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 野町の子守唄


 暑い日だった。陽はすでにかたむきはじめているけれど、まだまだ気温はさがらない。ハンカチで額をぬぐいながら、ゆるやかな坂道をあるいた。水路の流れる音と蝉の声だけが聞こえる。
 野町駅での乗り換え待ちに三十分程度の時間があれば、かならず足を運んでみる場所がある。狭く入り組んだ路地を右に左に曲がる。迷路のような道のりだが、決して間違えはしない。
 路地はやがて行き止まりになる。小さな古い家がある。足を運んでみて、あぁ、やはりな、と、今日もいつも同じことを思った。郵便受けはガムテープで塞いである。窓をふさぐ障子の紙は乾いて剥がれかけている。鉢植えは枯れて雑草が茂っている。ただの空き家である。やはり、人の気配はしないのであった。何度も同じことを再確認している。
 よそ者の迷い込むこともほとんどない住宅密集地の袋小路で、こうして空き家のまえで立ち止まるぼくを、人が見たら、さてどう思うか。ぼくは道に迷ったふりをして、時計でも見ながら足早に立ち去るのである。
 ここは、野町の祖父母の家だった。
 幼いころ、この野町の祖父母の家へ、よく連れて行ってもらった。ぼくのほうの地域の言葉では、祖父母の家を「お里」と云う。お里へ行こうと、母から云いだすこともあれば、ぼくのほうからせがむこともあった。
 両親と旅行へ行ったという記憶がいちどもなく、また母に連れられてどこかへ遊びに行くということもない家に育ったので、野町のお里へ行くことだけでも、ぼくにとっては、たのしい旅行の感があった。お里に連れて行ってくれとねだるのは、野町の祖父母の顔を見たいとかいう子どもらしい理由ではなくて、バスに乗りたいから、という不純な欲求がつよくあったと云ってしまって間違いない。
 野町のお里に着いて、祖父母に迎えられる。おやつなど喰べながら、取ってきた「整理券」を戦利品とばかりに掲げた。バスに異様な興味を示すのは、当時からのことだった。
 野町のお里では、ぼくはよく祖父に散歩をせがんだ。野町の祖父は、たったひとりの孫をよくかわいがってくれていたようで、散歩を断られるということはなかった。ルートは日によって違ったが、かならず組み込まれていたものがふたつあって、一つは南大通りをしばらく歩くことだった。
 南大通りは、広小路から有松へ至る往来だ。かつては南端国道といわれたそうだ。北鉄バスの南部方面路線が集結しており、四十万や南松任、工大前をはじめとする主要路線から、快速小松駅や辰口ハイタウン、白峰、急行山中温泉など遠くへ遠くへ向かうものも走り、白黒や青、ときにはチョコレート色など、カラフルな行き先表示を眺めているだけでもひとつの楽しみだった。
 もう一つは野町駅だった。野町駅は鶴来へ行く北鉄電車石川線の起点だが、起点としては中心街から離れすぎているために、乗客の大半がバスに乗り換える。電車とバスを同時に見ることができるため、ぼくはいつも散歩の行き先がここになるように祖父を誘導していた。
 野町駅の、ガラス張りの待合室のベンチに坐って、接近表示盤を見つめる。いまどこまで電車とバスが近づいてきているか、これを見れば分かるようになっていた。まず、電車マークのランプが、二つ手前の「新西金沢」の欄に灯る。続いてバスのマークが「片町」に点灯する。片町は野町駅の二つ手前の停留所である。負けてなるものかと電車が「西泉」にまで近づいてくる。白熱した闘いが繰り広げられる。これを見ているだけでも楽しかった。双方向から、しかもバスと電車の二種類が表示されるので、異種格闘戦の様相を呈していた。
 バスが「広小路」までやってくると、ガラス越しにバスが来るほうを見張らねばならない。じっと眼をこらしていて、しばらくすると、二台のバスが仲良く連れ立って来て、乗客をどっと降ろすのだった。そこでうしろを振り返ると、電車がジリジリというベルと共にホームへ入りつつある。目まぐるしかった。
 野町駅のバス乗り場には、一番標識、二番標識とあって、二台のバスのうち、前側の一番標識に着くのは錦町ゆき、後ろの二番標識が柳橋ゆきとなる。いまはそうではなくなっているが、ぼくの子どもの頃はこうだった。電車からの乗り換え客が、急ぎ足でコンコースを通り抜けてきて、バスに乗り込む。大抵の客は柳橋ゆきに乗り、錦町ゆきはあまり人気がなかった。これは、当時の錦町ゆきが車線変更の都合上、片町に停まれなかったためだろうと今になって思う。
 バスと電車が旅立っていき、ぼくたちだけが残されると、祖父は「さあ、帰ろう」と云う。が、ぼくは「次のバスも見たい」などとわがままを云った。石川線電車は三十分間隔だから結構な待ち時間だったと思うが、祖父は従ってくれた。そういうふうにして、最高、四便くらいは連続で見たはずである。けれどそのあたりが限度で、だいたい四回目になるとぼくでもさすがに飽きた。
 見るだけでなく、実際に乗るのをたのむことも多かった。乗るときはバスではなく電車をもとめた。ぼくの住んでいた村には、線路はあっても、駅がなかった。電車は普段乗れない乗り物だったから、めずらしかったのだろうと思う。
 そのころの石川線電車は、いまのステンレス製ではなくて、クリーム色とオレンヂの塗り分けの古びた田舎電車だった。まだ車掌が乗っていて、時間になると車両の隅っこにある紐を引っ張った。すると「チンチン」と鐘が鳴る仕組みになっている。これで発車だった。この旧型車は、いまの車両のように静かではなく、地の底から震えるような重厚な低音で唸った。また、線路が悪いのか車両が悪いのか分からないが、とにかく揺れた。吊革が振り子のように動き回り、ラインダンスの脚のように踊った。冷房すらない。夏には窓が全開された。踏切の鐘の音が、風鈴のように清涼感をもたらしていたものだ。
 西泉の駅を過ぎて、橋梁で伏見川を渡ると、新西金沢である。ぼくたちはここで降りる慣習だった。そのころ新西金沢駅には側線の車庫があり、いつも一両が停泊していた。「あの電車は?」と祖父に尋ねると、「壊れた電車や」との答えがかえってきた。いまになって考えれば、そんなことはないはずなのだが、あのときのぼくは、もう二度と動くことのできない電車なのだと、哀れに感じたものだった。運用の都合なのだろう、祖父が故障車よばわりしていた電車は、そのころ、いつ来てもそこにいた。夕暮れ時にさしかかったときなど、ことさらもの悲しげに西日を浴びていたのを憶えている。
 西金沢からは、五十三番というバスに乗って帰るのがお決まりであった。五十三番は西金沢と兼六園下を結ぶ路線で、いまも走っている。均一区間なので整理券が出ない。それがすこし物足りなかった。十分ほどで野町に着く。その車中のことは、あまり印象に残っていない。疲れて眠っていることが多かったのかも知れない。いや、もう遠い昔の日のことで、忘れてしまったというのが正しいか。
 もう実は、野町の祖父の顔もはっきりとは思い出せないのである。当然だ。母の顔が思い出せないのだから。
 母とも、野町の祖父母とも、七歳のとき別れて以来いちども会っていない。野町の祖父母がいま、生きているのか、あるいは死亡しているのか、生きているならどこに暮らしているのか、その消息をぼくは知らない。別れてから十年経って、高校生になったある日、自分の足でここを訪れてみたら、すでにこの家には誰も住んでいなかった。いつまで住んでいたのかも知らない。どこへ越したのかも当然知らない。別に知らなくても良いと思う。もう他人なのだから。
 時間がきている。足早に野町の駅へ向かう。きょうはビール電車の日。仲間が待っている。



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*この小説の執筆にAIは使用していません。

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 平成23年(2011年)11月4日 初出公開

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