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017−3

僕は女の子よりカツカレーの方が好きだ 第3


 リ.

 めざまし時計の音によってではなく、しぜんと眼が醒めて、しばらくリウヤはボンヤリふとんのなかにいた。ひどく切ない夢を見た気がする。それがどんな夢だったか、一ど二ど思い巡ってみるけれど、もうはっきり思い出せない。ただ、途中で泣いたことだけは憶えていた。なにか切ないことと出会って、夢のなかで、おもわず眼をぬらしたはずだ。それなのに、いま目蓋をこすってみると、そこはかわいていて、かえってそうしたことによってはじめて涙がでた。
 きょうは土曜日。壁にかかったカレンダーの数字を追いながら、休みか、とリウヤはつぶやいた。
 のびをする気にはならなかった。掛けぶとんの端からでた素足の指どうしをこすりながら、生あくびした。
 休日をうとましく思うのは、はじめてのことだった。
 休日は、いままでならば、待ち遠しく、たのしく、そして去りぎわは淋しく、去ってしまったあとはふたたび待ち遠しい、そんな日だった。そのつもりだった。それなのに、いま休みの日といえばリウヤにとって、つまりリンゴに逢えない日ということになってしまう。
 リンゴ。梨郷サトリ。あの少女。
 なぜあのひとりを選んでしまうのか、ただ、ほかのだれよりも知りたいと思う。話したいと思う。中学校はつまり、ゴウマンに云ってしまえば、リンゴと自分をつなぎとめる役目をもつ舞台といえた。それが休みでは、せつない。
 カーテンの隙間から、しろく外がのぞいている。あかるくはない。くもり空が広がっていることは想像できた。出掛けたくなる天気でもなさそうだった。
 休みか、とまたつぶやいた。寝起きで声はかすれている。けれど夕方までには声は出るだろうな、とぼんやり考えて、すぐに、休みならきょうは劇のケイコもないことに気がついた。
 学年劇のことは、いまではもうリウヤの意識のなかの大半をしめていた。はじめ乗り気でなかったものが、いまではこうなってしまっているのも、リンゴの隣で演技するという、そのことからのものというしかない。
 休みの日よりも学校のある平日のほうが、一週間のうちの大半をしめるわけだし、学校へいけば劇のケイコがあり、ケイコがあればいつでもリンゴには逢えるのだ。それなのに、たとえ一日や二日だけでも逢えないことがつらい。毎日逢いたい。なんどでも逢いたい。逢ってなにかできるでもないけれど、顔だけでも見たい。それだけでいい。
 ベッドに横たわったまま、リウヤはなにを考えるでもなく、なにを見るでもなく、目線を、ふとんをかぶった自分の身体にうつした。かつて、ほんのちいさい子どもだった自分が、いま中学生になり、小柄といわれながらも、腕も脚ものびて、大人にちかい骨格を持っているのがふしぎだった。
 ふとんのなかの手を、布地のあいだにもぐらせて、ふと、指さきで自分にふれていた。やせた尖端があつかったけれど、じぶんの指さきは慰安だけはもたらしても、それ以上のものはない。性欲は、胸をしめつける心とは関係なくこみあげてくるだけのものだ。それとこの淋しさをむすびつける根拠はない。
 かわいていたはずの涙が、したの目蓋にたまりそうだった。

 リンゴは。
 リンゴはいまごろ、どうしてるんだろうか。
 逢いたいと、リンゴが知りたいと思えば思うほど、リンゴの顔はかすむのだ。


 いつしか二度寝をしてしまったらしく、気がつくともう正午すぎだった。朝にいちど起きたとき、開けずじまいになっていたカーテンのあいだから、こんどは蒼い空がのぞいていた。昼になって、雲はきれいに流されていったらしい。秋晴れだった。
 ひどく、オナカがすいていた。
 リウヤはベッドを降りて、パジャマの乱れた裾をなおしながら階下へおりた。母親がつくりおきしてくれた昼飯が、いつものように置き手紙をそえてテーブルに載っている。メモ用紙の手紙は、いつも同じ内容だ。きょうも案の定、そうだった。それならコピーして毎日つかったって同じだろうと思いながら、ちいさなその用紙をくしゃくしゃ丸めて、冷えた器を電子レンジにかけた。
 そうして飯を喰べてしまったあとは、もうなにもすることはない。じぶんの部屋へもどって、ベッドにねころんだままゴロゴロしていた。もう読み終わった先週号の少年ジャンプをひらいてみたり、読みもしないのに買ってしまった、あの文庫本をめくってみたり。
 けれど。
 ――リンゴはいまごろどうしているだろうか。
 ふとそんなことがまた思いついてしまうと、また思考がそこへと落ちこんでいった。
 リンゴだって、きょうは休みの日なのだ。彼女は、休みにどうしているだろう。やっぱり退屈に過ごしているのだろうか。それとも、有意義な休日(これは中学教師という生物がたいへん頻繁につかう言葉である)を満喫しているのだろうか。
 あいたい。あいたい。―――――。
 無性にリンゴの顔がおもいうかんで、こまった。
〈字、きれいですね――。〉
 なぜか、そんなことばが頭のなかで再生される。
 いつか云われたことばだった。うれしさが再びこみあげて、独りでいるのに頬がほころんでしまう。字がきれいだと云ってくれた、そんなことばを抱きしめている。それだけで自分がなぐさめられるのだ。おろかだろうけれど。淋しいだけでもあろうけれど。
 出かけよう。
 リウヤは思った。もうこのまま家にうずくまっていることは、とてもできそうになかった。それに、街へ出れば、リンゴに逢えるかもしれない。こんなに晴れた休日だ。リンゴは街に出かけているかもしれない。
 そうだ、図書館へ行こう。リンゴなら、あの子なら、休日に図書館へ行きそうな気がする。本好きな女の子なのだから、休日には図書館くらい行きそうだ。そんな気がする。気がするだけなのだけれど、いちど思いこんでしまったら、その考えが引っこまなくなった。
 歯をしゃかしゃか磨いて、気にいりのパーカーにカーゴパンツを穿いて、ノートと筆記用具を容れたクリアケースをカバン代わりに持つ。コートはどうしようと考えたけれど、晴れているし、きょうはいらないと判断した。リンゴに逢える(かもしれない)と思えば、髪くらい洗っておこうかとも思ったけれど、そこまでするのはやっぱりやめて、スニーカーの紐をむすぶと、クリアケースをひっつかんで、さっさと玄関のドアをあけて出ていった。


 ヌ.

 大通りから一本はずれた旧道には、寄り添うように水路がはしっていて、その水路にまた添うように、切り石を敷いた歩道はのびているのだった。やや濡れたかんじの落ち葉が石畳みのうえにまんべんなく散らばって、自転車はよくすべった。
 まがりくねる小路を走っていくと、その途中に、むかしの小学校の跡地をつかった公園があり、そのさきに市立の図書館はあった。図書館は、これもむかし旧制学校だった建物を活用した古式ゆかしい煉瓦づくりの壁面で、そこにガラス張りの自動ドアが取りつけられているアンバランスがなんとなく面白かった。
 ドアをくぐると、独特のニオイがする。古本屋のニオイとはまたべつの、図書館のニオイが満ちている。靴で踏みしめる絨毯の感触が心地よかった。リウヤは書架のあいだを歩きながら、誰かがいないだろうかときょろきょろ首をのばした。
 いない。
 いない。
 ……いない。
 いようはずがなかった。
 誰か、――つまりリンゴが、そう都合よく本をさがしているわけがないじゃないか。
 期待するのがおかしいんだと、なぜ気づかなかったのだろう。妙な熱が冷めていくにしたがって、リウヤはしだいにバカバカしくなってきた。もう帰っちゃおうかなとも思った。けれど、それではなんのためにここまで来たかわからない。もう三時ちかくでもあり、いまさらどこかへ行くのにも遅い。ここは腰をすえて、本でも読んで過ごすことにした。
 なにかめぼしい本はないかと背表紙を眺めていく。どこかの本棚に、「A感覚とV感覚」という本があった。
 これって中学の図書室にもあるな、とリウヤは思った。
 読んだこともないのに書名を妙におぼえているのは、クラスの男子たちが、この本の背表紙の一部分を手でかくして、これを何て読む、という遊びをよくやっているからだ。くだらない遊びだな、と思うけれど、そう思いつつも、そうして浮かびあがるアルファベット二文字に、すこし興味はなくもない。
 観たことなんてないけれど、どんなだろう。
 A……、アダルトの。……Vは、ヴィデオ。
 そんなことを声にも出さず胸のうちでつぶやいただけなのに、すこし頬があつくなったので、もうそそくさとそこを去って、べつな書架に本をさがしに行くことにした。

 けっきょく、そうして夕方までいた。
 すきな歌手についての特集本をみつけて、それに没頭したり、むかしの新聞の縮刷版をながめたりしながら過ごして、気がつくと外は夕映えに染まっていた。
 土曜日で閉館がはやい。あと一時間で閉館……。という館内放送に落ち着かなくなって、本を書架へもどしてしたくをした。
 外にでて、リウヤは一瞬たちどまった。背筋がふるえる夕焼け空だった。色も褪せて散りゆく並木に、夕陽がふたたび鮮やかな紅葉を与えている。長い影をしたがえた自転車の群れが、そんな光を反射してきらきら輝いている。空を見上げれば、一面に塗ったオレンヂいろに、水で溶いたホワイトをぽたぽた落としたような雲のあいだから、しろい光芒が何本も空を切って降りそそいでいる。雲のふちは、火が着いて燃えているようだ。背筋がぶるっとふるえた。
――あぁ、きれいだ。
 誰かにも見せたい、とリウヤは思った。自分ひとり感動しているのが、もったいない。
 ひどく、淋しかった。独りでうつくしい景色をみていることが。
 リンゴに見せてあげたい。リンゴなら、この空の夕焼けを見たらなんて云うだろうか。リンゴなら……。リンゴと一緒なら……。
 リウヤはいま、独りだった。
 昼に喰ったつくり置きのチャーハンがきれいに胃から消えてしまって、ひどくオナカがすいていた。きゅるきゅる音が鳴る。
 きょうもお母さんは遅いそうだ。
 夜は、レトルトの牛丼を――。置き手紙にはそう書いてあったけれど、いま無性に、そんなものより喰いたいものがある。
 ふしぎだった。なぜいま、こうもカレーが恋しいのだろう。カレーが喰いたい。Lカツカレーが。もやもやを、ユウウツを、さみしさを、Lカツはきっと忘れさせてくれる。
 リウヤは、旧道沿いに自転車を走らせて、裏町通りのカレーの店にはいった。いつもの、あのカレー・ショップのチェーンがここにもあって、雑居ビルの一階のせまい店内に、五、六人が掛けられるカウンター席があるきりの店を張っていた。
 この店舗にはいるのは初めてだった。というよりも、雪薙のバイパス沿いにある例の店以外のチェーン店にはいることじたい、初めてだ。いつもの店舗とはちがって食券販売機はなく、リウヤはぼそぼそ声で「L」とたのんだ。ひとりしかいない上っ張り姿の店員は、だまって鷹揚にうなづいた。ほかのお客は、ピアスなどした怖そうなおじさんがマンガ雑誌を読みながらちびちび喰っているだけで、あとは誰もいなかった。
「あっ、マヨ。かけてください。」
 あとで思いついたので、リウヤはあわてて云ったけれど、この肥った店員は、やっぱりうなづくだけで返事はしなかった。
 きょうのLカツカレーは、みょうに苦かった。カツも薄く貧相な気がした。
 気分がちょっとしずんでいるから、そのせいかな、と思ったけれど、
〈Lはな、店によって味がちがうんだぜ。で、そこがまた、いいんだよな。〉
 サクセが、そういえばそんなこと云っていたのを思いだして、リウヤは妙に感心してしまった。肥りぎみのカレー職人は黙ったままで、しきりとキャベツをきざんでストックをつくるのに余念がないようだった。


 ル.

 ひと雨ごとに、気温はさがっていく気がする。晴れていた休日が嘘のように、きょうは雨が降って、そのつめたさに、教室もくらく沈んでいるような気がした。きょうはいよいよ教室のスチームが点き、そのかすかな作動音のなかで、午前の授業はぼんやりと終わっていった。月曜日の空気が学校全体を支配している。
 けれどきょうは月曜日。
 放課後は、劇のケイコがあるのだ。
 そしたら、リンゴに会える。
 昼休み、お昼を喰べ終わって、あとは五、六限目の家庭科二連続で終わることに気付いて息をふきかえしながら、リウヤはマルテへ足をはこんだ。各階に、生徒が休み時間に自由に利用できるテラス状のホールがあって、それがマルテと呼ばれている。教師がそう呼んでいるので、生徒もそう呼ぶのだが、〈マルティパーパス・ホール〉を、どうして「マルチ」と略さずに「マルテ」なのか。外来語にうとかった昔の教師が付けた名前なのだろうか。
 そのマルテのいつもの位置に、サクセはいた。壁際のスチームに腰掛けて、たてた片膝を腕にかかえている。スチームが点いていようと点いてなかろうと、いつもそうしているけれど、スチームがONになったきょうは、その体勢では熱いのではないだろうかとリウヤは思う。
「サクセくん、」
 声をかけたリウヤに、少年は妙につめたく、切れ長の眼を一べつするだけだった。
「サクセくんってば、」
「……なんだ、」
 舌打ちしながら、ようやくリウヤを見る。サクセの舌打ちにあまり深い意味のないことは知っているリウヤでも、さすがにすこし気圧されるものがある。
「どしたの、不機嫌そうだね。」
「月曜日だってのに、なんでオマエ元気なんだよ。」
「えっ、そう?」
 元気といわれて、リウヤは意外に思った。元気が傍目からも分かるほどには表に出ていないはずと思ったのだけれど。それともそれほどまでに、ほかの生徒は沈んでいるものなのだろうか。
「いいな、お子さまは、気楽で。」
「誰がお子さま?!」
 リウヤは背伸びしながらむくれる。
「そういうとこが、だ。」
 と、サクセはその頭をおさえつけた。おさえつけておいて、そのまま髪の毛を指のあいだにくぐらせる。
「まっすぐにならねぇなぁ。」
「ならないよ、遺伝だから……。」
「シャンプー変えた?」
「変えてないよ、」
「ふーーん、」
 サクセはつまらなさそうに、リウヤから眼をそらした。スチームから投げ出した脚をぶらぶらさせている。
「ね、そんなことより聞いてよ、」
「どうせ、梨郷サトリのはなしでもされるんだろ。」
「えっ、ち、ちがうって、そんなの、」
 やや図星をさされたが、リウヤはゆえなく否定した。ほんとうのところは、リンゴのことを話したくてしょうがない。五秒おかずにリンゴのことが想い浮かんで、リンゴのことを自分の手柄を話すみたいに話したくて、仕方ないのだ。
「ほんっとに梨郷がスキなんだな、オマエ。」
「えっ、そんなことは……そんなことはだね、」
「青いな、」
 サクセはリウヤの髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回した。いつもより力がはいっていて、しかも頭皮に爪があたる。リウヤは痛い痛いと叫んだ。

 いよいよ文化祭本番が近付いて、前回から、ケイコは舞台での練習にきりかわっている。つまり、本番同様、体育館のステージをつかって通し稽古をくりかえす。舞台だけではない。衣装も実際に着る。机などの大道具も用いる。ユーレイ服にくわえて、白いヴェールを頭にかぶる。これで本来の白いひと役フル装備となる。
 自分と、リンゴのしろいユーレイ服。おなじ布地でおなじ仕立てなのに、どうしてこうも、うつくしい白絹のようにきらめいて見えるのかとリウヤは思った。あでやかで、手触りも良さそうに。
 この日から、ステージ横の体育準備室が楽屋になった。壁にカレンダーが張られ、そのなかの日付けのひとつが、赤丸で囲われている。十一月中旬の土曜日。文化祭の日だ。
 これが終れば、リンゴとのことも終りだろうか、と思ってしまう。
 衣装とステージに圧倒されてか、その日の立ちゲイコでは、リウヤはセリフをとちったり飛ばしてしまったり、散々だった。リンゴの前でもあり、顔が紅くなる。ユーレイ服の白いヴェールにかくされているのは幸運だった。
 カントクの尾神は、いいよいいよ、もう一回行こう、と根気よく云ってくれるけれど、リテイクにつきあわされるリンゴは、さてどう思っただろうか。しょうがないヤツと思われてやしないか、リウヤは気が気でなく、それが結局さらなるミスを招くのだった。
 ケイコがずいぶん押して、終了はおそくなった。この日のエグゼグテブ・プロヂューサーである阿別当先生が、時計をしきりに気にしながら、尾神の終了の合図を待っていた。つめたい雨はまだ飽きもせずに降りつづいている。サクセを待たせていないのは幸いだった。
 更衣室では、着替えしながらみんな無言だった。疲れているのだろうけれど、何度もとちって終わりを遅らせた自分への批判がこもっているかのようで、やりきれなかった。着替えたあと、これも制服に戻ったリンゴが、べつの男子と話しているのを見て、胸がうずいた。この日、リウヤはリンゴに声をかけられずに終わった。
 いいんだ。独りよろこんで、かなしんで、あせって、それでもなんにもしない。いくじなしとそしる声が自分自身からもきこえてくる。傷つきたくない心が、自分自身で傷ついている。
 リウヤはカサをささずに濡れて帰った。つめたい十一月の雨が少年の頬をぬらしても、熱っぽい頬は少しも冷めはしない。



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   平成18年(2006年)11月10日


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