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   ある路線の午後


 その日も、用事をはやめに済ませたあと、下校時間帯をさけて少しはやい時間のバスに乗った。たしか、あれは15時をまわってすぐといったころの便だったか。時間帯的にはボーダーラインといえたが、ぼくの選んだバスに児童らはまだおらず、車内にはだれも座っていないシートが灰いろした背をいくつもみせていた。
 よし、と思う。このバスの生態が、だんだんつかめてきた。
 ぼくの乗るバス停の手前に、ある大学附属の小中学校の最寄りバス停がある。停留所の名称は、その学校の名を名乗っている。もともとちがう名だったものが、最近になってその学校がこの地へ移転してきたのに際して、改称されたそうだ。そのことが象徴するように、学校のある日の15時半くらいからは、ここを出るすべてのバスは、その学校の児童・生徒らに占拠される。
 JRの駅へと12分きざみで発車するバスの、下校はじめの時間帯の便には、低学年のまだ幼い子らが乗ってくる。つぎあたりの便ではすこし背ののびた3、4年生が乗ってくる。つづいて、すっかり大人びた顔つきの5、6年生、さいごに詰襟やセーラー服姿の中学生。便を追うごとに、車内の年ごろは一定してあがっていくのだった。学年によって終礼のすむ時間にひらきがあるはずなので、そのためなのだろうか。あるいはなにか暗黙の了解でもあるのかも知れないが、ぼくにはわからない。
 けれど、どのバスに乗っても、学校から解放された子らの高揚したきんきん声が車内を満たしていることにかわりはない。小学校1年、あるいはもっとはやく幼稚園生のころから、行き帰りに一般の路線バスをつかっている彼らは、バスをすっかり教室の延長だと思い込んでいるふしがある。
 エリート学校とされているところに通っているのだから、優秀な子らである筈なのに、首をかしげたくなるのだが、その騒々しさは度を越している。ほかのお客が乗っていようといまいと気にすることはない。好き放題に大声だして、お菓子ひらいて喰いちらかして、吊革でケンスイやって、猿のように奇声をあげて飛び跳ねている。こちらが遠足のバスに便乗させてもらっているような、居住まいのわるい乗り心地になってくる。
 だからぼくは、ここへ来たときの用事は、はやめに済ませるようにしている。下校時間帯をさけて、少しはやい時間のバスに乗る。そうすれば、子どもらの毎日の遠足に付き合わなくて済むからだ。きょうはそのボーダーラインぎりぎりのバスになってしまったけれど、セーフだった。なんなく坐ることができる。
 バスが動く。がたがたと車体をふるわせながら、坂道を下る。つぎのバス停との間隔は短く、すぐに停留所に着く。ここは、コンクリートの棟をつらねる公営住宅や大病院の密集する街のバス停で、バスにたよる人たちは多い。かならず数人が待っている。
 ドアがひらくと、少年が2人、つれだって乗ってきた。12、3歳くらいの子らだったと思う。下校の小学生かともおもったが、まだ時間ははやい。それに、制服姿ではなかった。
 少年たちは、黒っぽいスポーツウェアやカーゴパンツといった服装だった。まだすいていた車内の、なかほどの2人掛けにならんで坐って、しきりに窓の外を気にしている。バス停に、少年たちよりも幼い、2年生か3年生かの、これも私服のセーターを着た男の子が残っていて、にこにこ笑いながらバスの窓にむかって手をふっていた。少年たち2人も、男の子にむかってにっこりして手をふりかえした。2人は、そうしながらも黙っていた。黙って手だけをふっていた。頬にえくぼをつくって笑う横顔の、そのちいさく紅らむ耳朶のあたりに、白い器械がのぞいているのをぼくは見た。バス停に立って手をふる男の子の耳元にも、おなじ器械があった。
 少年たちは、つまり、手をふっていたのではなかった。
 やがて、バスはエンジンふかして発車をし、最後部のぼくの窓辺にも、さかんに手をふる男の子の笑顔が過ぎていった。2人は後ろむきになって、過ぎてゆく男の子へ黙ったまま手をふった。きれいな歯をみせた笑顔が、かえって淋しそうだった。
 昼さがりの窓辺からさしこむ傾きかげんの陽があたって、少年たちの横顔がやわらかく映える。手話によって“会話”をするために、彼らは常に互いのほうを見つめている。手話でも冗談を云うことはできるのだろう、一方の手指の動きをみて、一方がオナカをかかえながら相手を小突いた。
 バスは、古い町に残る寺院群をつらぬくようにつけられた目抜き通りを走って、みじかい間隔で立っているバス停にいちいち停車する。そこここで、あたらしいお客が何人か乗ってきた。よそ行きの服装をした化粧くさい婦人たちや、きちんと背広を着こんだ初老の紳士といった顔ぶれが、その大半だった。
 大人たちは誰もが、無関心そうにすました顔で、窓の外や前方をじっと見すえながら、押し黙っていた。ぶるぶるとエンジン音がひびき、次のバス停名を自動音声が放送する。それだけが車内の唯一の音であるかのようだった。バスも、乗客たちも、無言でさきへさきへと進んでゆく。そのなかで、2人の少年たちは笑顔をこぼしながら、さかんに手をふりあって静かに“会話”していた。そのうち、肩をぱんぱん叩いたり、いたずらに抱きついたりして、じゃれあいだした。仲のよい2人だった。ただの友だち以上の、つまり同じものを背負ったある種の仲間という安心感がそうさせるのか。たがいに気をゆるしきった2人はまるで仔猫のようだった。じゃれあううちに、どちらともなく、ふふッとちいさく笑いごえをもらして、それが2人の発したただひとつの肉声だった。
 バスは大通りとの交差点で長いあいだ赤信号を待ち、矢印が出てようやく右へ曲がると、古めかしいトラス橋で川を渡る。ここからが、この町のメインストリートである。繁華街の大きなバス停に停まる。車内はいちどきに混んできて、見とおしがつかなくなった。少年たち2人のすがたも、吊革に掴まる立ち客の影にかくれてもう見えない。お客がふえるごとに、車内に話しごえがさざなみのように満ちてきて、しだいしだいにエンジン音がちいさくこもっていった。
 何箇所かのバス停に停まって、バスは終点の駅前に到着した。ぼくたちはぞろぞろ列をつくってバスを降りた。ステップに人が立つたびにバスはちいさく傾ぐ。降りる乗客たちのなかに、さっきの2人の姿はなかった。あのあと、どこのバス停で降りて行って、どこへ行ったものか、ぼくは知らない。いまごろは並んでショップでもめぐっているのか、あるいは中央図書館へ勉強しにでも行くのか。仲のよい2人だった。いずれにしても、連れだって、睦まじく“会話”しながら歩いているだろうとは思う。
 バスは車内をカラにしおえると、行き先表示を音もなくスッと動かして、せわしなくすぐに折り返していった。いまの時間は路線バスの働きどきである。駅なんかにぼんやり憩っているヒマなど無いと云うかのようだった。
 バスは来た道をまた引き返して、終点からまたすぐに駅ゆきになって折り返すのだろう。そのバスには、きっと、さっきの2人の少年とおなじ年ごろの、健康な身体をもった子らが大勢乗ってきて、好きほうだいの歓声を車内に満たすにちがいない。騒ぐことは優秀な子どもである自分たちに許された特権であると主張するかのように。もしかすると、それをきらって、2人の少年ははやい時間のバスに乗ったのかも知れない。そんなことを思いながら、オレンヂいろの陽をあびたバスのうしろ姿をみつめていると、ぼくはひどく淋しかった。

*この小説はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。

  平成18年(2006年)1月24日


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