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  油ドンドン


 炭で塗りたくったようなどす黒い夜空の下を、私は銭湯へ向かって歩いている。
 夜中、急にある本が読みたくなって、寝床を這い出して夜の街へ出てきたのである。それはいいけれど、こんな夜中に営業している本屋などどこにもない。しょうがないので、街へ出たついでに湯でも浴びようと思った。
 銭湯は墨つぼの底に沈んだような暗い場末にあった。さいわい電気がついている。まだやっているようである。
 私はそこの戸を開けた。番台に、どうしようもなくしわくちゃの婆さんが坐っていた。小銭を渡し、暖簾をくぐる。ロッカーの鍵を引き抜いた。
 服を脱いでいると、後頭部になにかジリジリと感ずるものがある。気になるので私は後ろをちらっと見てみた。すると、番台の婆さんがこっちを食い入るように見つめている。いつも爺さんか、よくて親爺ばかりの風呂屋に若い私が入ってきたので、年甲斐もなく欲情したに違いない。けれど、どうにも隠しようが無いので、私は冥土の土産にと思って、タオル一枚のなりで婆さんの方を向いてみた。しかし、婆さんはもうこっちを見ていなかった。婆さんは、それより女湯の方を見てなにやら大いに鼻息を荒くしているように見えた。
 ガラス戸を開けて、浴場に入った。途端にとてつもなく石油くさい臭気が鼻を襲う。
 浴槽に張ってある湯を見ると、これはおかしい。どす黒くぬめっている。さっきの夜空のほうがよっぽどましだ。どうして見ても、これは重油に違いない。
 道理で私のほかに客がいない。さっき婆さんは女湯の脱衣場をのぞいて興奮していたけれど、本当にそんな客がいるのかどうか、疑わしい。
 しばらく呆気に取られてただ立ち尽くしていると、石油風呂の真ん中に、桃がひとつ浮かんできた。漆黒の湯の中に、妙に白く浮き立っている。薬風呂のつもりなのかもしれないけれど、桃一つでこの油の臭いはとれまい。
 不思議な桃を見ているうちに、桃がだんだん膨れてきた。私はぎょっとした。だんだんテニスボール大からサッカーボールへ、それからもっと膨れだした。よく見るとこれは桃ではない。しわの多く、しなびた老人の尻ではないか。
 黒い湯が波立ち、尻の主がしぶきを上げて立ち上がった。
 ざんばらの白髪に白いあご髭を思うままに垂らした小汚い爺だった。急なことで、私はただ呆然としているしかなかった。
 突然、爺が私の腕を握った。爺の手は湯で熱を持ってあつい。
 私は引き離そうとしたが、枯れ枝のように見える爺の手の力は強く、私を離そうとしない。グイと引っ張られ、私はつんのめって油風呂に頭から落ちた。とっさに息を止めたけれど、甲斐なく少量の油を鼻から吸ってしまい、一瞬気が遠くなったが、何とか首を水面から出した。
 すると爺が、
「くるしいか?」
 と、変な声で訊いた。なんだか普通の声ではない。テープを速回しにしたような、ヘリウムガスを吸い込んだような、異常な声である。
 答えないでいると、また爺が同じ事を訊いた。
 考えてみると、そういえば不思議と苦しくはなかった。むしろ、油に身を浸した今は、気持ちいい。温度も頃合、ぬめる液体が肌に心地よい。
「これは油ドンドンだから大丈夫なのだ」
 爺がひげを擦りながら変な声でつぶやいた。
 「油ドンドン」とは一体何なのだろうか。
 私は問うて見ようと思った。
 けれど、すぐにどうでもよくなってきた。心地よい。すべての臓腑はもちろん、心の中まで油ドンドンが染み入るようだ。もはや首を油ドンドンに浸していないのが勿体無く思えてくる。
 私は尻をずらし、浴槽の底へ仰向けなって身を沈めた。
 もう息ができないが、そんなものは屁の問題にもならない。油ドンドンを全身に浴びなければならない。油ドンドンにこの身を融かしてしまいたい。油ドンドンと同化するのだ……。
 それにしても、こんなにいい湯に客が少ないのが不思議である。どうしてなのかと思う。明日になったら皆に広めなければならない。まずは誰に教えてやるべきか、私は考えをめぐらせようとした。が、すでに身体は油ドンドンに融け始め、頭も働かなくなっており、もう本当にどうでもよくなってきた。



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*この小説はフィクションですから、実在の人物・団体等とはなんら関係ありません。

*この小説の執筆にAIは使用していません。

*無断転載をお断りいたします。

 平成14年(2002年)10月25日初出

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