして練習でもしなさい。」
「……はぁ、」
 リウヤは、リンゴのすぐ隣りでそんなことを云われることに、ひどく気を悪くしていた。ポマードがにおう近さでネチネチ云ってくる切久保に対して、リウヤは生返事をかえした。リンゴには幸いナンクセが付かなかったが、そのことがリウヤ自身のバツの悪さを増幅させもした。もっとも、切久保がリンゴに対してツベコベ云おうものなら、居ても立ってもいられないことになった気もする。自分が責められる以上に辛いだろう。
「ハラから声をしぼるようにして、もっとドスきかせてだよ。腹筋をつかう。オナカに力こめて、その力で声を出す。ノドの問題じゃないのだよ。枯渕くん、キミはねぇ、曲がりなりにも六組の委員長なんですから。もっと堂々と、堂々とですね……、こういうのは気持ちの問題ですから、」
 ムッとはしつつも、まぁオナカに力をこめて……というアドバイスは、アドバイスとして素直にきけた。先生という第三者の意見として、貴重なことにかわりはないし、不愉快な部分ばかり気にしていても、仕方がない。委員長うんぬんの不愉快な蛇足は聞かなかったことにして、腹筋から――、と、台本へカキコミを走らせた。
〈――字、きれいですね。〉
 えっ、と思って顔をあげると、隣からリンゴが台本をのぞきこんでいた。
〈……字? ぼくの、〉
 リウヤがささやきかえすと、リンゴは微笑しながらうなづいた。
 リウヤはそれでもう、自分でなにを書いているのかも覚束なくなってしまった。
 字、きれいですね。
 ジ・キレイデスネ。
 字?
 字ってぼくの字? きれいって……。
 リウヤはぼんやりとあまい心地に酔っていた。おそらく、相当、これっていうのは、スキなんだろうな、リンゴを。そうでなくては、こんなことで嬉しくなんてならない。
 それから、リンゴに問われるままに、ひとことふたこと、ささやき声でなにか会話をしたけれど、なにを話したかは、リウヤの心にほとんど残らなかった。ただ、言葉ひとつ口ずさむたびに、自分のなかの温度が上昇していったことだけは憶えている。
 かえり道、リウヤは雪薙駅前の本屋に寄って文庫本を一冊買った。リンゴが、その小説を好きなのだそうだ。それは彼女がともだちと話しているのをぬすみ聴きして(わるいとは思ったけれど)、偶然知った。すこしでも心を寄せてみたいから、だから読もうと思う。


 ヘ.

 チャイムが鳴ると、廊下を伝って隣りのクラスの椅子の音がガタガタ聞こえてくる。かじりついていた計算問題から顔をあげると、先生が、じゃあ今日はこれで、と云ったので、リウヤはそれを合図にいつもどおりの号令をかけた。委員長は損な役目だ。こういうとき、いちおう起立しながらもうつむいて問題をつづけるという技が使えない。数学の問題を七、八問のこしたまま、休み時間がきた。
 リウヤは戸をくぐって教室へ入ってくるサクセの顔をみつけた。ながい前髪の切れ目から鋭い眼をのぞかせる表情は、遠目からでもすぐに誰か分かる。放課後まではみだりにほかのクラスに入ってはいけない決まりになっているのに、サクセは平気でリウヤの机までやってきた。それも、先生のかたわらを堂々と素通りしてである。リウヤは終りきらないままにしがみついていた計算問題のノートを閉じた。
「よぉ枯渕、」
「サクセくん、ダメだって。」
「ダメって何が、」
「規則、規則。」
「そんな何の意味もないモン、気にするな。」
 サクセは一蹴するように云うと、いきなりリウヤのオデコをぴん、とはじいてきた。不意打ちを喰らったリウヤは眼をつむって痛がりながら、不満げな表情をあらわにしてみせたけれど、内心、規則に何の意味もないという意見には同意だった。
「――どうだ、なんか面白いことないか、」
「うん……、あるって云えばある、かな。」
「どんなこと、」
「云うから、髪の毛さわらないでよサクセくん、」
 サクセは放っておけばすぐ、リウヤの髪の毛を勝手にさわって、指に絡めだす。くせッ毛の髪をさわるのが好きなのだそうだ。さらさらやらかい、いい手触りだとサクセは云ったものだ。坐ったままのリウヤの髪の毛を、サクセの指さきが透かすたび、洗髪料の香りが舞う。リウヤにすればイヤではないにしろ、恥ずかしかった。女子だって見ている。
「このネコっ毛、カネになるよな。」
「……ならないよ。」
 リウヤがあきれ半分、拗ねが半分で返すと、サクセはちぇッと舌打ちした。
「面白いことあるって云ったな、なんだよ、」
「うん、リンゴが、きのうね、」
「……ん、」
「ぼくの字がきれいだって云ってくれたんだ、」
「ふん、」
「クッキーもね、くれたんだ。」
「ふーん。」
「リンゴは演技がうまくってねぇ、」
「ふーん。」
「切久保がね、みんなにナンクセ付けてたんだけど、なにせリンゴにはなんにも文句云わなかった。」
「ふーん。」
 気のない返事の連続だった。サクセの喰いつきが悪いのは、きょうに限ったことでもないけれど、しまいには舌打ちまでされたので、リウヤはもう黙ってしまった。
「それで、おわり?」
「おわりだよ。つまらないんでしょ。」
 拗ねているのが丸分かりな云いかただった。リウヤは自分でも子供じみていると思ったけれど、それでもしばらくのあいだ黙り通すと、サクセがふいに笑って、机のうえに目を落としたままのリウヤの顔をのぞきこんできた。笑うといっても彼のことだ。片頬をゆるませるくらいの表情ではある。気まずいムードを掃うために、無理して笑ってみせているふうに見えなくもなかった。こういうサクセの努力には、妙に胸を打たれるものがある。リウヤにしても、ゆえなく険悪になることを望んではいないので、ふくれっツラはそれきりでお仕舞いにした。
「枯渕、きょうも、ケイコ?」
「うん。」
「なら、終ったらカツカレー食いにいこうゼ、」
「えっ、また?」
 リウヤは驚いてサクセを見上げた。いつもむすくれた表情をしがちな少年は、笑顔はもうとっくに片付けて、やっぱり不機嫌そうな瞳で自分を見ていた。
「イヤなのか。」
「だって昨日の今日じゃない。」
「カレーは毎日喰ったっていいんだよ。」
「でもさ、」
「おまえな、つべこべ云うのなら、カレーの唄をうたわせるぞ。」
「……え?」
 サクセがブレザーの内ポケットから生徒手帳をとりだして、あいだに四ツ折に挿んでいたちいさな紙をリウヤの鼻さきに広げた。
 手にとって、読んでみる。


    <カレーの唄>

 作詞・作曲  初引サクセ

  1. マヨかけまくって 
    うめぇうめぇ
    Lカツ くって
    ドンとせー ドンとせー

  2. くりかえし

  3. くりかえし



「………………。」
「うたわすぞ。」
「………………。」
「うたわすぞ。」
「………………わかった。」
「よし。」
 待ってるからな、とサクセが云ったところで、ほかの生徒が、よぉサクセと声をかけてきて、リウヤの机の前で立ち話がはじまったので、カレーについての会話はそれで終った。サクセは人気者だ。けっこう誰からも好かれている。少し素っ気なくはあるけれど、きれいな顔をしているので、男子だけでなく女子からも人気はあった。カツカレーを食べに行くにしても、べつの相手はいくらでもいようものだが、それなのになぜか、お供はいつもリウヤなのだった。
――それにしても、この唄ってメロディはどうなっているんだろう。
 リウヤは、ふと、そんなことを思っていた。サクセと生徒が、誰それのムネはでかいとか話しているのには加わらなかった。

 つぎの授業は理科だった。リウヤはサクセたちとの井戸端会議をキリのいいところで切り上げて、教科書とノートとプリントフォルダを手に、第二理科室へ向かった。
 廊下を歩いている途中、四組の前のあたりでリンゴを見かけた。一瞬、胸がときめいたけれど、見かけただけで、ちいさい挨拶でもしてすれちがうだけだろうな、ともリウヤは思った。
 距離がちかづく。
 距離がちかづく。
 距離がちかづいて、リウヤはうつむく。
「枯渕さん、」
 リンゴの声だった。うつむいた顔をわずかに見上げた。少女の制服の赤いリボンだった。
「まがってます、校章。」
「えっ、」
 リンゴはリウヤのブレザーの襟にためらいなく指さきをのばした。しろい指さきが校章をただしてくれるのが、リウヤの視界の隅でスローモーションのようにうつった。一瞬のことに眼をくらませながら、リウヤは脚をふるわせた。身を固くしてこぶしを握っていると、行きどころを失くしたふるえは膝のあたりに伝わってくる。
「――、あの、」
「おなじ白いひと同士のよしみ。ってことで!」
 リンゴはそう云ってにっこり笑った。
「あ、――」
 りがとう。と続く言葉もろくに出てきてくれない。目線をうつろわせ、ためらいがちに戻す。舌がろくに動かないことに困っているうちに、リンゴの言葉がさきになった。
「――きょうは、サクセくんと一緒じゃないんですか?」
「え、」
「いつも一緒だから。きょうはちがうのかなって。」
「うん……、いまは、クラスもちがうし。」
「そうですか。」
 そうですよ。
 と、いたずらに口調をまねて返そうかと思いついて、やめた。ひょうきんな言葉をかわすほど仲良くもないのだ。たとえこちらがどう思っていようと。
「――それじゃ、あとで、」
 云いのこして、リンゴは行ってしまった。あとでというのは、もちろん劇のケイコのことである。
 リウヤはキツネにでもつままれたような顔できょとんと廊下に立ち尽くしたまま、たかまる鼓動をおさめるいとまもなく、小柄なうしろ姿を見ていた。その背中は、休み時間に廊下へくりだす生徒らの人影に、やがて埋もれていってしまったけれど、リウヤは校章にそっと手をあてたまま、黙ってずっと見守っていた。
 サクセのこと、知っているんだな、と思った。それだけでなく、自分とサクセが仲良くしていることを、どうして知っているのだろうか。すこし首を傾げさせることのように思えたけれど、まぁでも、それはどうでもいいことだった。
 あぁ、なにか、こちらから続けて声をかけられれば良かったのに、それだけのことに息がつまって、ままならない。もう見えなくなってしまったリンゴのうしろ姿へむかって、リウヤは胸のなかで繰り返し呼びかけた。


 ト.

 六限目が終って、ながい終礼も終って、放課になった。リウヤは机の中味をカバンに仕舞って、かるい足取りで教室を出た。
 じつのところ、放課後がたのしみでたのしみで仕方がなかった。もちろん劇のケイコそのものが楽しみなのではなくて、リンゴに逢えることが楽しみなのだった。考えれば、そのための学校生活といってもいいほどに、いつの間にかリウヤのなかをこの時間が占めていた。
「なんだ、この手紙は!」
 まっしろいユーレイの装束で、リウヤが腕をふりあげ、出ない声をふりしぼって怒鳴る。おなじ姿をしたリンゴも、たくみに声をだして主人公の少女をののしった。これが、白いひとの役割だった。リンゴが人をののしる台詞に声を張りあげることには、劇とはいえ悲しくなってくるけれど、カントクは、いいよいいよと相槌打ってうなづいている。演技はたしかだった。
 少女が書いた恋の手紙を、心象風景のユーレイたちが声にだして読み上げて罵倒するというのが、リウヤたちのシーンだった。
 手紙か、とリウヤは思う。手紙なんて、書けるだけ良い。自分などは手紙すら書けないでいる。手紙を書くだけにしても、それなりの間柄は必要なのだ。
 もし、たとえばリンゴに手紙を書いたら、さて読んでくれるだろうか。気持ち悪がって、封も切らないかも知れない。読んだところで、やぶって捨てられるかも知れない。そんなコトする子じゃないとは思うけれど。しかし、それにしても学年劇で共演しただけなんていう理由で手紙を出せば、たとえどんな内容にしろ唐突に思われるだろう。
 出番が終ったあと、そんなことをボンヤリ考えているうちに、ラストのシーンがはねて、ふと場の緊張した空気がほぐれた。
 休憩中、リウヤは共演者としてのリンゴと演技の打ち合わせを二、三した。主人公の少女をユーレイ二人でそしる場面においての、立ち位置についての相談だった。こんなことでも、リウヤにとっては二人で話ができるということにかわりはなく、幸福感を味わっていたものだ。ところが、それはカントクさん(尾神のことだ)に訊いてみないとわかりませんね。とリンゴが静かに云ったところ、それをどうして聞きつけたのか、尾神がメガホン片手にいいよいいよ、どうした、とやってきて、あとは三者での相談になってしまった。
 挨拶だけでなく、演技の会話だけでなく、もっと話しをしたい。それなのに、それだけのことなのに、それができない。劇のケイコも終ってしまえば、微笑む横顔に声すらかけられない。
 その日も、なんということなく終ってしまった。


 チ.

 ケイコが終わって、すっかり暗くなった道を、リウヤはサクセといっしょに自転車を走らせている。行く先はもちろん、カツカレーのあの店。昼間の約束である。
 サクセは寒いなか、カレー、カレー。と静かにつぶやきながら、今夜もエントランスで待っていてくれた。リウヤに気付くと、なぜか舌打ちしてから、よし、行くぞと云って自転車を転回させた。サクセが舌打ちする基準は、リウヤにもよくわからなかった。不機嫌なときにするとも限らない。うれしいとき、たのしいときにも舌打ちする場合がある。
 自転車を競うように走らせながら、二人はぽつりぽつりと話をした。
「リンゴね、サクセくんのこと、はなしてたよ。」
「なに?」
「リンゴ、サクセくんのこと知ってたんだね。ぼくに、きょうはサクセくんと一緒じゃないのかって。」
「――ふーん。」
「クラス一緒だったことってあったっけ?」
 自転車が切っていく風にふかれて、サクセの髪の毛がふわふわ暴れる。リウヤのネコっ毛とは対照的に、まっすぐな髪だった。
 サクセは質問にこたえなかった。リウヤは返答をまちながらペダルをこいだけれど、そのうちにスパイスのかおりが風に飛んできて、まもなく、行く手に黄色のネオンのカレーの店がみえてきた。

「マヨネーズ。」
「マヨネーズー。」
 Lカツカレーの食券を手にして、今回はリウヤも忘れずマヨネーズがけを頼んだ。わくわくしながら出来あがりを待つ。特大サイズのコップの水をごくごく飲む。厨房のなかでは、銀の皿にライスが盛られ、あとはカツの揚がるのを待つばかりだ。フライヤーの前でカレー職人が腰に手をあてて、揚がり具合を見計らっている。
 どろりとルウをかけられ、カツが載り、キャベツを添えられたカツカレーは、いつもの黒い中濃ソースとともに、白いマヨの帯を添わせて、二色の装いでやってきた。
「わぁ、これがマヨネーズかー。」
「そう。これがLマヨ。」
 ではでは、いただきます。
 カレーを喰いはじめると、例によって口数が減る。フォークをつかうカツカツという音がだけがしばらく響いた。
 一口ほおばってみて、リウヤはにっこりした。まずはやみつきになるカレーの味だった。独特の、この店ならではルウの味は忘れられない。忘れられなくするパンチが効いているのだ。舌さきに辛くはないが、深みがある。ノドにのみこんでしまったあとで、ピリリとスパイスの味が口のなかに残る。
 問題のマヨネーズは、マヨの味が自己主張すると云うことはなく、あくまでソースとともにルウを補佐することに終始しているようだった。調味料とは味を調える材料と書くけれど、マヨが味のとがった部分をまるく調える役目を果たしているのだろうか、いくらか、まろやかさが増している気がする。
 それと、きょうは衣がとくべつサクサクしていた。いつもサクサクしているけれど、きょうはスナック菓子的なクリスプさがあった。たのしい食感で、わるくはない。しかしサクセの評価は、こうだった。
「かたすぎる。」
「かたすぎる?」
「かたすぎると、調和がくずれるな。」
「なるほど。」
「ルウが汁っぽいのなら合うかも知れねぇけど、この粉っぽいルウに、かたい衣は合わん。」
「あ、たしかに。」
「けど、まぁそういうこともあるな。スタンプみたいに毎日同じ味じゃないところが良い。」
「それはいえる。」
「Lカツはな、店によって味がちがうんだぜ。牛丼屋みたいに、みんな一緒じゃないんだ。で、そこがまた、いいんだよな。」
 サクセは福神漬をトングで大量につかみながら云った。いつになく饒舌だった。
 リウヤも真似をして、手をのばした。円筒状になった金属製の小型寸胴に、福神漬がてんこ盛りにつまっている。それを、どう考えてもそぐわない大きさのトングでわしづかみにする。必然的に大量の福神漬を器に盛ることになってしまう。福神漬はもちろんサービスだけれど、サービスにしても太っ腹だ。
「マヨ、いいだろ。」
 サクセがまたつぶやいた。
「うん、いい。」
 粉々したルウが、マヨのおかげでまるい舌ざわりになる。そしてまた、カツの肉の味に合う。思いもよらない絶妙さだった。
「マヨネーズがけなんて、誰が発明したんだろ。よく思いついたよね。」
「オレが思うにはな、」
 サクセがのってきた。フォーク片手に語り始める。
「キャベツあるだろ、この。これに、はじめはマヨネーズをかけようとしたヤツがいたんだろうな。」
「うん、」
「それが、かけるときに手がすべって、こうやってマヨがカレーの上にまでかかっちまった、と。」
「あ、なるほど。」
「で、喰ったら意外といけたんで、そいつはそれからルウの上にかけるよう注文しだして、ほかの客もみんなマネしだしたと。」
「なるほどー!」
 リウヤはけっこう本気で感心していた。サクセくん頭いいね、と云って、ご褒美とばかりにポットのお冷やを彼のコップに注ぎ足してやった。サクセはウムとうなづいて、ごくごくっと水をのんだ。
 サクセの説が核心を突いているかどうか、さだかではない。カウンターのなかのカレー職人は、中学生二人の会話になど耳をかすことなく、黙々とカツを切るばかりだった。
 帰り道、カレーに火照った身体を夜風に吹かれながら、自転車を走らせた。揚げたてのカツを頬張ったおかげで、口のなかの粘膜がやぶけて、ひりひりしている。リウヤは舌さきでそのあたりをなぞった。しょっぱい味がする。
「なっ、やっぱカレーだろ?」
「うん!」
「うまかったなぁ。」
 ちょうど交差点で赤信号にかかったので、ブレーキをかけて、二人ならんだ。ちらっと横を向くと、サクセは屈託ない笑みを横顔に見せていた。眼を糸にさせて、綺麗な弓を描いている。うすい唇も、それに相対する弓のかたちだった。サクセがこんな風に笑うのは珍しいな、とリウヤは思っていた。



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   平成18年(2006年)3月13日


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