016
ヒカリガオカ
すべてのものの輪郭を薄くぼやけさせるような逆光のなかを、午後が漂泊している。積み上げ組み上げたブロックのような県営団地の壁面には、傾斜した太陽光が目映くさしこみ、反射してひかっていた。そのときだけは、まだくすんだ色を持たない真新しいコンクリートのように、古くなって黒ずんだ壁が白くよみがえった。
県営団地の足元には小規模なロータリーがあり、ベンチとともに停留所の標柱が1本、長く伸びる昼下がりの陰影を従えてたたずんでいる。僕はそこでバスを待っていた。
もう小一時間はここにいると思う。15分も待てば、もうバスは来る停留所だったはずなのに、どうしたのだろう。バスが顔を出す曲がり角のほうを見ていても、乗用車1台やってこなかった。
午後の陽光は僕のカラダにたしかな質量をもって降りそそぎ、その熱気にカッターシャツの肩がじりじり火照る。日向の匂いが立ち昇る。腕時計をはめた手首にも、眼鏡のフレームにも、睫毛にさえも陽射しを感じる。たしかに、夏も去ったにしては暑い。予報は正解だ。
ひろがる空を見ると、天に向かって、白くひかる壁が伸びている。壁面には同じかたちの窓が縦に横に等間隔を成して整然とはめ込まれ、そのいずれにも分け隔てなく、雲のかたちが映し出されている。
「──さん、」
だれか、ひとの声がきこえたようだった。
「あの……、お兄さん、」
僕は声のするほうを向いた。少女が伺うような眼差しでこちらを見上げている。小首かしげて、なぜか済まなそうにまばたきをしてみせた。
「こんにちは? ……おでかけですか、」
「──ああ」
ひとっ気のないこのロータリーなのに、いつからそばにいたのかおぼつかなかった。ずっとそこにいたかのように、後手を組んでたたずんでいる。まだ、中学へは行かない背丈のころに見える。デニムの短パンに、Tシャツ姿。肩までかからない髪型が初々しい。髪はひかりを帯びるとわずかに黒砂糖のような色を反射させた。色素が淡いのだろうか。ほそい腕もミルクのように白かった。
「キミこそなにしてるの、こんな暑いところで、」
「わたしですか?」
少女はまた小鳥のように首を傾げた。まばたきしながら、
「──お家のまわりにいるだけです。それって、へんですか、」と訊きかえす。
こんどは僕が首をひねる番だった。
「ここに、住んでるだって、」
「そうですよ?」
団地の建物に、もう人の体温はやどっていない。仁王立ちする威容が、あと何日ここに在り続けるのか。ある日とつぜん更地となる、その日までの命を、白いビルは息をひそめひそめ数えているはずだ。
「からかうなよ、」
「からかってなんか、いません」
透き徹るまなざしが、僕をなじるようだった。あわてて視線をそらしかけると、少女はおこったように僕の腕をつかんできた。ひんやりつめたい感触だ。
「だって、ずっとまえから、そうですよ?」
「……なに?」
「ここが、わたしの、おうちです。むかしから」
見知らぬ妙な娘に腕をつかまれにらまれて、決して気味のよくないことを云われ続けられすれば、僕にはどうすることもできない。口をへの字にまげてこちらを凝視する少女を見下ろし、なにもこたえられず、黙ってしまった。
とにかく、なんとか言い含めよう。
あのな、と切り出しかけると、少女はいきなり僕の腕をひっぱった。
「おい、なんだ?」
「あそんでください」
「なんだって?」
「わたしと、あそんでくださいっ」
ポケットにあった僕の手のひらをひっぱり出されて、きゅッと握られ、手と手つながれて、そのまま少女が駆け出した。やむをえず、僕も走る。揺れる襟足にのぞく白い素肌が、青いろの残像を僕の目蓋に焼きつかせた。
「お、おい、──遊ぶって、どういうんだ、」
「こっちですっ」
細いその腕のちからはたかが知れている。無視してふりはらい、適当にあしらうことはたやすかった。けれど、僕はなぜか、彼女の思いのままに走らされた。少女は小柄な身体ですばしこく駆ける。手がほどけないようにスピードをあわせるのに、意外と苦労した。
「どこ行くつもりだよッ」
少女の駆け足は、団地のビルへ向かっている。建物の周囲には虎縞のロープが張りめぐらされていた。まさか、と思っていると、すべりこむように身体を屈めて、入口のロープをすばやくくぐった。手でつながっている僕も、仕方なく身をちいさくして、ロープを持ち上げつつクリアした。
「あそんでって云って、ムリヤリ、障害物競走させる気なのかよ!」
走りながら、ひくい声を工面してどなってみた。少女は手をぎゅッとにぎってくる。それを返答としたらしい。
「こんなの、どうかしてるぜ」
息をあげながら、僕は宙をあおいだ。
建物の内部には1階から屋上にかけての吹抜けがあり、太陽のひかりが、高い壁にさえぎられつつも僅かながらに差していた。そのぐるりに、ロフトのようなフロアや、渡り廊下、階段が迷路のように配され、陰翳を落としている。
吹抜けの底をホールとして、それを取り囲むような1階の各ブロックにはテナントがならんでいたらしく、店舗跡が行燈状の看板を逆さにしたまま閉ざされていた。その前を、少女と2人して走り、順番にたどってゆく。店のひとつには、酒造のスポンサー入り看板が錆びていた。団地在りしころ、各世帯の旦那がかよった呑み屋だったのかも知れない。つぎの店は、奥さんに必要なものを売った雑貨屋だろうか。コインランドリーや、菓子屋の残骸もそれに続いた。
まぶしいほどの瑞々しさで暮らしが息づいていたころの、その記憶のおきざりにされた姿を見るようだ。
そんな感傷にとらわれているのは僕だけで、少女はだまって走る。手を捕われた僕もそれに続かされる。吹抜けの周囲に立体的な肖像をもたらしている外付け階段を、どんどん登った。短パンからのびるほそい脚の線が、わずかなひかりに白く浮き上がる。
「誰もいないからって、本当に、いいんだろうな、こんなコトして、」
階段に息をはずませながら、僕は問わずもがなのことを訊いた。薄暗くじめじめしたコンクリートの足場には、ほこりや吹きこんだ砂粒が積もってきており、靴底でざらざらとかわいた感触がする。
「誰もいない?」
少女は走りながら僕をふりかえる。眉をよせていた。
「みんな、住んでますよ」
「住んでる、だって?」
おかしなことを云う。もうこのあたりではじめて、僕のなかに茶番は終わりだという思いがよぎった。
「どこへ行くんだよ、本当にッ!」
少女は、もうちょっとですから、と云って、また手をぎゅぅっと握った。
ほんとうに、どこへ連れて行くつもりなのだろう。あてなどはじめから無いようにも見える。考えればさっきから、おなじ所をぐるぐる廻ったり、無為な寄り道をしたりもしている。僕の額を冷たいものが流れた。少女は汗ばんだ様子もなく、鼻歌を唄いだしそうなくらいの調子でリズミカルに走りつづける。
ふいに、くもの巣に引っかかって、糸が僕の前髪にからんだ。少女との背丈の差で、僕だけがこんな目にあう。駆け足で階段をのぼりながら、ねばつく糸を片手でがむしゃらに払った。
どうして、これほどまでに僕は。
おかしいと思いながらも、僕はついていくのをやめなかった。よく考えなくても、息をきらしてまで追う必要などない。こんなコドモなんて放っておけばいいはずだ。見つかったら、僕まで怒られるじゃないか。なのに、なんのためにこんなこと。
いっこうに脚をとめない自分自身に呆れながら、少女のつめたい手のひらが自分の汗に濡れるのがすまないと、どこかでそんなことも思った。
廊下をあっちへこっちへ走り、階段をとっかえひっかえ登りして、2人で4階あたりまでやってきた。
団地の建物の4階は、思ったよりも高く感じる。外付けの階段の欄干は低く、下の地面が遠く見えた。こんなところから落ちたら、やばいな、と突然そのようなイメージがよぎる。
ドアのならぶ通路の一角に至って、やっと少女は駆け足にブレーキをふんだ。僕の手をスッとはなすと、ターンを切るように、勢いあまった身体をくるっと一回転させる。淡い栗色の髪の毛が惰力に舞った。
「ふぅーッ。とう、ちゃく」
「そりゃ、」
よかったなと云いかけて、身体を折って膝に手をついた。さすがに疲れた。運動を停止したとたんに、腹のあたりを汗がなぞる感触がする。
「ここが、おうち。わたしの。」
頭をもたげると、少女がくすぐったそうにほほえみながら、錆びた鉄扉を示していた。
ドアはもう何年も開かれたこともなさそうなほど朽ちていた。把手など、完全に赤茶色の塊と化していた。表札入れにはなんの表示もなく、隅に埃が詰まっている。郵便受けなど歪んで傾いているのだ。
けれど、何故だろう。鉄のトビラに見覚えがある。
いや、あるような気のするだけ、か。時が壊していった記憶をうまい具合につなぎあわせて、そんな既視感をつくりあげただけなのかも知れない。けれど、背中をなであげられるような、ぞくぞくする懐かしさがあったのは本当のことだ。
「ね、ここが、わたしのおうち」
僕が黙ったままなのを不満なように、少女は復唱した。さらさらの髪の毛は、この運動の後にもかかわらず、すこしも熱を帯びていない。
「…………うん」
僕がうなづいてみせたのを認めると、少女はまぶしくひかる笑顔に白い歯をこぼして、僕のよこをすりぬけた。あまいお菓子みたいな香りが吹き抜ける。いま来た方向へ走りだしていった。
「お、おい、待てよ!」
故なく、またしても走ることになった。どうしてこんな廃墟などへ侵入して、見知らぬ少女と追っかけっこなんてするのか。半分疑問の残る片隅で、半分わかりかけたような気がひらめきはじめ、それを持て余しながら出口へ駆けた。
少女は、僕を馬鹿にしたようにときどき振り返ったりしながら、段を駆け下りる。たんたんたん、と、小気味いい靴音が反響した。
上りはあちこち迂回してムダな時間をかけていたのに、下りはまっすぐ出口へ走る。ひるがえるTシャツと、すばやく跳ねる白い脚を追い、今度はさほど労せず1階へたどりついた。店の遺構を横切り、ロープを突破して外の空気にふれると、僕のなかの冷静な部分が、ひといき胸をなでおろした。
「待てって!」
僕は息をきらしながら再度呼びとめた。なにを思ったか、少女は素直に脚を停止させた。くるっと、僕を見返る。それにかえって面食らってしまい、僕は云うべき言葉を適切に見つけられなかった。
「いまになって、帰ってきたんですね」
少女が云った。
「わたし、……ずっと待ってたんですよ。なのに、」
少女は眼を伏せていた。いままで見せなかった表情を眼にしてしまって、これで僕は完全にコトバをうしなった。
ぽつんと立ちどまっている彼女へと歩み寄り、その瞳の澄んだ色のみえる距離で立ちどまる。
「……いまになって、来るんですか」
少女の語尾は疑問形ではなく、どこか切々と訴えるようなニュアンスを含んでいる。
「なんでですか? どうして、いまさら」
なにを云われているのか理解できない。とにかく、彼女の云った言葉のひとつひとつを、どうにか拾い集めてカタチにしようとつとめた。
──やはり、わからない。僕には。
けれど、わからなければならないのだろうと、それだけは判った。なぜそう思ったのかは、やはりこれもわからない。でも、それでいいのだろう。どうせ、すべてがわかっている世界で生きていくことなどできないのだから。
「……待ってたって、云ったな、」
「そうです、よ」
少女はゆっくりと、頷いた。
「どういうことだよ……」
待たせたつもりはない。そんな約束は知らないし、目の前の少女は、きょう初めて偶然に遭遇した、名前も知らない娘だ。
──いや、けれどそれは、本当にそうだろうか?
一瞬視界がぼやけ、冷水を浴びせられたような感覚がはしりぬけた。
──いや、そんなはずはない。見知らぬ少女だ。それは、確かなことで。おそらくは。
「待ってました。待ってたんだよ……」
また少女がつぶやいた。波のように一進一退をくりかえしているいまの僕の内側へは、ただの言葉がナイフのような切れ味を持つ。
「……知らないぞ。オマエのような、コドモ、……なんて……」
云いかけてだんだん、思考にかすめ飛ぶ可能性の風に語勢がそがれる。言葉尻はあいまいに消えた。
「待ってた、……のか。……って、……ホント、なのか……?」
質問とも自問自答ともつかない僕のうめきを、少女はかすれた声で肯定した。キャラメルのように甘く、ちょっとだけニガい吐息が、僕の意識をなぞる。
それがほんとうだというのなら、いままでどうして、僕はこの団地へ来なかったのだろう。そしてどうして、ここがその場所だと気付かなかったのだろう。
いや、そんなことは、どうでもいい。どうでもいいことだ。
少女のちいさな手を、こんどは僕のほうからとって、ひえた指さきをぎゅッと握ってあたためた。
「──ありがとう、」
「こっちこそ、な」
笑顔がまぶしくひかった。そんな表情をどこかで見たことのある気がするのも、いまなら当然のことだと理解できる。
あの日は、こんな暑い午後だっただろうか。と、そんなことを僕が想い巡っていると、少女はふわりと前髪を舞わせて、向こうを振りかえった。団地への取り付け道路のさきを往来が走っている。その方向から、ひくい音が近付いてくるのに僕も気付いた。
「バス、──きました」
少女が目を細めてほほえみかける。笑顔に透けている心のいろが見えた気がして、それが痛かった。僕もいま、そんな表情をしているのだろうか。
バスは心臓音を響かせながらゆっくり近付いてきて、標柱の前にとまった。入口の扉が空気音とともにひらく。
オマタセシマシタ。30バン、……。
機械的な音声がマイクからひびく。僕はじっと立ちどまったまま、それを聞き流していた。ロータリーのバス停に2人向きあって、標柱といっしょに3つの影をコンクリート・タイルに落としている。影のひとつは僕のうつし身。もうひとつはまっすぐまっすぐ無機質に高く、そしてひとつは、くもり空の影のように、なぜか淡い。
「バス、乗らなくていいんですか、」
少女は僕を見据えて、うながした。それははたして、本心からくるものなのだろうか。途切れるような声をしぼりだすように云う。
「バス、このあとはもう、しばらく来ないですよ」
僕は、うん、と云うつもりで声が出ず、咳払いしながらうなづいた。こころなしか、バスの運転士がこちらを見据えて、乗るのか乗らんのかと困惑しているようにも見えた。
「──じゃ、」
親しい相手へ向けたそれのように、ちらりと手をふるだけの挨拶をして、僕はバスへ歩き出した。それが正しかったのかどうかは、わからない。ステップをのぼりかけて、僕は立ちどまった。思いなおして、うしろへ向きかえる。少女はせつなく笑っていた。
「また、あそんで?」
風もないのに、なぜ少女の前髪がこうして揺れるのかわからない。Tシャツのほそい肩も、ちいさく竦むように揺れていた。
「……もう、あそべないよ。だって、きみは、いや、おねぇちゃんは、」
無機質なブザーが鳴り、入口の引戸が幕引きを告げるように閉じてしまって、言葉はそれで断ち切られた。
さようなら、おねぇちゃん。もしも僕がお母さんのほうについていっていたら、おねぇちゃんは死ななくて良かったかも知れないな。お母さんもあんなひとにならなくて良かったかも知れなかったな。
バスはロータリーを半周して、団地のビルを背にして走り出した。少しゆけばもう、僕の知っている車窓とはちがった風景ばかりが、午後のひかりを受けて眼にうつろった。
『あんたは、お母さんとお父さんと、どっちについていきたい?』
もうおそらく2度と会うことのない母が僕に迫った選択の日。あれはたしか5歳の夏の午後だった。いつも怒りっぽい母が、なぜかやさしい声をつかって僕に問うたあの質問の瞬間に。
僕はもう一度戻れたらいいなと思いながら眼を閉じたことだった。
終
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