011
濡れて消えのこる花火の歌
月あかりをたよりに松林を抜けると、なかば風化した石段をくだった崖下に、隠されたような岩礁があります。
長かった夏の陽もいつしか落ち、星が散らばり終わった頃のことです。磯辺には漆黒の空と海が広がっていました。
湾入する海岸線をかたちづくるのは流紋岩の荒磯。波が刻みあげた海食崖や巨岩怪石。観光地にあったなら絶景としてもてはやされそうな風光といえました。けれど訪れる人はほとんどいません。あたりに目立った名所旧跡もなく、観光バスでやってくる人たちの肥えた目には留まらないのでしょうか。ガイドブックにも載っていませんから、ドライブの車も気づかずに通り過ぎてしまう。地元の人間にしか知られない寂しい場所です。
それでいいのだと思います。
夜の磯辺は波が風を運び、半袖だと寒いくらいに涼しく感じました。昼間のあいだ陽射しに焼かれただろう岩も、いまはひんやりと冷えています。
わたしは手頃な岩に腰掛け、線香花火にマッチの先端をうつしました。
かぼそくも一番輝いて華々しいそれは、あいつの好きな花火でした。
しおさいの音に火薬のはぜる音が混じります。
背後の夜空に、どーん……、と鳴るものがありました。夏祭り恒例の打ち上げ花火でしょう。音がお腹に響きます。振り返れば思うさま見えるでしょうけれど、わたしは目の前の線香花火の花だけを眺めていました。
いつかの祭りの日の夜も、あいつと2人でここへ来て、線香花火をしたものです。
あいつは浴衣姿でした。しかし、よく見ると足元は草履やなにかではなく、ごく普通のクロックスなのが不釣り合いで可笑しかったものでした。
えんじ色の浴衣を着たあいつの襟元からのぞく肌の色は、月の明かりをうつして、ぽうっと白かった記憶があります。漁村の生まれらしくなく、めったなことでは日焼けをしない体質のようでした。一日中泳いでも、夏の陽射しを真正面から浴びて遊んでも、肌は透けるように白いままでした。
あいつのことは小学校に上がる前から知っていました。その頃はもちろん、単にともだちといえました。昼間に、この場所で釣りをしたこともあります。小岩に腰掛け、澄んだみなもに糸を垂らし、他愛もないことをしゃべりながら、ときには歌なんて唄いながら。
あいつのほうがよく釣れました。わたしが全く釣果ゼロで、あいつからメバルやグレ(という魚の名前もあいつが教えてくれたのでした)を何匹かわけてもらうことすらありました。海が好きなやつでした。だから海に好かれてもいたのでしょうね。
手に持つ花が燃え尽きました。
わたしはその燃えがらを、岩に窪んだ水溜りのみなもへ浮かべました。手向けのつもりでした。線香花火の燃え殻は、一瞬沈んだかと思うとすぐに浮かびあがり、静かに、夢見るように漂っていました。
2本目に火をつけてみました。闇夜に咲く花は、ほとばしるように咲いて、ぱちぱちという寂しげな音、火薬のにおい。指さきが熱くなります。いつか2人でいた夜の線香花火と重なります。
夜のなかでそこだけを明るく照らし出すように燃えて、さいごは光を帯びた先端がポトリとあっけなく落ちて終わるのです。
子どもだった頃はよく、そのさまが物悲しくて、いつの間にか泣いているということもありました。そんなときはあいつが、どうしたのと笑いかけるのでした。
泣き虫だったわたしを、あいつはよくからかいました。
けれど、さいごぐらいは泣くほうを交代してくれてもよかったのではないでしょうか?
私はそのとき、あいつの名前を小さく口にしました。
その声を打ち消してしまうかのように、うしろのほうの空で打ち上げ花火の音が幾度も炸裂しています。わたしは見向きもせず、手にした線香花火の、糸のように細い火花を見つめていました。
そうですね、以前まともに打ち上げ花火を見たのは、あの狭くて白く四角い部屋のなかからでした。3階から、いえ4階からでしょうか。わたしに与えられたベッドは窓際で、夜空が近いところにあって、よく見えました。綺麗だと思いました。闇を彩る花の色。闇の中であっても美しく咲き乱れ、きらめていました。
あいつはいつでも見舞いに来てくれて、わたしを元気づけようとしてはしゃいでいました。それをうるさがると、わたしの好きな林檎を持ってきてくれて、皮を剥いて綺麗に切ってくれ、口へ運んでもくれました。
いつも笑わせてくれて、いつも励ましてくれて。だから今度はわたしのほうが励ます番だったのに。
あいつが信じがたいような奇禍に倒れた晩、握りしめていたのは子どもじみた線香花火の束だったそうです。あの晩、わたしと交わした約束を守るために、急いでくれていたのでしょう。海水に浸かってしまい、その花火は燃え尽きることもなく棄てられて終わりました。あいつの通夜は、夏祭りの晩でした。
寺へ歩く道すがら、打ち上げ花火の音が聴こえていたのを憶えています。黒い服を着た人の乗る車と、まつりの笛の音をまとう山車が同じ道で擦れ違ったのをわたしは見ました。何を祝う花火だというのだろう。あいつが死んだ夜であっても、人は知らん顔して祭りに言祝ぐというのか。それが他人の冷たさか……。
あいつの親類が、あまりにも他人行儀で無機質な冷たい会話をしているのが聴こえて、わたしのほうがどれだけあいつを愛しているか知れないのに、どうしてわたしは他人なんだと、少なくともあいつにとってわたしは他人なんかじゃないはずだと、淋しく独りうぬぼれていました。問いかけに答える者はいません。肩に手を置いてとがめてくれる者は、どこへ行ったのか。
その夜再会したときのあいつは、四角い箱のなかで血の気のない唇をうすくひらいて、白い首筋が覗いていて、静かに目蓋を閉じていました。このうえなく幸せそうに眠っているように見えるのが、わたしにはあまりにも哀しかった。
寝相のよくないあいつのことです。こんな狭い寝床で窮屈じゃあないかと無理に笑ってみると、縁者らしい老婆が、わたしのことをじろりと見ました。
夜とぎを辞して夜空を見上げれば、花火はもう終わっていて星も輝きはせず、黒く音もなく塗り潰されたような夜空が、わたしの心の空洞をくぐりぬけて行くだけでした。
長い夜が明けた翌日、最後に見たあいつの顔は花に埋もれていました。紅い花、黄色い花。わたしの手向けた一輪は、誰かの花に紛れて判りませんでした。その花の数が、あいつのいかに愛されていたのかをわたしに知らせました。
あいつが焼かれてしまったあと、とくに仲の良かった“友人”として特別に許され、焼き場で……骨を拾わせてもらいました。
白いだけの灰のなかから骨を拾いあげるとそれは腕の骨らしいことが分かりました。その骨を包んでいたはずの、しなやかな筋肉や薄い脂肪の膜がつくるみずみずしい丸み、そしてきめの細かな肌を、ありありと想い出しました。それで思わず取り落としてしまって、炎に焼かれてもろくなりすぎた骨は灰の上に落ちて砕けました。
風が吹きはじめました。
塔のような岩にはまるで窓のような横穴が開いていて、向こうの夜空と同じ色の海を覗かせています。わたしの心の空洞を指さすかのようです。
岩はまるで人間の創ったような、それでいて人間には決して創りえない芸術。融けだした溶岩が冷えて固まって、そうしてできた岩を波が浸食してできたものなのだそうです。そんなことは村の人間なら誰でも知っていることなのに、自慢げに教えたあの頃のわたしに、あいつは凄い凄いと眼をキラキラ輝かせてくれました。
そんなこともふと想い出しました。
あいつはよく微笑みました。そして煙草が嫌いでした。煙草はキライとあいつが云えば、わたしは黙ってキャンディーの包みを差し出しました。そのあとすることは決まっていました。どちらからともなく磁石のように。
磯辺の千畳敷は、しとねとするには冷たく硬すぎました。
わたしたちは手頃な岩に腰掛け、肉の重さをたしかめあいました。あいつの唇はやわらかく、舌は甘かった。当たり前です、飴の味ですから。けれど、その甘さはそれだけのものではない気がして。しかし、あいつにも甘い味がしたかどうかはわかりません。直前までわたしの咥えていた煙草の味がにがかったでしょうから。
しずかになったとき、身体にしみこんでくる潮のにおいに、うちよせる波のしぶきに、つくづくと海の大きさを感じました。
海は……。同じ場所であっても、刻々と表情を変えるのが海です。おそらく、いまは満ち潮から少し過ぎた頃合いなのでしょうね。普段なら乾いた表面を見せているはずの岩が、水に浸ろうか、浸るまいかと思案しているように、あるときは波に濡れ、またあるときは水面から屹立するかのように、気まぐれに表情を変えていました。
私の見つけた秘密の近道も、この調子ですと、波に洗われている頃かも知れません。
満潮のときは波が覆いかぶさることもあるのですが、そうでないときは、たとえサンダルでも歩きよい隠しルートといえました。あいつに教えたら、よく見つけたねぇと感心してくれました。これは便利と喜んでくれました。ただし、潮の満ちたときに歩くことは不可能です。私はそれをちゃんと伝えたかどうか。記憶が定かではありません。
回想したって仕方ないのに、海を臨めば想い出の波が幾度も打ち寄せ、その波は目の前のそれのように引くことがありません。
いまでも憶えています。指さきも耳も長い睫毛も。想い出だけならいくらでも残っています。それは分かっていても、わたしの欲しいのはそれではありません。
束の花火がなくなりました。みんな一瞬の間だけ燃えて散っていきました。
花であり、火でした。わたしは水溜りに浮かぶ燃えがらを、指さきを濡らして拾い上げました。
もう打ち上げ花火は終わったらしく、音は聴こえなくなっています。花火が上がらなくなれば、祭りは終わり。夜空に闇が戻れば祭りのあと。
闇を映す暗い波が寄せては返し、返しては寄せ、その繰り返しだけが耳に届きます。帰っていく波は、どこへ去っていくのか。燃えがらから雫がしたたります。手のなかのそれを、わたしはつよく握りしめました。
|