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022

 子からの手紙


 弓のかたちをした入江をみおろすようにして、岬の一軒家は建っていた。白木だった板を組んだ壁や、アッシュグレイだったはずの屋根瓦のいろは、いつ建てたのかもわからないほどに、すっかり褪せている。この家が塩気をふくんだ風にさらされることを免れた日は、おそらくなかっただろう。これが自らの運命とさとっているかのように、家はなにも語らず、どっしりと風にたえていた。
 陽が照りつけて気温があがり、すこし風はあるが、風といっても、はこばれてくるのは湿りけをふくむ風ばかりで、それもいまの時間はごくわずかだった。水面はきっと、青空を忠実にうつしながら、湖のように凪いでいるだろう。崖のしたの荒磯からは、わずかな波がなおざりに岩を洗うざらざらした音が、スローテンポできこえてきた。
 少年はそれを聴きながしながら、木の机に向かって、羽根ペンのさきをはしらせていた。
 半そでの開襟シャツは、それじたいが暑い季節を運んでくるようだ。胸元にうかぶ汗の玉を、清潔な白絹が無言ですいこむ。薄みどりの便箋に漆黒のインクが染みこむさまに似ているようで、けれど似ていない。波のざらざらしたリズムのなかに、かりかりとペン先が紙にくいこむ音がとけあった。
 モスグリーンの便箋は、手漉きの品らしい。色はつまり楮のいろだ。毛羽だった質感の紙が、添えておさえる少年の左手にやさしかった。
 なにしてるの、
 と、声がかけられた。
 好奇心旺盛な姉が寄ってきたのだ。
 のぞきこまれて、肩に手を置かれても、少年は振りみることなく、文字を書きすすめていった。
 姉のつけている甘い香りが、吐息とともにふわりとただよう。白い袖なしのワンピースは、姉の気に入りの一着らしかった。視界の片隅に白の色彩だけをぼんやりと映してくる。
 なにしてるの、とまた姉。
 手紙を、書いてる、
 少年は羽根ペンをインク壜にさして、姉を向いた。
 いつの日か、雪のうえを走ってみたい、ってね。
 少年は、問わず語りに書いた内容をおしえた。
 誰宛て、
 そんなこと、云えない。
 少年は、便箋を細い指さきで折りこんで洋封筒におさめた。封筒もまた、植物の色を濃く残すざらざらとしたものだった。薄い透明な糊を指ですくうと、丁寧に塗って封をする。
 そんな手紙は、きっと宛先不明で返ってくるわね。きっと。
 姉は、そう云ってくすりと笑った。
 かもしれないと、弟もいっしょになって笑う。
 きれいな鈴のすんだ音色は、ふたつよく似て、姉のものか弟のものか判然とはせず、かきまぜられたように溶けあった。
 眼鏡、かけなさいね。きょうも紫外線がひどくなるってニュースが云ってたから。姉はやさしく弟に云った。
 ふたりの兄が旅立っていったのは2年前だった。
 最後に見たのは、もう廃止になった終着駅の駅頭だった。
 なぜ行かなければならないの?
 問う少年に兄はこたえた。
 しごと、だと。
 しごとならば旅に出なければならないのか。家族を棄ててまで。こんどは姉が問う。しごとなんだ。おまえたちを、らくさせてやりたいから。だから、しごとなんだ。兄は背中をむけて云っていた。
 遠ざかる列車の行き着く先に街があって、その街から、定期船がでているときいた。
 船に乗って、兄は行ったと姉は繰り返し云った。見てもないのに、そう云ったのだ。
 見てもいないのに、なぜそう云えるのか?
 少年はインクの壜を引き寄せて、ペンのさきを液体のなかへ浸した。とろりとしたインクが、血液のようにペンのさきにまつわりつく。
 確かなことは、ふたりにとっての兄からは、それきり音信がない。それだけは確かだった。
 そしてもうひとつ確かなことには、おそらく、“しごと”はうまくいっているのだろう、ということだ。姉に残された通帳には、毎月ふたりが生活するのに困らないほどのお金が振り込まれている。
 姉はときどき泣いている。未明、海に面した窓辺に坐って。弟は、それを見たのが何回目かと知りながらも、知らないふりして小水をすませる。黙ってシーツにくるまっていれば、姉が寝室にはいる足音はやがてきこえてくるからだ。
 姉に云われた眼鏡を、けれどかけずにペンをすすめる。
 姉には話したことはないけれど、少年はじぶんの運命――あと数年すれば訪れること、を薄々感付いてしまったからだ。だから、かけたってかけなくたって、どちらでも同じことだと少年は踏んでいる。
 宛名のない手紙は何通目か。どうせ届かないことを知りながら書くのだけれど。書き終えた便箋に、いちどだけ眼を通してみる。汗のしずくを指ではらいながら。
 秋もおわります。でもまだまだ暑いです。
 この暑さは、ぼくをいらだたせます。
 けれど、もっと暑い国も、世界にはあるのでしょう。
 もっと暑い国の人も、このように、いらだっているのでしょうか。
 ラジオをかければきょうも、そんな国の戦争が報じられています。
 虫を見なくなったのが、はじまりでした。
 ぜんぶつかまえて、潰してしまえばいいのにと5歳のとき思いました。虫が見なくなって良かったと7歳のとき。虫がいなくなって、ぜんぶが崩れていったのが8歳。
 秋もおわるというのに、きょうも暑いです。
 あしたもきっと、暑いのでしょう。……。
 風を指さきで手折るような手つきで、少年は空をつかもうとしていた。冬がちかづいているというのに、雪はふらない。
 海のかなたに目を凝らすと、水平線を船がよこぎっていくのが見えた。
 ひどく緩慢な速度で、いつまでもいつまでも動こうとしないかのように、波のない海にうかんでいる。あれはきっと、兄のような人を載せた船か。ずいぶん平べったくみえる船影は、逆光で影法師になっていた。
 未来なんてない時代とはいえ、大人はずいぶんひどいことを考える。
 反抗したって、そのさいごには、結局いいなりにならざるを得ないことは分かっている。分かっているから、黙っている。同年代の、なにも知らない子どもたちと同じように、なにも知らないようなふりをして。
 水平線を船がよこぎっていく。海はきょうもまた膨張し、この家のある岬がまたすこしずつ、波のあいだに沈んでいく。
 一族のお墓はすでに水没した。何百年も埋まっていた骨壷は波に少しずつ削りとられていくほかない。
 白い波間にすくわれていく粒子がなにであるのかなんて、眼鏡をかけたって見えるわけがないでしょう。
 きょうは「遺族年金」がふりこまれる日だ。姉は夕方、とっておきのご馳走を買ってきてくれるだろう。あの船が別の国につく頃、この国には別の国からやってきた船が港に入る。食糧で満ちた船が。



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*この小説はフィクションですから、実在の人物・団体等とはなんら関係ありません。

*この小説の執筆にAIは使用していません。

*無断転載をお断りいたします。

 平成22年(2010年)9月26日初出
 令和2年(2020年)10月18日公開再開

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