041
湿った文庫本
「だからバスはイヤだって云ったのよ」
星田が雨に濡れた制服の腕のあたりをハンドタオルでぽんぽんと叩くように拭いながら、口をとがらせた。
「電車だって同じだろう、駅から同じバスに乗り換えるんだし、どうせ歩くんだからさ」
「電車なら駅で、雨が弱くなるまで待てたじゃない」
それもそうかと思った。バス停の屋根は心もとなく、幾人もがバスを待つ下校どきは、屋根からはみ出した肩が雨に打たれることになり、けっきょくは傘が必要だった。しかも風のある今日はたとえ屋根の下に立っていたって風に流れた雨に打たれる。
星田の濡れたブラウスの白い布地が、濡れたところだけ色を濃くして、ぺっとりと肌の輪郭に吸いついていた。
けれど僕は、それを見てさえ、とくにどうとも感じない。
あちらこちらにできた水溜まりに波紋が生まれては消えている。スニーカーのつまさきが少しじんわりと濡れた。
遅れてきたバスは、ひどく混んでいた。バス路線のはじめの方にあるいくつかの高校の生徒が大挙して乗っている。川上に流した落ち葉がみんな川下へ流れてくるように、バスの車内には様々な制服が入りまじる。川上の高校の生徒らは、えらそうに座ったまま、おれらのバスだ、という態度で新入りをにらみまわしているようにも見えた。
僕と星田はつり革につかまった。
『つぎ・とまります。バスが停車してから……』
まだバスが動き始めてもいないのに、唐突にそんな放送が流れた。立っている誰かの身体が押されて、握り棒のボタンに触れたんじゃないのか。
星田の肩にかけている鞄のすぐ横の手すりに、鞄と同じ高さで降車ボタンが光っているのがひどく気になった。
「こんどまた細田監督の映画があるんだよね」
星田がつり革をキリキリと鳴らしながら云った。
「わたしは、観に行きたいと思ってるけど」
僕が黙ったままでいると、
「あんたは?」
とぶしつけに顔をのぞきこんできた。
「僕は興味なし」
「観に行かないの?」
「だってアニメだろ」
「アニメだって子ども向けのあんなのじゃないんだよ、立派な映画なのよ。細田作品は文芸よ。絶対に観に行った方が良い」
バスがつぎの停留所に停まったが、降りる人は皆無だった。しばらく開いていた出口のドアーは、だまって淋しく閉まった。
まだ星田はぶつぶつ文句をつぶやいている。
「鞄、気を付けろよボタンあるから」
僕はいましも鞄が接触しそうな降車ボタンの存在を指摘したが、星田はいまいちピンと来ていないようで、
「このストラップ、いいでしょ。一緒なのあるけど欲しい?」
と、鞄につけている何者なのかは分からないぬいぐるみの自慢をはじめた。
バスの車輪が、道路にあふれる雨水を跳ねながら走る。ロンリウムを敷き詰めた床は乗客たちの靴に濡れて、しんなりと湿り気をもつ。その湿気が立ち昇り、身体にまつわりついた。
ターミナル駅のロータリーをぐるりと回ってバス停に到着し、生徒たちは大挙して降りはじめた。バスは引き続き団地のほうへと向かうので、このまま乗っていればよい。1つだけ空いた座席に、星田は目ざといババみたいに素早く座って、おどけた顔でこちらを向いた。
「お前も遠慮がないな」
「女の子が先に座るの、当たり前でしょ」
こんどはツンと顎を上へ向けて云う。
「お前の彼氏になるやつは大変だろうな」
僕がそう云うと、星田は眉間にしわを寄せた。
バスは団地への坂を上がっている。バス停ごとに、濡れた制服の群れが減っていく。
「じゃあね。貸したアレ、返してね、」
星田は降り際にそう云って、降車口へと去っていった。
3日前に押し付けるように渡してきた長野まゆみの文庫のことを云っているのだ。まだ1ページも読んでいない、どころか、1行も読んでいない。いや、ページをめくってさえいなかった。男が読むものかよ、長野まゆみなんてさ。
家に帰ると、玄関には小さなサイズの黒のローファーがきちんと揃えられて並んでいた。
見慣れたものだ。兄の彼女の宮さんが来ているらしかった。
いまではもう家に遊びに来るのはとくに珍しくもない。とくに今日のように、母親が夜勤の日の晩は。
リビングのソファーでテレビを観ながら飲み物をかたむけている2人の後ろを通って、カップヌードルに注ぐ湯をつくるため、電気ケトルのスイッチを入れた。
カップヌードルの底のシールをベリッと剥がしながら2人の様子をうかがうと、すでに仲むつまじい夫婦のようになっている2人は、もうあまり会話がなくても、会話の要らない時間をたのしめているように見えた。
兄はチューハイの缶を宮さんのグラスへ注いであげている。新しい氷を入れ直したばかりらしく、トクトクと音がするたび、氷の固まりが白く洗われているようだった。
缶チューハイをだいぶ空けているようで、テーブルの上には口の開いた色とりどりの缶が林のように並んでいる。割るのに使っているのか、もっと強いらしいお酒の円柱形の容器──鏡月と書いてある──もあった。そんなに飲み過ぎると、からだに悪いのに。しかし、といっても兄は元々そんなには飲めないはずだ。とすれば、宮さんか。
こんなに飲む人になるなんて、中学時代の印象では、まったく思わなかったが。
兄の彼女の宮さんは、僕の中学生のときの2つ先輩でもあった。同じ卓球部にいて、3年生が引退するまでの2ヶ月間だけは部活で一緒だった。
卓球部へ女子部員の受け入れが始まった最初の年に入部した1人ということだったが、3年の間で身につけた技術は高く、とくにカットという特殊な回転を加えて打ち返し続ける戦法を得意としていた。
まだ兄と付き合っていなかったその頃の宮先輩は、僕にやさしかった。
本来ならば、まだ球ひろいか、よくて壁打ちしかさせてもらえないような新入生の時期に、宮さんは部長や顧問の眼を盗んでは、僕をラリーに誘ってくれたものだ。
卓球台の出し入れは1年生の仕事だったのだが、はじめ、折り畳み式の台の片付け方がよく分からず戸惑っているとき、柔和に微笑みながら手伝ってくれたのも宮先輩だった。
宮さんは、僕を気にかけてくれていたのだろうと思う。
校舎の周囲をランニングする僕がへたばっていると、後ろから追い付いた宮さんが背中を2、3度叩いて、ファイ! と勇気づけてくれた記憶もある。
長い前髪が透明な汗をはじいて、きらきらと輝いていた。
思えば、部の引退を迎えて顔を合わせることがなくなってはじめて、僕は自分の感情に気づいたのかも分からない。
それから、宮さんといえば長野まゆみだ。長野まゆみの小説が好きで、いつも文庫本を鞄のなかに携えていた。
読まない? と手渡された文庫本を、いいです、と云ってそのまま返してしまったとき、宮さんがひどく淋しそうにしていたことが、いまも昨日のことのように鮮明で、心がいたむ。
星田に長野まゆみを知っていると口走ってしまって、やつが急に近寄ってくるようになったきっかけも、思えば宮さんがもたらしたのかも知れないな。
自室で喰べたカップヌードルの残り汁を捨てにリビングへ戻ってくると、
「先に風呂へ入れよな」
兄が酒のグラスを手にしたまま僕へ告げた。おそらくあとから2人で入るのだろうと思えたので、
「お湯は抜かないでよ、明日の朝、おかぁさんが入るから」
と言い含めておいた。
「わかってるわかってる」
と、酒気を感じる兄の生返事。向かいにいる宮さんは、僕のほうをチラッと見て、片目をつむった。ほんとうにそうだったのか、目にゴミが入っただけのようにも見えたが、僕と目線が合うと、もう一度同じことをした。あまり上手くないウィンクだな。
肝臓には気を付けてほしい。そんな気持ちを込めて、僕は小さく会釈した。
自室にもどって、勉強もそこそこに手がとまってしまったので、机に出しっぱなしになっている星田の文庫本を手にとってみた。タイトルは『天体議会』とある。パラパラとめくってみる。そう厚くはない。文字も大きい。読みやすそうだ。
この作品も宮さんは読んだことがあるのだろうな、と思う。
せっかくなのだし、少しだけでも目を通してみるかと、ページのはじめに戻ったそのときだ。階段をのぼる2人の足音が廊下から聞こえてきて、最後に向かいの部屋のドアーの閉まる音が響いた。
あぁ、あれが始まる。
僕は舌打ちをしながら、イヤホーンを耳へ押し込んだ。音量を大きくしてから、再生ボタンを押した。スマートフォンの画面に『これ以上音量を上げると聴力に影響が出る恐れがあります』と表示されたが、僕は無視して音量ボタンを押し直した。2人の立てる物音を聞きたくはない。押しころした声も聞きたくはない。いまよりあどけなかった頃の宮さんの笑顔が思い浮かんで、やがて涙が落ちるからだ。
流れてくるメロディに耳を傾けながら、いたずらにページをめくった。文字を追う気分になれるまで、曲が気分を洗い流してしまうまで。パラパラ漫画のようにページをめくっていると、後半のページの1枚に、丸く濡れた痕跡のあることに気づいた。1cmほどの大きさだが、そこだけ紙の表面が波打って皺になっている。
星田の涙のあとか。
僕はもうやめにして、閉じた本をそのまま明日の鞄へ押し込んだ。
電気を消して、部屋をまっくらにしてから、毎晩のルーチンのごとく1人での短い遊びを終えて、始末を済ませた。
そのまま音楽を子守歌にして眠りに就こうとしたが、けっきょく眠れないままにCD1枚ぶんほどの時間が過ぎてしまったらしい。再生メニューの曲はすべて終わり、音はやんだ。最後に何曲か続いたバラードのおかげか、ようやくまどろみかけていることを自覚したので、そのままイヤホーンを耳から外した。
その時分のことだった。
ガチャ、と小さな音とともに扉があいた気配がして、再び眠りから呼び戻された。
薄目をあけると、廊下の光が暗い部屋へさしこんできていた。
そこで影法師になっているのは、線の細い、小柄な……。
宮さんだ。
電気を消した僕の部屋のなかに、パジャマに着替えた宮さんが立っている。
ねぼけているのだろうか、夢を見ているのだろうかとも思いかけたが、いや、意識ははっきりしている。
宮さんは、ため息のような息づかいとともに、無言で僕のシーツをめくって、もぞもぞとベッドに入ってきた。
お酒のにおいと、石鹸のにおいがまじっている。
「あついね……」
と、宮さんは僕の耳元にささやいた。
一体なにが起こっているのか。
本当に現実なのか。
いま、ここでどうすれば答えなのか。
鼓動がしずまらない。
しかし、そのようにたかまる鼓動の一方で、これを打ち消しにかかるネガティブな答えが脳裏によぎってしまった。それはもっとも常識的であり、僕自身にとってはもっとも淋しい答えだった。
「部屋、まちがえてます」
僕は、しわがれた小声でそう云った。
「え、」
宮さんは言葉につまった様子だったが、
「ごめんなさい、まちがえた」
と云いながらベッドから抜け出て、僕のシーツの隅をととのえて直してくれた。そして、特段あわてた様子もなさげに部屋をあとにした。
宮さんの小さい後ろ姿が廊下へ消えたあと、向かいの兄の部屋のドアーの閉まった音が壁越しに聞こえた。
──だいぶ酔っていたのだろう。酔っていたんだ。それで小水に立ったあと、部屋を間違えたにちがいない。
他人の家ではあるけれど、何度も訪れた家の部屋をまちがえるほど、お酒を飲んだのだろうか。
あついねと云っていたが、さきほどの宮さんの体温は、たしかに高く感じられた。
慰安をもたらす戯れが、すべて済んでからのことで本当に良かったと思った。
眠ってしまおうと眼を閉じながらも、ほとんど意識が落ちていかないもどかしさに、僕はベッドから起き上がるしかなかった。
飲みのこしたまま勉強机に置いてあったペットボトルのサイダーを一気に飲み干す。炭酸は完全に抜けていた。僕は空になった容器を手に、階下へ降りた。
風呂場の明かりをつけて、張りっぱなしにしてある残り湯のなかへ、そのペットボトルを突っ込んだ。沈めたボトルから空気のあわがぶくぶくと浮かんではじけた。いっぱいに溜まると、ぼくは蓋を固く締めて、それを部屋へ持ち帰った。
その晩の夢のなかで、久方ぶりに夢で宮さんに会えた。中学時代の姿の宮先輩が夢に出てくるのは、そうめずらしくはない。
ところが、夢のなかでの宮さんは、いつしか星田にかわっていた。なぜ星田なのだろうか。夢のなかでの星田は僕の前で急につま先立ちになって、顔を近づけて1人で勝手に目蓋を閉じていた。僕が云うのもなんだが、ひとりよがりなんだよな。唇はカサッとしていて、なぜかチョコの味がした。夢のなかにおいて、星田はどうやらさっきまでそれを喰っていたらしい。僕は、チョコは頭痛がするから喰えないんだよ、と思いながらも、黙って唇をあわせていた。星田が僕にしがみついてくる。夢のなかの僕は、たったそれだけで1回、2回とはりつめて、濡れる感触をおぼえていた。
翌朝は昨日が嘘のように晴れていた。洗濯機を回したあと、玄関先であるじを待っている宮先輩の小さな靴を横目に家を出た。
一番バスに乗る。空席の目立つバスは軽やかに下り坂を走っていって、高台3丁目東のバス停に着くと、待っていた星田がバスの到着に気づいてイヤホーンを外すのが見えた。
「おはよ!」
イヤホーンを鞄に仕舞った星田は、まっさきに後ろの座席の僕のほうへ歩いてくる。
おはよう、と片手を挙げると、星田はにこっと笑って、
「今日はよく眠れたみたいね」
と云った。
ハッカの匂いがする。
まだほかが空いているのに、僕の横にぎゅっと座ると、星田の体温がズボンの太ももに伝わってきた。
ハッカの匂いがする。コロン、と星田の口のなかで飴のころがる音がした。
チョコよりはハッカのほうが良いな、と僕は思った。
「本、読んだ?」
星田が、飴のコロン、という音とともに小声でささやいた。
「あー読んでないわ」
「じゃあもう少し貸すわ」
僕は鞄のなかから文庫本を取りだそうとした手を止めながら、
「おまえ、悩みごととかなさそうだよなぁ」
と毒づいた。
「悩みごとだらけでしょ!」
こう反論しながら、星田はキャンディーの包みを僕に差し出したことだ。
終
MORI SAKETEN.com SINCE 2003
|