040-15
果実の牙 〜フルーツ・ガール桃子〜
第15話 「乙姫の唇」
波静かな七尾北湾の暗く深い海の底に、竜宮城が実在していたなど、信じられない方も多いでしょう。
無論、どのような歴史書を開いても記述は見当たらず、ウィキペディアにも載っていません。能登島の漁師でさえ、その存在を知る人はほとんどいなかったでしょうからね。
なにぶん大正年間の当時はシュノーケルなどといったものはなかったわけですから、潜って調べることは不可能だったわけです。そう、桃子ら一行が北の洞窟で入手した「酸素クリーム」でもなければ……。
「私が乙姫だ。桃子といったな、イルカのイルカを助けてくれたこと、礼をいう」
謁見の間に姿を見せた乙姫さまは、鮮やかなブルーの髪の色が明らかに普通の人種とは異なることを示していましたが、背格好は桃子とさほど年齢の違わないくらいに見え、少女といっても差し支えない風貌でした。
いまでいえばJKくらいの年齢に見えます。
しかし、暗い海底で生活する人たちだけに、日光を知らず、そのような小柄さを残したまま長じるものという可能性もあるでしょう。
「桃子よ、お前たちのために、宴を用意した。参加してほしい……」
乙姫さまは怜悧な紺いろの瞳を桃子へ向け、微笑しています。濡れた唇にひいたブルーのルージュが、あどけない頬の丸みに似合わず、どこか氷のような印象をもたらしていました。
その晩、竜宮城での宴会は大いに盛り上がりました。
大広間にはサワラやフクラギの舞い踊り。お膳の上にはサーロインステーキ、納豆ご飯、さわにわん、チャンピオンカレー、8番らーめん、それにギョーザ、大根サラダ、フルーツみつまめ……。数えきれないほどの大ご馳走です。
いっておきますが、海底にある竜宮とはいえ、城のなかは海水で満たされているわけではなく、どういう仕組みなのかはいまひとつ判然としないものの、巨大な空気の泡のようななかに城はすっぽり包まれていて、あたかも空気のドームに覆われているかのように、城の周囲は地上となんら変わりありませんでした。
そうでもなければ、トイレのときなど大変ですからね。
ビールを飲むときも大変です。
桃子も3人の家来も、もう食べては踊り、踊っては食べ、カラオケも楽しんだりして、とても大正時代とは思えない、まるでバブル期の社員旅行のような大騒ぎでした。
桃子がカラオケで中島みゆきの「時代」を歌い終わり、お膳の前へ戻ると、水着姿のコンパニオンによって、さかずきに琥珀色の液体が注がれました。
大丈夫、ビールではありません。
瓶には「メッコール」と書いてありました。
家来の3人はとくにチャンカレが気に入ったらしく、掬っては食べ、食べては掬い、テレビチャンピオン早食い選手権のような様相を呈しています。
「どうだ、桃子よ、のんでいるか?」
乙姫さまが桃子のそばに膝をつき、メッコールの瓶を進めました。
「ええ、ジュースですが……」
「うまいか?」
「はい、おいしいです」
「よかった」
乙姫さまは微笑しました。
桃子は目を細めた乙姫さまの頬にえくぼができているのに気付いて、どきりとしました。
その乙姫さまの吐息が桃子の耳へ触れてきます。
「あとでわたしの部屋へ来て欲しい」
乙姫さまのささやき声は、唇のこすれる音とともに、桃子の耳元へと流れ込みました。
乙姫さまの部屋は2階にありました。長槍を掲げている衛兵に桃子ですと告げると、衛兵は槍をサッと伏せました。
「乙姫さま、桃子です」
桃子が扉をトントンと叩くと、内側から、
「入れ」
と、乙姫さまの艶のある声が聞こえました。
部屋は薄暗く、おとぎ話で想像されるような天蓋つきのベッドがありました。とても大きく、円形をしています。
そのベッドの上で、乙姫さまは正座していました。
「よく来てくれたな、桃子、ここへ座れ」
乙姫さまはベッドの上をポンポンと叩きました。
遠慮がちに腰を下ろすと、ベッドは柔らかくお尻を包み、そのまま沈みこみました。おそらくテレビの通信販売番組でもおなじみの低反発マットが使われているのでしょう。
乙姫さまは桃子のそばへ静かにいざりました。
白い鎖骨のあたりを飾るキラキラとしたペンダントの先で、青色の宝石が振り子のように揺れています。
「そなた、唇をかさねてみたことはあるか?」
問いながら乙姫さまは、すでに桃子の髪の毛にさらさらと触れています。
その白魚のような指が首筋を伝って、顎のさきへと移ろいました。
「眼をとじろ」
桃子は言われるままに目蓋をとじました。
あたたかい体温を交わしあう甘美な数秒が濡れた水音とともに過ぎたあと、桃子はこくりと喉を鳴らしました。
乙姫さまは、ふふと笑いました。
「はじめてでは、ないな?」
「……はい」
桃子はすこし頬を熱くさせていました。
乙姫さまは静かに微笑しています。また、あのえくぼが白い頬に現れました。
「さぁ……桃子よ、これを授けよう」
それは金色の紐でくくられた黒い重箱のようなものでした。
「これは玉手箱だ。わたしの愛のかたちだ……。だからこの部屋を出たら、すぐにこれをお開け」
桃子はおずおずと箱を受け取りましたが、しばらくその重みをたしかめたあとで、そのまま床へ叩き落としてしまいました。
「どうした? 手元がくるったか?」
乙姫さまが膝たちになってそれを自ら拾い上げようとしましたが、桃子は乙姫さまの手からそれを無理やり引ったくったあげく、再び床へ叩き捨てました。
「なにをする!」
乙姫さまは、さすがに故意だと察知したらしく、瞬間的に桃子の頬を平手で張りました。
「見損なったぞ桃子よ!」
「あなたは乙姫さまではありません!」
桃子はそう断言すると、羽織の内側から柄のついたペロペロキャンディーのような道具を取り出しました。
「なにをするのだ桃子よ!?」
「ちょっと黙ってて下さい」
桃子はそのペロペロキャンディー状の部分の赤と黄色に彩られた渦巻き模様にそって、指さきを滑らせていきました。すると、その渦巻き部分がバネ仕掛けのようにパカッと上方へ開きました。渦巻き模様のある面は蓋だったのです。中身は鏡で、それはコンパクトミラーでした。
桃! 百! 桃! 百! 桃!
そのような文字が、乙姫さまの視界のなかの空間に浮かんでは消える!
これは網膜に直接焼き付いた像でなく、脳に入った波形のようなものの断片が、視神経を通じて視野にそのような文字を見せているのかも知れませんでした。
そして桃子は、手に持ったコンパクトミラーの鏡面を乙姫さまへ向けました。
鏡にその麗しい顔がうつしだされます。
「鏡の太平洋、ミラクル・ミラー!」
桃子がそう声を上げると、突如、鏡から光が広がって、乙姫さまの身体はその光に包まれ、みるみるかわっていきました。
光がやむと、そこにはキョトンとした表情の少女がいました。
顔は乙姫と酷似してはいますが、髪の毛はやや毛先が栗色がかってはいるもののれっきとした黒髪で、唇も淡い桜色。肌も黄色人種特有の肌で、明らかに普通の日本人と見える少女でした。
「わたしは、なにを……ここはどこですか?」
少女はそういうなり、おどおどとあたりを見渡していましたが、やがて床に打ち捨てられた箱の存在に気付くと、身体をガタガタふるわせはじめました。
「その箱は呪われていますわ!」
「知ってる。乙姫さん、あなたの本名は?」
「わたしは浦しま子! 乙姫ではありませんわ!」
しま子と名乗った少女は、両の手のひらでそのこづくりな顔を覆うと、
「その呪われた箱をどこかへやってください!」
と懇願しました。
「浦しま子さん、あなたは本物の乙姫の影武者、身代わり人形にされていたのね?」
桃子が泣き出してしまったしま子の顔をのぞきこんでいると、
「そうだ、私が乙姫だ」
と、まるで人気テレビ番組『チコちゃんにしかられる』に出演している5歳の女の子のような高く特異な声が響きました。
なんと、突如として部屋のなかに現れたのはイルカでした。
あたかもエクセルの画面上にポムと出現したかのように、それはまったく突然、唐突というしかありませんでした。
竜宮とはいえ、城のなかに水はありません。それなのに、イルカはあたかも水のなかを泳ぐかのように空中に浮かんだままスイーと泳いできます。
そして、そのイルカの身体からなんの前触れもなく火花が飛び散りはじめたかと思うと、やがてポウと光を放って白い煙に包まれました。
煙がおさまると、驚いたことに、そこには乙姫が立っていたのです。
たしかに乙姫でした。
青い髪の毛に、青いルージュの唇です。
瞳も蒼い。
しかし、さきほどまでと異なり、その麗しい髪の毛のなかに1本の尖った角がのぞいています。
だまってそれを見ていた浦しま子でしたが、とうとうウーンと小さく唸ると、ブクブク泡を吹いて卒倒してしまいました。
乙姫は残忍な笑みを浮かべています。その頬にえくぼは見当たりません。
「桃子よ、この竜宮でおまえは死ぬのだ!」
乙姫は床に落ちている玉手箱を拾うと、みずから結び紐をほどきはじめています。
「させるか! 鏡・ザ・ブレード!」
桃子がそう叫ぶと、手鏡から光が上方へとどんどん伸び、それはまるで光かがやく剣のようになりました。
桃子はその光の剣を構えると、半円を描くように打ち降りあげて、乙姫の手元を一瞬で払い落としました。
声にならない悲鳴は切断された手から飛び散る激しい火花の音にかき消されました。
「おのれ桃子きさまぁー!!」
乙姫の腕の切断面からは、すぐにニョキッと新しい手が生えはしましたが、肝心の玉手箱はまたも床へ落ち、すでに桃子が剣の先端をまっすぐ突き立てているところでした。
光の剣に突き刺された箱からは赤い火花がロケット花火のように激しく吹き上がり、やがて音を立てて破裂してしまいました。
箱は炎に包まれました。
そしてその炎がベッドに燃え移り、低反発マットレスの上へ敷かれていた白い布団はあっという間に火へのまれていきます。
乙姫は部屋のなかにあった赤い消火器を持ち出して、ホースをベッドへ向けましたが、もう無駄でした。
ベッドが天蓋つきだったのが災いして、その屋根の部分を伝って炎は天井にまで達してしまったのです。
「おのれ、この海底要塞を放棄せざるを得んとは、桃子よ、覚えておくがいい!」
乙姫はポウと音を立ててイルカの姿に変わると、スイーっと泳いでいき、やがて右上の×ボタンを押したあとのように煙とともに忽然と姿を消しました。
「浦しま子!」
桃子は気絶している浦しま子を何回かゆさぶり、それでも起きないので何発かビンタしてまで引きずり起こすと、その腕を引っ張るようにして燃え盛る部屋から脱出しました。
そのあとはどこをどう逃げたものか、必死になって犬、猿、キジと合流、あとはもう走って逃げて、逃げては走り、なんとか炎に追い付かれずに城を抜け出たあとはさんざん上方へと泳ぎ、泳いで泳いで明るく見える水面を目指し、ようやく浮上して顔を水から出したら、そこはなんとどこかの港湾区域の埠頭にも近い船だまりのなかでした。
「酸素クリームの力がなかったら、溺れていたわ……」
桃子は浦しま子と手を取り合って岸壁から這い上がると、濡れて重くなった着衣の裾をしぼりました。
そばに傾いて立っている看板には『七尾波止場』と記してあるのが読めます。
「しま子さん、あなた泳ぎがうまいわね」
桃子は浦しま子の水に透けたお尻の丸みを見ながら言いました。
「桃子さんほどではありませんわ」
浦しま子は頬を紅潮させながら、濡れたハンカチをしぼって前髪の張り付いた額に当てています。
「あぁ、濡れて寒くて風邪をひきそう。お風呂に入りたいですね……桃子さん?」
しま子は振り向きながら、上目づかいに桃子の顔色をうかがいました。
毛先のしずくが、くぼんだ鎖骨へ落ちて、そのしずくを肌がはじきます。
桃子はやにわに頬を熱くさせていました。
かたわらで、キジが羽根をしきりとバタバタさせ、犬が胡散くさげにク〜ンク〜ンと鳴き、猿はキャッキャッと飛び跳ねていました。
浦しま子……。
桃子はずきずきと傷む胸の内側で、この名前をひそかにつぶやきました。
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