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027

 雪傘のなかで


 三月の雪が吹きつける山道を、一人の少年が歩いている。風は断続的につよく、雪の粉を身体じゅうにこびりつかせた。風の向きにしたがって、少年は差している傘の角度をしきりにかえた。漆黒の夜空が、とおくの稲妻で白くひかる。
 春もちかいというのに、昼前になって降りはじめた雪が、宵のはじめにはすっかり積もった。県都の兼六園の雪吊りも、もう外してしまったというのに、時節を失して降りしきる雪は、強風をともなって、奥能登の谷間を一色にそめた。
 祖母の三回忌にむけて、正月にも帰ってこなかった姉が、一年ぶりに帰省してくるという。夕方になって報せをうけた少年は、うれしくて、まちどおしくて、居てもたってもいられなかった。
 少年と姉は、齢こそ離れているが、幼いころから仲のよいきょうだいだった。なにも道理をしらぬままに、好きだということを示したくて、姉と結婚したいと云っていた幼いころを、少年はおぼえている。はずかしくも、なつかしい日々の記憶として。
 姉は、特急を金沢で乗り換えて、家の最寄りの草水駅に19時50分ころ到着する列車に乗ってくるという。北陸一の赤字路線といわれている奥能登の鉄道では、それが最終ひとつ前の列車だった。草水の駅から家まで、五kmある。駅からはバスに乗り換えて、十五分ほどの道のりだ。
 雪の帰り道を心配して、傘を持って出迎えると云いだした少年に、家族は反対した。雪が深いからやめさっし。傘を持っていくのなら、どうせバスに乗るのやから、バス停で待てばいいやろう。父親はぶっきらぼうな感じで、そう云った。
 しかし、少年はうんと云わなかった。駅前のバス停には屋根がない。屋根のないところで、雪のために遅れるバスを待たなければならない。駅まで出迎えなければ意味がないと反論した。内心では、はやく姉に会いたいというのが本音だが、少年は、姉が雪のなか傘もさせずに帰ってくることに抵抗のない親たちのつめたさをなじった。父親はやむを得ないといった様子で、好きにしろと云った。
 雪道は心配ではあっても、誰一人として自家用車に乗れない家族には、どうすることもできない。理想をいえば、こういうとき自動車で迎えに行ってやれれば一番良い。しかしそれができる身体ではないことへの歯痒さも、父親にはあったのかも知れなかった。
 いくら雪がつよくても、バスに乗るから大丈夫だ。少年は父に背をむけて、自分は中学への通学につかっているビニール傘を差して、もう一本、姉のための翠いろのを片手に、家の木戸を開けた。
 輪島からくるバスは雪で遅れていた。草水駅へ向けての便としては最終で、誰も乗っていない。ひろい車内に、少年はたった一人だけだった。暖房は効いているが、さむく感じた。ワイパーがせわしなく動く。くらい夜道のなかに白く浮き上がる雪のわだちを、ヘッドライトが照らしだした。
 駅には列車到着の十分ほど前に着いた。薄暗い待合室に石油ストーブが燃えていた。ほかに列車待ちの人はいない。キオスクもシャッターを閉め、飲料の自動販売機の明かりだけが煌々とともっていた。少年はストーブの近くのベンチに坐った。待ち遠しい十分間だった。時計の針がいまに限っておそかった。
 三分前になって、ふと思いついて、自販機のコーヒーを二本買った。列車を降りてきた姉と呑もう。再会の杯ではないけど、コーヒーで乾杯だ。無糖のものと、ミルクが多目のものの二本。少年は甘いほうを呑むつもりだ。缶のあたたかさが冷えた掌にしみる。
 やがて踏切の音がして、アイドリング音とともに列車が着いた。ディーゼルの排煙のにおいが、コンコースにまで立ち込める。事務室から制帽をかぶった駅員が出てきて、無言でラッチを開けた。少年は顔をほころばせながら、改札口のむこうを見た。
 つとめ人、工員風、学生、老婆。列車を降りて、ぞろぞろと改札をくぐりぬけてくる人影に目を凝らす。姉はまだ来ない。定期を片手の降車客は、足早に改札をくぐっては、駅をあとにする。駅員はいそがしく頭をさげる。立ち止まって改札のむこうを見つめる少年だけが、そこで停止していた。長靴姿の老人が、手をこすりあわせながら小さなキップを渡す。これが最後だった。人の流れが尽きると、駅員は無言でラッチを閉めた。
 少年は、つめたいコンコースにひとり取り残された。
 たぶん雪で、越後湯沢からの特急が遅れて、うまく乗り換えできなかったのだろう。そうにちがいない。一時間後にもう一本、列車が着く。それが今日の終列車だ。姉は、たぶんそれに乗ってくるのだろう。
 少年は待合室の公衆電話をさがした。自分は携帯電話を持っていないが、姉は持っている。財布のなかの十円玉をあつめて、その番号へかけてみた。呼び出し音が何度か鳴る。なかなか出ない。そのうちに、プツと音がして、不通を示すコール音にかわった。返却口に十円玉が落ちる。
 いま電話に出られないのだろうか。あるいは公衆電話からの電話なので、警戒したものか。しかし、少年自身、何度か公衆電話から姉の携帯にかけたことがあって、そのときは取ってもらえたことを考えると、もしかすると列車の車中なので、電源を切ったのかも知れなかった。
 少年はとりあえず、つぎの列車の到着を待ってみることにして、待合室に坐った。雪はときおり雷をともない、強風とともに駅の外をざわめかせた。そろそろ乗るはずだったバスが発車していく時刻だ。窓の外をみた。
 バスは案の定遅れているのか、のりばのあたりに停車しているような様子はない。客待ちタクシーが、何台か見えるだけだ。その屋根も雪で白く覆われている。斜めにふきつける雪は、広場に植わった樹木の枝を大きく揺らし、降りつもった雪がそのつどパラパラと払い落とされた。
 すっかり冷えてしまったコーヒーに口をつけてみる。甘いコーヒーの口当たりは、むかし姉につくってもらったカフェオレの深い味とはちがう。のっぺりと甘かった。
 一時間が経ち、さきほどと同じように列車がホームに横付けされた。少年は一時間前を繰り返すように改札口に立った。一日のしごとに疲れた降車客が、ほっとした顔で通り過ぎていく。この光景はデジャヴのように再現された。姉の姿がみえないことも一緒だった。
 はやく。はやく。何をしているんだ。終バスが出てしまう。
 最終列車に接続するバスは、待ち時間をすくなくするためにか、列車到着から三分しか余裕をみていない。しかも悪いことに、一本手前の、ほんらい乗るはずだった便とちがって、この駅が始発停留所になっている。必ず所定時刻には発車する。はやく帰宅したい最終の客へのサービスなのかも知れなかったが、そのかわり、列車を降りたら、すぐに乗り場へ急がねば乗り遅れてしまう。
 お姉ちゃんはなにをもたもたしているのか。大きな荷物が足かせになっているのか、あるいは旅のつかれに眠ったまま気づかずにいるのか。はやく降りてこい。
 少年はいらだちながら、列車のドアのほうを見つめていた。けれど、もう客が降りてくる様子はない。列車の照明が落ちて、ドアが閉まる。
 そんなはずはない。だって、きょうの列車で帰ってくるって――。
 少年はそれでもしばらく改札口に待っていたが、それは無駄だった。少年は肩をおとした。駅員がいぶかしげな顔をしながらラッチを閉める。ストーブの火をおとし、そのあと窓口にカーテンをひいた。
 仕方なく、駅を出た。
 外は雪が乱舞していた。バス停まで行ってみたけれど、当然、バスはもういない。最終バスは時間通りに出て行ったあとだ。
 家まで五km。歩くしかない。駅頭に客待ちのタクシーはいるが、タクシー代の持ち合わせはないし、中学生の少年にしてみれば、タクシーにひとりで乗った経験はなく、どこか、乗るにも気がひけるのだった。
 駅から家まで、歩いた経験はある。だいたい一時間あれば着けるはずだ。傘の柄をしっかり持って、少年は雪の歩道へ歩きだした。まだ誰も歩いていない新しい雪に足跡をつける。ふわふわとした新雪をあるくのは結構たのしいものがある。しかしそれもはじめだけだった。
 歩くにしたがって、歩道と車道との間に雪の壁ができてくる。これは、除雪車が車道の雪を歩道側にまとめてどかしたためだ。駅をすこし出外れると、道は人の歩くことの少ない街道となる。歩道の扱いはおざなりになる。雪の壁は徐々にかさを増し、それが崩れて少しずつ歩道をもむしばみ、やがて雪の壁の一部へと変わっていった。しかも、その雪の壁は新雪とちがって、汚れている。路面につもった古い雪をかきあつめたものなのだから、当然だった。
 それでも、少年ははじめ、その雪の壁に踏み込んで歩いていった。が、そのうちに膝の下まで雪にごぼるにおよんで、仕方なく、車道に出て、その隅っこに歩をあらためた。
 ここまで歩いてきて、少年は、しまった、と思っていた。履いてきたスノートレーニングシューズの底が劣化していて、雪水が沁みこんでくる。くつしたが濡れて、爪さきが泳ぎだす。手袋をしてこなかったのも失敗だった。まさか歩くとは思わなかったから。
 風がつよい。傘をもちなおす。凍てつく風が、頬に直に触れてくる。外套にこまかい氷雪がこびりつく。――いまごろ、姉はどうしているだろう。ぼくは、ひどく寒い。お姉ちゃんは、寒い思いしてないか。少年はそれを思いながら歩いた。
 けれどじつは、少年は冬がすきだった。はりつめた空気と、白い風景。きたないものを包みかくす雪の世界。さむい季節だからこそ、人のぬくもりがありがたく感じられる季節だと思っていた。
 朝、さむい寝床をぬけだして、あたたかい味噌汁を吸うとき。姉と手をつないで輪島へでかける、掌の体温。こごえそうな外から帰ってきて入る、コタツのぬくもり。みかんの味。姉の淹れるコーヒー。
 ――急に、思い出をめぐらせている意識が、現実にもどされる。自動車が、みぞれ状になった氷水をはじきとばしたからだ。ズボンが濡れ、頬によごれたしぶきがかかった。
 雪の道には、車を走りよくするために、融雪装置がついている。これは、道路中央の地中に、地下水の流れるパイプが仕込んであり、雪が降ると、その地下水を地表に流し、溶かすというものである。
 雪はたしかに溶ける。そして車は走りやすくなる。しかし、溶かすのに使用した水、そして溶けてしまって水になった雪は路上に残る。少年のように、しっかりとした履き物をはいてこなかった歩行者は靴のなかを濡らすことになる。そしてそれに加えて、雪がなくなって走りよくなった車は、これ幸いとばかりに水たまりのなかへタイヤを突っ込ませるのだ。ドライバーにとっても、避けようと思っても避けようがない。道端も限られている。うしろに後続の車もついている。仕方がない。こうして水しぶきは、歩道をあるいている人の身体に、容赦なくたたきつけられる。
 少年の住む能登半島に、なぎさドライブウェイがある。砂浜を自動車が自由に走れる砂浜は、世界的にみても珍しいそうだ。ここの醍醐味は、波のあいまに車を走らせ、水しぶきを高くあげる爽快感である。しかし、わざわざ千里浜のなぎさなど走らなくとも、北陸では、こうして冬の雪道の水びたしのみぞれ道を走りさえすれば、水しぶきを高くとばし、歩く弱者にしぶきをかける爽快感さえ味わうことができるのだった。
 少年が、濡れたズボンにこびりついたみぞれの塊を払っているあいだにも、無数の車が走り抜けていく。そしてまた、水しぶきが来る。
 思わず少年は車の尻をにらみつけた。なにするんやっ! 思わず叫ぶ。しかし、そう叫んでも、車ははやい。すぐに走り去っていく。声はけっして、運転者にはとどかない。
 草水の駅から、雪道を二十分ほど歩くと、大きな交差点に行き当たる。金沢へとつづく幹線道路との交差点だった。ここもまた、途切れなく自動車が行き交っている。だいぶ待たされて、ようやく横断歩道が青になった。自動車たちは、しぶしぶといった感じで停車する。その横断歩道は凍てついていた。気温がだいぶ下がってきたためか、つるつるとすべる。雪も氷も気配のない黒い路面に、容易に足をすくわれる。雪はなくとも、濡れた路面は凍りついていた。ブラックアイスバーンだ。
 なかばくらいまで進んだところで、歩行者信号機は点滅をはじめた。少年の心に、焦りがはしった。そのときだった。ついに足をとられ、一瞬の間に身体が宙を浮いた。
 打ち付けた腰の痛みに耐えながら、顔をあげると、歩行者信号機はすでに赤になっている。車が容赦ないクラクションを鳴らす。自動車という、運転者だけのプライベートな空間は、冬なお暖かく、歩行者の足元が凍てついていることに気づかないのか。雪の塊をはじきとばしても、なんとも思わぬのも、そのような道理だろうか。滑った自分が情けないのと、やるせない怒りがこみあげてきて、少年は車のほうをにらんだが、くらくて運転者の顔はわからない。運転者はじりじりと横断歩道に車をすすめ、冷たく威嚇してくる。少年は鼻白んだように目をそらし、姉の傘と、ひらいた自分の傘を手にとり、立ちあがると、踏みしめるように注意深く、赤信号の横断歩道を渡り終えた。
 もう、こんなのたくさんだ。少年はバイパス道路をそれて、田畑のあいだの旧道をえらんだ。おそらくいまは、地元の者にしかわからない道である。旧道は丘の起伏のまにまに坂を上下する。トンネルで一直線に貫くバイパスとはちがう。
 むかしの鉄道の廃線跡に沿ったこの旧道を、歩いたことは何度かあった。慣れている道といえた。崖沿いをくねくね曲がりくねるが、むかしは国道だっただけに道はそう悪くはない。なにより打ち捨てられた旧道には車がこない。水びたしの道路も、しぶきを飛ばす車もない。大手をふって、道の真ん中を歩いていける。
 旧道は陽のあたらないことで、陰気な道だったが、夜では闇にかわりはない。電灯もすくないが、道を白く覆う雪が、歩くべき道を示しだした。
 積雪は足首の上くらいまでだった。靴の隙間から、雪の粒がころげこむが、水をかけられるよりは良かった。道を自分できりひらくように、足跡をつけた。
 はじめはとおくだった雷の音が、すこしずつ近づいてくる。それを合図としたかのように、雪を吹き散らす風は、ますますつよくなった。樹々を揺らし、あやしい音をたてる。山かげに荒れ狂う風は、雪の粒子をこまかく乱舞させ、白い霧のように、目の前の視界をさえぎった。
 風にあおられ、傘が逆さにひらく。あわてて傘の骨を元のようになおす。しかしそのそばから風は傘のなかに吹き込んで、ついに破壊した。
 手持ちのビニール傘はもうだめだ。やむをえない。少年は姉のための翠いろの傘に持ち替えた。指さきが思うように動かず、傘をひらくのに時間がかかった。そのあいだ、直に身体に風雪が吹き付ける。耳たぶが痛い。削げそうなほどずきずき痛む。
 人家からはなれた旧道は、実際以上に長く感じる。見通しのわるいカーブの連続が、いつまで続くのか。上り坂を、一歩ずつ、一歩ずつ、踏みしめる。雪を踏めば滑りはしない。が、雪に埋もれる足は重かった。靴をもちあげつかれて、足の甲がひりひりと熱をもつ。
 坂がおわり、崖のうえに出てみると、そこが峠だった。昼間ならば見晴らしのいい場所だ。小学校のとき、遠足で来たこともある。まだその頃は家にいた母親手製の弁当を、ここで喰った。
 雪煙のさきの眼下に、一列をなしてすべる灯火の群れが見える。バイパス国道をいそぐ自動車たちのヘッドライトだった。雪が降っていようと、風が吹いていようと、車のなかの人はこごえることはない。ハンドルを持つ手が多少緊張しようと、濡れたつま先が凍てることはない。耳が凍りついたように硬直することはない。
 手がつめたい。手が、自分のものでないように感じる。傘をさす手を交互にかえながら、少年は、そのつど片手をポケットのなかであたためた。
 あとすこし。あとすこしで、人里にはいる。峠をすぎれば、家まで残り半分を切るのだった。しかし雪はあてつけのように、さらに強さを増す。テレビの砂嵐のように、右へ左へ左へ右へ、よこしなぎに雪はふぶいた。
 雪を踏みしめつづけてきた脚が凍てて、感覚が失われてきた。氷の棒のようになった脚は、雪だまりの中でふらつく。凍傷になっているかも知れなかった。感覚がないのだから痛みもないのだが、しびれたように両足のさきはこわばっていた。靴の中で、指をうごかそうとして、それができない。感覚のなかに指がないのだ。
 峠をくだる途中にある、小さな地蔵堂の前が、すこし影になっている。ここにしゃがんで、ひとまず、嵐のおさまるのを待つことにした。雪だまりに腰をおろす。埋もれる腰が凍てて、水がしみこんでくるが、仕方がない。感覚のない手をつかって、もどかしく靴をぬぐ。よかった、脚はあった。指もある。濡れたくつしたの上から、両手で足先をさすった。氷の脚に、血液がもどるように。
 お姉ちゃんは、さむくないよね……?
 お姉ちゃんは、さむい思いしてないよね……。
 傘、もってきてあげたから。それと、これ。熱いから気をつけて。無糖でよかったよね、たしか。
 白いいろを伴う風のなかに、少年は姉の笑顔をみていた。電車は時間通りについて、二人で、缶コーヒーを分け合った。あたたかいコーヒー。甘いかおり。連れ立って乗ったバスもあたたかくて、降りたバス停から家まで、ふたつの傘はそろって開いて、明りのともる家へならんで歩いて。

 バスの乗務員A運転士の話――。
 この時間に中学生の年まわりの子を乗せるのはたしかに珍しいですけど、ゼロではありません。べつに気にも留めませんでしたね。あっしらはね、家出少年かどうかを見るんですよ、こういうときは。……傘を二本もってましたんでね。たぶん見送りかと分かったんでね。家出でなかろうと分かったんでね。だからそれで、気には留めませんでした。
 草水駅勤務B助役の話――。
 たしかに、傘を手に持って、改札口の前で誰かを待つようにして立っとった子はいましたね。最終が出たあと、私らは精算業務がありますから、すぐ窓口しめて、中で作業をせんならんのです。券売機の精算もせんなん。乗車券の止め番もせんなん。ですから、そういう子が、最終をのがして歩いて行ったかどうか、それは確認はできませんでしたな。
 同時刻、自動車で通りがかったCさんの話――。
 あこの道を歩いていた子どもですか。たしかにその時間、草水から輪島へ向う途中で、追い抜かしたと思います。こんな大雪の夜中に、歩いて、きっつい子やなと思いました。ええ、寒かったやろうと思いますよ。ただ、乗せていってやろうかとか、そんながは、ね……。私達にも、行く先があるわけやし、歩いとる人が、さてどこ行くんやらとか、ほんな気をつかうことはできんわいね。ほうやろ? ちょっと走ったらすぐ忘れて、いま訊かれるまで、そのことはすっかり忘れとったことです。

 風はすでにおさまっていた。ただ、雪だけは絶え間なく、くらい夜空から降り続いていた。
 少年の白い頬に、音もなく雪がつもる。凍てついた睫毛にも、雪がつもる。うすくひらいたままの唇にも雪がつもる。かたわらの雪の上に転げているコーヒーの缶にも雪がつもった。栓はあけたけれど、冷たすぎて呑めなかった。こぼれた中味が、雪のうえに黒い染みをつくったが、それもすでに白く覆われてしまっていた。姉のための缶コーヒーだった。ほんとうなら、姉に手渡して、再会を祝うためのささやかな呑み物だった。
 姉の翠いろの傘の柄が、積もった雪の重みのためか、こわばった手のなかをするりと離れて、少年の身体の傍らに転げた。がさがさと剥がれ落ちた傘の雪が、つめたい身体にふりかかる。雪は静かに降りしきり、すべてを白くつつみこんでいく。


      ―終―


*この小説はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。

  平成23年(2011年)1月27日


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