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   駒帰らず


「それから、“コマガエリ”ってどんなところですか?」
 松本便の高速バス乗車券の日延べを申し出た女性が、変更手続きの済んだあと、そう唐突に尋ねた。
「“駒帰”ですか?」
 窓口を担当していた里塚が聞き直すと、女性はガラスの向こうで、
「ええ、駒帰」
 とたしかに繰り返した。連れの少年は女性のうしろで黙っている。
 昼下がりの公園下サービスセンターでのことだ。
 このセンターは公園下といってもバスの車庫の片隅に位置しており、普段から来客はごく少なかった。1人勤務が基本で、昼食は1時間ほど窓口を閉めて、その場で喰う。独り者の里塚はカップヌードルを持参している。電気ケトルのスイッチを入れて、そろそろシャッターを閉めようかと思案していた頃合いで、女性と少年の2人連れが窓口へ訪れたのだった。
 女性は30代のなかばだろうか。里塚にはそのように見えた。すらっと背筋がのびていて、リボンのようなベルトのある玉子色のワンピース姿だ。上品な気配がある。チケットは松本線の安曇支所前からの往復の帰りだったので、旅行者かと思えるが、手荷物はない。同行の少年はといえば、女性のうしろに立ってうつむいている。Tシャツに『Zarusoba』と書いてあった。中学生か高校生くらいと見えるが、息子なのか弟なのか、あるいは親戚の子どもなのか、微妙だ。終始、口を開かない。女性がすべての手続きをおこなっていた。
「駒帰ですか……。山のなかの終点で……とくに、まぁ見るものはないと思いますけど……」
 里塚は少し言い淀んでしまってから、
「犀川の渓流はきれいですけどね」
 と付け加えた。
「渓流ですか、川の上流のほうになるんですか」
「ええ、ダムの手前ですよ。トンネルをくぐって。……僕も高校のときに行ったことがありますよ」
「そうですか」
 ほかに職員はおらず、来客も少ないという気安さもあって、里塚はつい無駄口をきいていた。
「でも、お客様は駒帰へどうして行かれたいと思ったんですか?」
「いえ、……バスの行き先に駒帰と書いてあるのが見えたもので、どこか、その文字にひかれたものですから」
 と女性は言った。
 長野県の安曇支所前から来たわけだし、言葉のイントネーションからしてもこちらの人ではなさそうだが、それなのに“駒帰”をよく読めたなと思った。
「駒帰ゆきは、どこから乗ればいいですか」
「行かれるんですか?」
「ええ」
 女性は2度、うなづいた。目蓋がかすかに光った。うしろの少年はうつむき加減に黙ったままだ。
 里塚はバスのりばのマップをパウチしたものを広げると、現在地とのりばを交互に指で示した。女性に訊かれるままに次の駒帰ゆきの時刻を教示する。本数の僅少な行き先なのに、偶然にも手近な時間にちょうどあった。
「でも、駒帰へ行かれても、おそらく見るものはないですよ、帰りのバスも少ないから、すぐ帰ってこなきゃいけませんし」
 里塚が老婆心でそう告げたが、女性は小さく微笑しただけで、黙って会釈すると背を向けてしまった。
 2人が自動ドアーのがたつく音とともに去っていったあとで、大丈夫かな? と里塚はつぶやいた。1人勤務のカウンターには同僚は誰もいない。つぶやいた言葉は独り言になった。
 駒帰。
 里塚にも、その名前に妙に心ひかれた記憶がたしかにあった。
 まだ高校生だった頃、通学のためにいつも乗るバス路線のなかに、1日に2、3本だけ、その行き先がまぎれこんでいたのだ。といっても、毎朝の通学時にはそのバスに当たることはない。行事の関係でいつもと違った時間にバス停を訪れたときに、たまたま実物を目にすることがあったくらいだ。駒帰ゆきのバスを見ることができるとラッキーだとする言説が、生徒たちの間に流行っていた。
 “帰”という文字が含まれる地名はほかに記憶がなく、高校生の里塚には印象的に思われた。
 “帰”。
 “駒が帰る”。
 駒帰とは一体どんな場所なのか。
 そこまで行ったバスが、まさに帰るしかなく仕方なさげに引き返しているイメージが頭のなかに浮かんでいた。
 そのような駒帰への印象が一変したのは──高校2年の9月のことだ。
 夏休みが終わって、うたげのあとのような物憂げな気分の始業式で、ある女子生徒が亡くなったことが明らかにされた。里塚と同学年の生徒だ。まったく知らなかったが、休暇のなかばから行方が分からなくなっていたらしい。
 すぐに、自らいのちを絶ったことと、遺体の発見されたのが、あるバスの終点近くだったという真偽の分からない内容が噂としてクラスへ流れてきた。
 そのバス停が駒帰だった。
 亡くなった女子とは学年こそ同じだったが、クラスも違うし、とくに話したこともなく、顔と名前が一致するかもあやしいくらいだったが、友人の高詰から、ひそかにその子へ片想いをしているという秘密めいた打ち明け話は、しきりと聞いていた。
 高詰によると、その女子は陸上部のマネジャーをしていたらしい。彼はテニス部だが、コートの向こうが陸上部のトラックなので、練習場所は隣り合っていて、部活の合間に盗み見るチャンスは多かったという。部内での人間関係は良好。休み時間はまわりに女子が集まっていて、遠巻きに見るしかなかったということを何度か言っていたので、おそらくクラス内でも友人は多い。成績も良かったそうだ。
 その彼女が、どうしてあのような決断をするほど思いつめたのか、不明というしかなかった。クラスの違う里塚はもちろんだが、逐一、彼女の姿を目で追っていたらしい高詰にさえも、そのような兆候や、追い詰められているような様子の心当たりはまったく思い付かないようだったからだ。
 高詰にさそわれて、彼女が命をとざした駒帰というところまで行ってみようということになったのが、9月中旬のことだ。むろんそれは、高詰が言い出した。彼女が最後に何を見て冥界へ旅立ったか、それを知りたい、しかし1人は心細いので、一緒に行かないかというのだ。
 夢見がちな年頃でもあり、ともすれば、高詰には彼女の死が自殺だと信じられない、真実をつきとめたい、このように思い込んだ部分もあったのかも知れない。
 駒帰ゆきのバスは錦町を過ぎると、それまで家屋や低層ビルの建て込んでいた風景がページをめくったみたいに一変し、左に浅野川、右に犀川を見下ろして走るようになる。このあたり、小立野台地が牛の首のように狭まって、その首の上を伝うように道は続いているために、見晴らしが良いのだった。
 雑木林のなかを抜けて、やがて視界が開けて東部車庫前まで来ると、バスの運転士が振り返って、どこいくのー、と訊いた。
 駒帰です、と声がそろった。
 なにしに行くの、と独りごちるように言いながら、年輩の運転士は物憂げに前へ向き直ってアクセルを踏んだ。左手で操作したチェンジレバーがゴキッと音を立てる。飛び降りじゃないやろね、と、マイク越しの声がスピーカーから流れた。
 東部を出ると、客はすでに里塚と高詰だけになっていた。
 トンネルを抜けると道はどんどん狭くなり、右の車窓に添う犀川は谷を成しはじめ、道が高度を増すとともに、その水面が遠くなっていく。ガードレールに刈りとったばかりらしい稲穂が干してあった。
 バスが終点に着いた。
 はい駒帰どうぞ。バスの運転士はマイク越しにポソリと告げると、前ドアーを開けた。
 駒帰。
 そのように記したバス停は道の隅に錆びて傾きながら立っている。土台の石が苔で緑色だった。
 大きな石碑の前の終点だ。床屋の廃墟があり、『犀川農協理髪部』と大書した看板が汚れてくすんでいた。
 せせらぎの音は、少し下のほうから聴こえた。バックして方向を変えているバスを横に見ながら、その音のする方向へ進むと、橋が架かっていた。深緑色の欄干だった。秋の風が流れている。橋は高く、渓谷を成す犀川の流れの深緑が眼下に光る。
 里塚は橋から俯瞰するその風景が単純に綺麗だと感じていた。水ははるか低いところを流れ続ける。か細い水量ながら、次から次から、ひたすらに流れる。小さな岩に阻まれてさえ、白く抗いながら岩を噛み、岩をかきわけながら、流れることをやめない。この少し頼りなくも無心な流れが、いつしか金沢市内で見る犀川の雄大な川幅に変わっていくのか。
 しかし友人の高詰の目には、その風光などはなにひとつ映らなかったらしい。
 高詰は終始ずっと黙っていて、欄干にもたれながら、うつむいて眼を伏せている。
 1人にさせてくれないかと欄干に立ち尽くす友人の腕を必死に引っ張って、帰りのバスへ戻った記憶がある。
 駒帰は里塚にとって、そのような場所になった。
 その駒帰へ、さきほどの女性と少年は、本当に向かったのだろうか。
 デジタル時計が、公園下のバス停を駒帰ゆきが通るはずの時刻を示していた。
 里塚はその晩、帰宅してから独りの部屋でアルコールを多めに飲んだ。
 そして翌日もまた公園下サービスセンターの淋しい窓口で1人勤務だった。
 午前9時に窓口を開いても、しばらくは誰も来客はなく、コミュニティバスの運転士の入口さんが自販機のカップコーヒーを手に冷やかしに来たくらいだった。
 数時間が経過したころ、自動ドアーの作動する気配がした。たてつけの悪くなってきたドアーはレールの上で音をたてる。窓口の仕切りガラス越しに見ると、入ってきたのは、なんと昨日のあの少年だ。
 女性はいない。少年1人だった。
「このチケットを払い戻してください」
 そう言いながら、少年は手ずれて少し皺ばんだ乗車券を窓口へ差し出した。
 はじめてきいたその声は、見た目のわりに幼い。おそらく声変わり前だった。となると、大人びた表情のわりに、意外と12、3歳くらいなのかも知れなかった。すれば、やはり女性は母親で、彼はその息子なのか。
 里塚は受話器を取って予約センターと通話した。電話の向こうのオペレーターは同期の女子社員の伊田だった。
 券面記載の予約番号を伝えると、
『ミドノ・コズエ様、お日にち本日9月8日、はちの日、14時40分金沢から安曇支所、1号車3番アメリカ・ボストンで、大人お2人様のご予約。……お2人分の予約になっとるけど、2名のうち、1名のみトケ、これでよろしいげんね?』
 と、立て板に水で訊いてきた。同期の気軽さか、くだけた口調だ。
 里塚は受話器を手のひらで抑えながら、
「お2人のうちお1人キャンセルということで良いですか?」
 と少年に訊いた。黙ってうなづいている。
「もしもし伊田さん、そしたら3番ボストンのみキャンセルでお願い」
『了解やけど、3番ボストンは女性で割り付けてあるけど、女性のほうをトケでよろしいげんね?』
「あっ少し待って」
 里塚は保留ボタンを押して受話器を置いてから、
「キャンセルされるのは、男性、女性、どちらのかたですか?」
 と聞いた。取り消したあと、新しい予約が入ったときにに異性同士が隣同士になっては困るからだ。
「母がキャンセルで、ぼくは乗ります」
 少年はそう告げた。
 母。やはり姉とか親戚ではなく、母親だったのか。
「かしこまりました」
 里塚は受話器を手に取り、保留を解くボタンに指をのばしつつ、ふと思った。
 ならば、母──あの女性はどうしたのか。
 昨日、駒帰へののりばや時刻を尋ねて、どうやらそこへ行ったはずなのだ。
 それがいま、少年だけ窓口を訪れて、母親のチケットのみをキャンセルだと申し出ている。
 あの女性はどうしたのか。
 まさか自ら……。
 高い橋の上から眺めた犀川の渓谷が思い出される。
 もしそうなら、そのとき、この少年はどうしていたのか。
 あるいは、じつは駒帰へは母だけが行き、少年は残ったか。中学生なら、親と常に一緒でもないだろう。別れて1人で行動してもおかしくない年回りといえる。現に、いまがそうだ。
 しかし、ならばチケットをキャンセルする──乗らないということが分かっているのは何故か。
 いや、まさかとは思うが、親子で心中しようとしたが、少年だけが死にたくないと逃げてきた可能性もある。
 どちらにしても、こういうことなのならば警察に届けなくてはならない。
 憂いの影のあったあの女性の顔が、少年の白皙に二重写しのように浮かび上がる。
 どうしたらよいか。
 のばした受話器が手汗に濡れる。
 するとそのとき、自動ドアーが開いた。心持ち急ぎ足で窓口へやってくるガラス越しの人影を里塚は見た。
 なんと、あの女性だ。
「ちゃんとキャンセルできた? キャンセルできた?」
 息せききって少年に声をかけている。
 里塚がまじまじとその顔を見ると、視線に気付いたのか、女性は小さく会釈した。
「昨日の方ですか?」
 里塚は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたが、やがて顔をひきしめた。ええ、と返事をしつつ、
「昨日は、あれから駒帰へ行かれたんですか?」
 と尋ねかえした。
「ええ、ええ。行きました。行きました。……わたし、昨日は嘘をつきました」
「嘘?」
「いえね、バスの行き先で見たなんて申し上げましたけど、実は、初恋の彼が、その駒帰に移住してましてね、Iターンです。陶芸をしたいと思っていたみたいで。それで彼とはフェイスブックで繋がっているんですけれど、来ないかってメッセージを頂いたんですよ。それで本当にお邪魔しちゃったんです。それでね、聞いたら彼もいま1人だっていうじゃないですか、それで何日かお世話になろうと思うの。綺麗だったわぁー、犀川っていうんですか、渓谷でね、樹が繁っていて。終点の先の農村風景っていうんですか、あれも綺麗でした」
 女性は1人で延々まくしたて、まくしたて終わると今度はホホホホホと笑っている。
 里塚は少しあきれ顔を浮かべている少年と顔を見合わせた。
「すみませんでした、手続きを続けて下さい」
 少年がため息まじりに促した。聡明そうな子だ。
「そうしましたら、往復割引の6,800円から片道運賃4,000円を引いて、手数料100円がかかりますので2,700円のお戻しですが、これでよろしいですか?」
「よろしいです!」
 少年がハイと小さく答えるのにかぶさるようにして、母親が明朗な声を出した。昨日とは印象がずいぶん異なるように里塚は思った。
 とすると、昨日は、その初恋の相手という人物に会えるという緊張や期待から表情を固くさせていただけだったのか。
「お寿司にしましょうね、お寿司にしましょうね」
 と、ひどく上機嫌な女性とは対照的に、息子らしい少年は沈んだ表情のまま払い戻しの紙幣を受け取っている。受け取った紙幣はそのまま母親に手渡したが、母親は笑顔を浮かべながら、そのうちの1枚を息子に返した。息子は黙ったままそれを4つに折ってポケットへ仕舞った。
 昨日と同じように自動ドアーががたつく音を立ててスライドし、2人は去っていった。
 デジタル時計を見ると、金沢発松本ゆきの発車する14時40分まではまだかなり時間がある。とすると、駅近辺で2人で昼食でも取って、息子だけはバスに乗り、母はまた駒帰へ向かうということか。それか、その初恋の相手とかいう人間の車を駐車場に待たせてあって、3人でランチを済ませようという算段なのかも知れない。
 息子は気まずいだろうな。
 いずれにせよ、窓口を去ったお客のことは、あれこれと考える必要はないし、そのような立場にもない。終わったことだ。あとは無事乗ってくれれば良いだけの話である。
 里塚は受け取った復路券に「払戻」の判子と自分の印鑑を押して、本社の審査担当へ送るジッパー付きビニール袋へ入れた。
『綺麗だったわぁー、犀川っていうんですか、渓谷でね、樹が繁っていて。終点の先の農村風景っていうんですか、あれも綺麗でした』
 作業をこなす間に、女性のまくしたてた言葉がリフレインした。たしかに里塚にも、駒帰を訪れた最初にはそのように感じた記憶が残っている。そうだ、駒帰はこわいところではないのだ。川は澄んで、緑が映えて、綺麗なところだ。
 あのとき泣いていた高詰はいま、すでに細君を得ていた。里塚よりも先に、だ。高校を卒業してからは連絡も取らなくなり、すっかり疎遠になってしまったが、結婚したということは人づてに聞いていた。亡くなった同級生のことが目蓋に思い浮かぶ瞬間は、さてあるのだろうか。
 と、そこで思い出した。
 忘れていた、予約センターへの通話を保留にしている。急いで受話器を取って解除すると、待ちきれなかったのかもう電話は切れていて、ツー、ツー、ツー、と電子音が鳴るばかりだった。
 伊田にあやまらないとな、と里塚は思った。




*この小説はフィクションです。実在の人物・団体等とはなんら関係ありません。

  令和3年(2021年)9月4日 公開


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