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013

 DeJavu    デジャ ヴュ


 赤々と燃える暖炉ストーブの炎が、常夜灯だけにした部屋のなかを、ほんのり暖色に染めている。
 はじめてのはずの部屋なのに、暖かく包まれたその空間がとても安心できたみたいで、あれから制服のカッターシャツを着たきり眠ってしまったらしい。
 ゆうべの果実の味が、唇のへりに甘い。
 醒めかけのまどろみのなかで、夢のなかからずっと響いていたピアノの音色が、妙に熱っぽくなっている耳にゆったり届く。
 いつか聴いたことのある気のする旋律だ、と僕は思った。
 どこで聴いた曲だっただろう。そんなことを考えながら、顔の半分を覆うまで掛けた毛布の間から移ろわせる視線のさきに、ピアノを奏でるめぐみ先輩の姿があった。
 鍵盤を舞う、長いその指。その横顔に、その眼差しに、胸がじわりと熱を持った。
 ゆったりとしたベージュのガウンに白いからだを包み、細く艶のある後ろ髪が流れるようで。おもわず見とれてしまう。
 めぐみ先輩、と声をかけたくて、でも、それはやめた。曲はまだ終わっていない。
 ――この曲は、なんだろう。
 背中がぞわぞわするくらい懐かしいそのメロディに、どこで聴いたんだっけと、またそんな想いを馳せながら目蓋をとじて、まくらに沈んで洗髪料の匂いを吸い込む。
 眠りに落ちるかという頃になって、曲が静かにエピローグを迎えた。
 もぞもぞと半身をひねり、毛布から顔を出す。めぐみ先輩が、こっちを見ていて、思わず心が波立った。
「起きちゃいました?」
 めぐみ先輩が、にこっと笑う。
 朝ですか?
 僕が眼をぱちぱちさせながらそう問うと、おはよう、と先輩が云ってくれたから、僕もおはようございます、と返した。
「まだ2時半ですよ、篠さん」
 えっと思って、眼をこすりながら壁の振り子時計を見つければ、針は普段なら明るい日差しを浴びる昼過ぎに見るような配置についている。
 意地悪ですね。こんな時間に、ピアノなんて。
 僕が毒づくと、めぐみ先輩はいたずらな微笑みを見せて、
「あなたが死んだように眠っているから、怖くなりました」
 そうつぶやきながら、曲のさわりを軽く弾きはじめた。
 ゆったりと空気にとけて、たゆたうみたいな、これはなんという曲調か。メヌエットか、ガヴォットというのだろうか。たおやかで、けれど熱い想い、この上ない情感をゆさぶるような、そんなものも感じられる音の上下。
 いい曲ですね。なんていう曲でしたっけ。
 僕が問い掛けると、先輩はふしぎそうに小首をかしげ、演奏をやめてしまった。
「篠さん、この曲を知っているんですか?」
 聴いたことがあるような、気がするんです。
「本当に?」
 本当、です。
「……ふふっ。それはたぶん、耳になじんだんですね、この曲が」
 先輩が不敵に笑うので、僕は、本当に本当です、と語気を強めて云った。
 もっと聴かせてくれませんか? 懐かしいから……。この曲、すごく。
「なつかしい?」
 めぐみ先輩は、こっちを見てくすりと笑う。
「そうですか?」
 含みのあるような微笑が僕にはすこし不満だったけれど、泣いてしまいそうなほどにやさしいピアノがふたたび耳に響きだせば、すごく気持ちが落ち着いて、うっとりしてしまう。眠ってしまわないよう、上半身を起こして瞳を閉じる。
 金属の弦を弾いただけの音がこんな風に響いて集まり、なんでこんなに人を感動させるものになるのだろう、と思う。
 その抑揚が心を揺り動かして、遠い記憶を揺り起こす。
 懐かしく感じる曲。記憶のなかにあったそれをなぞるみたいな音の流れとともに、僕のなかに映し出されてくるものは。
 どうしてだろう。幼いときに、遠くへ去ってしまった人。その横顔。
 あれはずっと子供の頃のことだったから、もう声さえも忘れてしまった。
 けれど、抱いてくれたときのぬくもりや、ねむるときに弾いて聴かせてくれた、あのピアノの音色は、いまでも耳の奥にある。
 想い出は薄れるものでも、あの旋律だけはなぜか残り、消えることなどなくオルゴールみたいにエンドレスして。
 心のなかに刻まれていた五線譜を、今たどっているようなめぐみ先輩のピアノを聴けば、想い出がゆっくりと廻りだす。
 あの曲に似ている。
 胸に伝わるものは。
 熱い想い。この上ない愛のような形の。
 ふいに暖炉ストーブがコポっと鳴いたのが聞こえて、ああ現実のなかにいるんだと認識すると、ピアノの音色はこんなに心地良いのに、僕はそこはかとなく不安になってきた。
 先輩は、どこにも行かないでくださいね……。
 夢見心地でそうつぶやくと、めぐみ先輩は一瞬びっくりしたような顔をして。
 演奏の手を止めて、いつくしむような視線を送ってくれた。
「篠さん、」
 すっと立ち上がり、ベッドの端に腰掛けてくれて。
 胸をあわせる。
 胸をあわせると、やさしい鼓動。ゆうべを想い出す。
 背中や首すじをゆったりと体温がたどる。唇が落とされれば、べつな意味での深い夢へと沈みこんでゆく――。
 その睫毛。その指さき。
 僕の思考は、手の平に落ちた雪のように。
 頬をしずくが伝わる。ずっと昔に、味わった気のするぬくもり、香り。
 けれど、味わったことなどあるはずのない甘美さ。

「このまま夜更かししちゃいますか、」
 そう訊かれて、ハイと頷くと、先輩は、ちょっと待っててと云い残してどこかへ立ち、しばらくするとお茶を満たしたカップをふたつ持ってきてくれた。
 甘い香りのする紅茶は、云いもしないのにミルクたっぷりで。僕の好みを、このひとは知っていたのだろうか、と思ってしまう。
 ふと、なにからなにまで馴染みすぎるくすぐったさに怖くなって、いたずら心のままに、
 お酒が飲みたい。
 と云ってみると、先輩は眼を丸くした。
「10年はやいですね、篠さん」
 そう云って、僕の鼻先にティーカップを突き出す。
 対等の立場で見られていないのに僕は面白くなくて、10年じゃなくて4年、とつぶやいて、めぐみ先輩だってあと2年。と唇をとがらせた。
 ゆうべのお酒を美味しそうに飲みほしていたことを指摘したつもりなのだ。
 めぐみ先輩は、困ったコですねぇ、と呆れたみたいに云うと、台の上に出したままになっていたワインの壜を手に取った。
「そだち盛りのコは、飲んじゃいけないんですよ」
 そうは云いながらも、布で磨いたワイングラスに僕のぶんの液体も注いでくれて。トクトクという小気味いいリズムに、熟れた果実の香りに、夢ごこちになる。
 お礼を云って受け取り、ベッドサイドに並んで掛けて、じゃあってことで2人で小さく乾杯した。
 ごく度の弱いロゼで、とろりと甘い。けれど後口に残る酸味と苦味が、コドモの飲み物じゃないんだと思わせてくる。
 おかぁさんと、よく飲んだんです。ブドウジュースを。
 酔いが舌の滑りを助長させるのか知らないけど、なぜかそんなことを想いつくままに、胸にとどめず口にしてしまう。
「このジュースは、高価いんですよ」
 めぐみ先輩の吐息はほのかに甘ったるくなってきていて、その香りに、僕はなぜかおかぁさんを想い出した。お酒の飲めない人で、お正月のお屠蘇であかくなるくらい、お酒がのめなくて。身体が弱かったからかな、といまになって思いかえす。
「おいしいですか? 篠さん」
 声は耳のなかでかきまぜられて、涼やかな音だけとして残る。
「……ん? どうです、ブドウジュースは?」
 先輩に問われているのだということにやっと気付いて、慌ててうなづいた。
 酔っているんだ、と思う。じぃんとオナカが熱くなって、めまいみたいにクラっとして。
「あかくなって」
 からかうように先輩が指摘するので、僕も、
 先輩こそ、と笑ってやった。
 そんなやりとりをしながら、グラスの液体を舐めていると、やにわにめぐみ先輩が顔を近付けてきて。僕はどきっとして、もじもじと俯いた。
 額に軽くついばんでくれて、その熱さに僕もためらいがちに手をのばしかけると、先輩はなぜか物悲しそうにため息を落とした。
 先輩?
 めぐみ先輩は、長い睫毛を伏せている。
「あなたを見ていると、想い出します」
 なにを、ですか?
「ふふ、……」
 そんなあいまいな微笑に、僕はなんだか面白くなくて、頬をふくらませた。先輩が、その頬に唇を滑らせてくれる。
 どきどきしながらも、お酒のためにどこかへ沈み込んで妙に落ち着いている意識が、そこじゃなくて、とせがむ。
 透明な弦とともに熱が離れて、思わず物足りなさを訴えるように視線を上げると、
「わたしね、すきなひとがいたんです。むかし」
 と、先輩は思いがけずそんなことを口ずさんだ。
「わたしがまだ、いまの学校に入る前のときでした。そのひとは10も上のおとなで」
 めぐみ先輩は眼を伏せながらそんなことをつぶやき、無理につくってるような笑顔を見せると、自分のグラスに2杯目を注ぐ。
「やさしいひとでね……。かわいいひとでした」
 ――――。
「年上なのに、年下みたいなひとだということです」
 僕は、僕の知らないひとのことを話す先輩に、もやもやした不満のようなものを感じて、
 むかしのことでしょう、と突っぱねるような口調で云ってしまった。
「そうです。――むかしのはなし」
 先輩が頭を撫でてくれたから、僕もおかえしとばかりに細い髪の毛を梳かす。
 めぐみ先輩が、くすぐったそうに笑う。
「そんなところも、似ています」
 ――?
「そのひとと、あなた。似ているんですよ」
 僕は、そんな言葉に一瞬うれしくなって、でも一瞬あとに、なんだか釈然としない気持ちになってしまった。
 オナカの底がじわりと燃えるようで、それはお酒のせいなのかも知れないけど。やっぱり堪えられないくらい。
 ――そう、嫉ましい。
 そんなわけの分からない気持ちをどうにかしたくて、しゃにむにグラスをかたむけた。
「22歳でした。あのときのそのひと」
 それが何だよ、と思ってしまう。ワインは甘くて、苦い。
「年上と年下で目線は違うはずなのに、重ねてしまうのがふしぎです」
 めぐみ先輩は、カラになった僕のグラスに淡いピンク色のロゼを注いでくれて、僕はぐらぐらする視界のなかで、壜の美しい意匠に見とれたりしていた。
「……先生だったんです」
 めぐみ先輩は、低い声でぽつりと告げた。
 僕はグラスの縁を指でなでながら、コクリと唾をのんだ。
「顧問だったんです、そのひと」
 めぐみ先輩は、自分をあざけるように淋しげに微笑している。
 僕は、先輩が云ったことを反芻して、でも意味がなかなか掴めなくて。ただグラスの縁をなでていた。
 僕がどんな顔でめぐみ先輩を見ているのか、自分では判らない。
 ただ云えるのは、単なる驚きだけでは決してなくて。
 もちろん、さいなみなんかじゃ絶対になくて。
「それは、いけないことだと知っていました。互いに求めすぎていたからとはいっても、越えてはいけない一線は、ある」
 僕は黙って、グラスを傾けていた。そうするほかなかったから。
 暖炉ストーブが、ぱちっとはぜる。
「そんなことだったからでしょうか。先生が夭折したのは」
 夭折。
 もう、そのひとはいないということか。
「……それは、罰なんだろうと思います」
 めぐみ先輩はワイングラスを傾けて。かたちの良い唇が、ピンク色の液体に潤う。
「罰だろうと思います」
 うつろにそう繰り返すめぐみ先輩を見ながら、融けていくような思考のなかで、同じだ、と思った。
 僕と、僕の母と。
「ごめんなさい、ヘンなこと話しちゃって」
 目蓋のあたりをこすりながら照れたみたいに笑うめぐみ先輩に、僕は何ていったらいいのか分からなくて。ただ、ノドが渇いて、むしょうに水が欲しいな、とだけ思った。
「もう酔っちゃいました?」
 首をぶんぶん横に振ったのだけど、先輩は、酒飲みほどそんな風に否定しますね、なんてささやいて、僕の耳朶にそっと触れてから、すっと僕の身体をベッドに横たえてくれて、毛布まで掛けてくれた。
 アリガトウと云おうとして舌がもつれて、これって酔ってるんだな、と妙に納得していると、もう先輩はピアノに向かっていた。
「この曲ね、先生のためにつくった曲なんです」
 懐かしくなる気のするそのメロディに、背中越しの独り言めいた先輩の言葉がかぶさり、それは曲調に乗って、歌のように聴こえた。
 知らないはずなのに、どこかで知っているように感じた曲。熱い想い。この上ない愛。
 きっと、僕がじっさいに聴いた、むかしのあの曲も、僕のための曲だったんだろうな、と、根拠もないことを思いながら、僕はゆっくり目蓋を閉じたことだった。



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*この小説はフィクションですから、実在の人物・団体等とはなんら関係ありません。

*この小説の執筆にAIは使用していません。

*無断転載をお断りいたします。

 平成16年(2004年)12月2日 初出
 令和5年(2023年)2月1日  更新修繕・公開再開

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