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002

   白い春


 夜行から乗り換えた列車は、みやこの駅から2時間ほど走って、山峡の小さな無人駅に停まった。
 朝霞があたりを薄く覆っていて、景色が白くおぼろに揺らいでいた。
 駅舎をくぐったのは、那美子ひとりだけである。清々しい山の気をいっぱいに吸いながら、少女は歩き出した。
 単線の踏切を渡り、家並みの切目の道を登っていくと、丘の上に畑が広がる。数年ぶりの道は、今でも忘れず覚えていた。いちばん奥まったところに、生垣で囲われた大きなお屋敷があって、そこで那美子の靴は止まった。
 玄関を守るように配されている松の肌が、屋敷の白壁に映えている。扉口に、杉箸と彫られた表札が煮しめたような色をして掛かっていた。
 がらり戸を開けて声をかけると、愛想のいい婦人がすぐに出てきた。
「まぁ、刀根さん、よくいらっしゃって。どうぞお上がりになって。佳織はいまちょうど起きたところなのよ」
 婦人は、明るく小気味いい喋り方で応対してくれた。前に会ったときは那美子がまだ小学生の頃だったが、この友人の母の印象は年月を経ても何も変わらないようだった。
 数年ぶりの友人の家だったが、那美子は記憶を頼りに長い廊下を歩いて、なんなく佳織の部屋にたどり着いた。
 障子戸を開けると、畳敷きの中央に白い蒲団を敷いて、少女は伏せっていた。
「来たよ」
 驚いたようにこちらを向いた佳織の顔が、とたんにほころんだ。
「わぁ……! ナミだぁ。来てくれたの」
「久しぶり。起きてたんだ」
「だって、ナミが来てくれるっていうから、眠ってらんなくって」
 佳織は身を起こして、傍らに敷いてある座布団に坐るよう云った。朱色の浴衣姿が目にとまる。パジャマでないのは、お婆ちゃん子だった佳織の趣味だろうと思う。
「本当に久しぶりね。何年ぶりかしら。小学4年で別れたから……、丸7年になるのね。本当に久しぶり」
 細い頬を染めて、佳織はよくしゃべった。
 那美子がこの地から越して行って、しばらくのあいだ、ふたりは手紙のやり取りをしていたが、越したさきはこの里からあまりにも遠かった。だんだん疎遠になり、音信もうやむやのなかへ消えていこうとしていたところである。そんな中での今日の訪問だ。佳織がはしゃいでいるのがよくわかった。
 けれど、佳織の顔は、那美子が想像していた相貌より、格段に細かった。身体が伸びたということもあるが、それ以上にやつれているという印象が強い。
 あの頃は、そんな兆候などなかったのに。
 引っ込み思案の自分よりもはるかに明るくて、勉強も出来て、クラスの人気者で、それなのに自分を一番のともだちだと言ってくれた。そんな佳織が、いまはこの床のなかに伏せっている。
 ながく床に就いていたためだろう。肩までで切り揃えた髪が、やや乱れている。
 那美子は手さげ鞄の中に入れてきた櫛で、佳織の、少し薄い色の髪をすいた。髪は、やわらかく櫛の歯をとおった。
 手鏡を渡すと、佳織は満足そうにうなずいた。
「美容士さんになりたいんだよね、ナミは」
 那美子は、寝耳に水のようにそれを聞いた。
「そんなこと、いつ云った?」
「それも、そうか。保育園に通ってた頃のことだものね。……今みたく、あたしの髪をとかしてくれて、あたしが、びようしさんみたい。って言ったら、ナミ、こんなこと言ったよ」
「美容師さんになる」
 やっと思い出していた那美子は、調子をあわせて云った。おたがいの声が、寸分たがわず一致した。
 そうして、二人で笑いあった。
「ねぇナミ、こんなお部屋の中にいてもなによ。お散歩しよ」
「大丈夫?」
「そんなに重い病気じゃないんだから。たまには外へ出たほうがいいの。お医者さんもそう云ってた」
 それでも那美子は不安を拭えなかったが、結局は押し切られ、彼女の母も承諾したので、二人はしばらく外を散策することにした。

      * * *

 外に出てみると、さっきの霞はすっかり晴れ渡っていた。しかし3月はじめの今日は、冬なのか春なのかはっきりしない。晴れなのか曇りなのかもはっきりしない。あたりは依然として茫洋たる空の下だった。
 時折吹く風は土の匂いがする。それと一緒に、粉雪がひとつぶふたつぶ、わたげのように舞ってくる。
 しばらくのあいだ、二人はだまったまま歩いていた。
 何の言葉もないが、言葉をさがすこともなかった。言葉がなければ心が通じ合わないこともない。長く会っていなかったから、那美子は正直、間が持てるか不安だったけれど、会ってみれば以前と同様、何の気兼ねもなかった。
 手紙を出すのを最初に渋りはじめたのは、自分のほうだったように那美子は思う。それが、悔やまれる事のようにも思われ、そうでもない事のようにも思われた。
 坂を下ってゆく。勾配は緩いが、病人の足には険しいに違いない。那美子は、しぜんに佳織の手をとった。てのひらはしっとりと、あたたかかった。
「佳織、これ、熱があるんじゃないんでしょ?」
「だいじょうぶ。久々に逢うから、うれしくて。手もうれしいんでしょ」
 佳織の手はあたたかいが、ということは、自分の手は彼女にとって冷たいに違いない。那美子は、ちょっと待って、と立ち止まって手を離し、両手をしきりに擦り合わせた。
 佳織が、それを見て笑った。
「いいよ。あたし、寒いくらいが好きなんだから」
 そうだろうか、と思うが、手はだいぶ熱くなったから、そのまままた手をつないだ。
「本当に寒くないの?」
 外套の襟先の喉もとが、いたいたしく白い。
 那美子は、今度はこたえを待たずに、自分のマフラーを佳織の細い首に巻いてあげた。間近でみる佳織の身体は、より一層細く、はかなげだ。
「ナミのにおいがするね。懐かしい」
「そうなの?」
 さっきより熱くなった気のする手をつなぎ、二人はゆっくり歩んだ。
 視界が明るく開けた。眼下を段々畑が下っていき、底には渓流が白く筋になって流れている。線路がゆるくカーブしながら川に添い、谷間へ消えていく。
「ナミ、あそこから、ずっと来たのね」
「うん」
 単線を、2両編成が油煙を吐きながらゆっくりと横切って行く。
「あたしも、行ってみたいな。ナミの街へ」
「そのうち、行こうか」
「良くなったら、でしょ」
 云いながら佳織が目を伏せたのが、横目でわかった。
「それはそう。……でも、でもね、もうじき、もうじきよ」
「わかるの?」
「わかる。そんな気がする」
 佳織は、急にころころ笑った。
「すごいんだ、ナミは。どんな超能力? 未来予知?」
 佳織が笑ってくれたから、那美子は何でもいいと思った。
 そこからは登り道になるが、佳織の負担をかんがみ、坂道を避けて斜面沿いの勾配の緩い細道を廻り込んだ。細道はこどもの通学路で、土地の人手造りの道である。それでもちゃんと舗装されているから、歩きよかった。
「みて、ナミ」
 行くての脇に、白い建物があった。那美子はすぐに分かった。二人が通っていた保育園だ。
 那美子の眼には、低い塀越しに見える何もかもが、記憶のなかの同じものよりも小さく見える。園舎も、庭の遊具も、まるでミニチュアのように小さく見える。
「10年、10年以上かぁ。10何年だろう。――それだけ経ったのね、あれから……」
 ふたりが年中組のとき、造りかえられたコンクリート打ちの花壇の枠は、今ではすっかりグレイにくすみ、ひび割れてさえいる。年長組のときに新しく設けられた小さな滑り台の欄干は錆に朽ち果て、所々剥がれ落ちて、二度塗り替えられたらしい痕がまだら模様になっている。
 園は、荒れ果てていた。もう、通う子もいないのだろう。
 けれども、二人にとってそれはどうでもいいことだった。
「ね、ナミは覚えてる? あの樹」
 佳織は、園庭のすみに立つ樹を指差していた。
 樹は高く、太く、黒い。老木の疲れが幹にあらわれていて、物悲しげでもあった。
「はじめて会ったのも、はじめて遊んだのも、あの樹の下だったよね」
 佳織はうっとりとした表情を浮かべていた。
「よく憶えてるのね」
「いいことは、何でも憶えてるの。でも、あの樹、何の樹だったかしら。もうすぐ花が咲くんじゃなかった?」
 そうだったかと記憶をたどっていくと、満開の花の咲く樹のもとで、二人きり遊んだことを、うっすら思い出した。
「そうだ。そう。佳織と二人、遊んだね。空が花で埋まるみたいだった」
「きれいだったね。何の花だったかしら。ええと、……思い出せない……」
 佳織は肝心なことが抜けているな、と思いながらも、不思議とその花の色さえ思いだせない自分に直面して、那美子は妙に思った。
 色のない光景を、何度もたどる。花の色も、形も、いぜん朦朧とかすんでいる。
 そして、どうしてか、この樹の下でした遊びのひとつを不意に思い出して、那美子はふっと顔を熱くさせた。
 ずっと握っていた手を、那美子はそっと離した。不思議そうな表情をした佳織が、どうしたの、と目で訴える。
「あ、あそこ、坐ろうか」
 とっさの言葉に、佳織はうなずいてくれた。
 樹のそばに、木製のベンチがある。埃をさっと掃って並んで腰掛け、那美子は手提げに入れてきたお菓子を広げた。
 二人にとって、幼い頃の思い出をなぞるようなひと時だったが、ベンチは膝を抱えるくらいに低くなっていた。
 佳織が、クッキーをつまんで那美子の口元へ差し出す。無邪気な様子だ。けれど、那美子の笑顔は少し引きつっていた。どうしても、さっき思い出したことがらが那美子の頭を離れない。佳織のきれいな手が、菓子をつまむ。その動きに惹かれる自分に気付き、あわてて目をそらした。
「あの頃、言ってくれたんだなぁ」
 佳織が、ポツリともらした。
「なに?」
「あなたの、あの時の言葉が、あたしを今までつないできたんだよ。……行く手を、照らしてくれた。那美子、覚えてる?」
 思い当たらなかった。どう思い巡らせても。その表情が、佳織の顔をややくもらせた。
「ごめん」
 謝りながら、那美子は何か大変な間違いをおかした気がした。
「そう。……でも、いいよ。けれども、言葉の力って、凄いよね。そう思わない?」
 うなずきつつも、本当は、那美子には佳織がなにを言いたいのか見当がつかなかった。
 どうも変だ。自分も、佳織も。
「じゃ、これは覚えてるでしょ?」
「なに?」
 佳織は、少しためらうようにうつむきながら、言った。
「あの頃、この樹の下で、……キスしたこと」
 那美子は、耳朶がいちどに熱を持つのを感じた。
 たしかにそうだ。それをさっき思い出したから、妙な気分が意識を離れない。けれど、それはもちろんただの遊びだった。もしかしたら、自分が提案したいたずらだったかも知れないけれど。
「あれ、本気だったの?」
 佳織がどんな表情をしているのか、那美子は見ることができなかった。
「お遊びだった? それなら、」
 気付けば、薄ピンクが、目の前に広がっていた。

      * * *

 静寂をやぶったのは、佳織のほうだった。
「ね、いま、なにしたの?」
「え?」
 こちらが訊くほうではないのかと、ぼうっとする頭で考える。どう答えればいいというのだろう。素直に言えば答えになるのだろうか。
「……キス、でしょ」
 那美子は、早口で言った。早鐘の鼓動が、それよりゆっくり言うことを許さなかった。
「じゃ、その反対は?」
 なぞなぞじみた質問が、那美子ははじめ皆目分からなかったが、すぐに気付いた。
 佳織の行く手を照らしたという、その言葉も、きっとこれと同じ言葉だろうと、なんとなく感じる。
 那美子は、その答えを云った。

 ――――――

 二人だけの刻とは、きっとこういう時間をいうのだろうと思う。
 同じベンチに坐っていて、それだけで那美子は心が満ちてゆくようだった。
「来てよかった。佳織も元気だってわかったし。今度は、私の家に……」
「ナミ、無理しないで」
「え?」
 佳織の表情に、影が落ちている。
「あなたのことだけは、なんでもわかるもの。あなたのことだけは、特別。嘘をついていることだって、わかるもの」
 佳織は、あさっての方を向きながら云っていた。
 たしかに本当は、彼女の母からの、佳織の経過が良くないことを知らせる便りにいざなわれて訪れたのだ。正直、最後かも知れないとの思いはあった。しかし、今は違う。最後じゃない、きっと。最後にするわけにはいかない。
 那美子はそう訴えたかったが、それはままならなかった。声を出せば、いちどに泣きだしてしまいそうだ。
「でも、でもね、逢いに来てくれて、ありがとう。けれど、できるなら、あたしが一番会いたかったときに来て欲しかった」
 那美子の身体から、急に血の気が引いた。
「……病院で、ずっと独りで待ってた。今日は来てくれるかって、毎日ずっと……」
 那美子は、ふと気付いた。便りがなぜ滞ったのか。あれは自分のせいではなかった。理由がなんとなく知れた気がして、自分の気のつかないことに呆れた。けれど、知らせてくれればよかったのに。
「ごめん。一方的だったね。……ありがとう、今日のこと。ナミ……」
 老木の輪郭はぼやけている。佳織の顔も、もう何も判らない。
「どうして、泣いてるの?」
 風が吹いている。3月にしては冷たい風が、涙のしずくをすぐに冷やしてゆく。
「ねぇ、今はただ、こうして手を握ってて。それだけで、いいの」
 差し出された佳織の手は、白く、うつくしく、今度はひんやりと冷たかった。

      * * *

 春がきて、那美子はまたこの里へ来ることがあった。
 春になったのに、あの花は咲かない。咲かずに、樹はそのまま枯れてしまったそうだ。佳織の母が、目許を押さえながら云っていた。
 あの花はどんな形をして、どんな色をしていたのだろう。那美子には、それが最後まで思いだせなかった。


   平成15年(2003年)4月8日


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