兼六園と金沢城公園
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最終修正:令和5年10月7日 (2)
![]() ![]() 桜の頃の金沢城公園・石川門です。 金沢城公園の入園料は無料で、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪門など、建物の内部を見学する場合のみ入館料が必要です。
真宗は守護大名だった富樫政親氏を討ち滅ぼしたあと、ここ尾山御坊をいわば“共和国の首府”とし、じつに93年にもわたり加賀国を治めたそうです。日本の歴史でも稀な「百姓ノ持チタル国」の成立でした。 蓮如上人が布教した、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで全てが救われるという非常にシンプルな思想は、それまで貴族や侍だけのものだった仏教を農民層に普及せしめ、村全体にまで浸透させ、それは面として連なり、ついには熱烈な政治勢力にまで発展していきました。 そして蓮如上人の信徒たる農民たちは、信念のもとに武士たちと対峙したのです。 これが一向一揆です。 一揆といいますが、実際に政権が奪取されたのですから、革命といって良いでしょう。 現代的な言い方をすれば、宗教団体が県知事を殺害し、政権を獲得し、寺院の姿をした軍事要塞を拠点に、外部から遮断された独立国を100年近くも打ち立てていたともいえるわけです。 ここ石川県は、日本で唯一、そのような特異な時期のあった稀有な土地という言い方もできるわけです。そこには決して加賀百万石だけではない歴史の重さ、深み、熱烈なドラマがあります。 長享2年(1488年)から天正8年(1580年)までの93年間、ほとんど1世紀の間、それが続いたのです。93年ですよ。昭和と平成を合わせた長さです。 しかし、尾山御坊は佐久間盛政らによる攻勢を受け、ついに織田軍の手に陥落、その後、もともと要塞のように造られていたという御堂は、お城として改造されたのだそうです。
この金沢城には天正11年(1583年)6月14日に加賀藩祖・前田利家公が入城し、以来、明治2年(1869年)まで加賀藩14代の居城として栄えたということです。 しかし、その城郭は度重なる大火により石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫を残し全て焼失――。さらに明治4年(1871年)の廃藩置県によって明治政府の兵部省の管轄となり、明治31年(1898年)には第九師団設置に伴い、師団指令部および第六旅団指令部が置かれるなど、陸軍施設として変貌を遂げていったそうです。 お城というのは元々、軍事施設ですからね。 太平洋戦争の終結後に旧陸軍は解体されますが、昭和24年(1949年)5月31日、跡地に金沢大学「城内キャンパス」が開かれ、長い間、城は外側から眺めるだけの場所となっていました。
白っぽい瓦屋根が特徴で、これは鉛でできており、有事には溶かして鉄砲の弾として利用できるようにしていたとも云われています。
時代は流れ──、金沢大学の郊外移転へ向けた話が持ち上がります。塀に囲われた城内キャンパスが手狭となったことによるものです。新天地として選ばれたのは城より南東に離れた山間部、角間の里でした。 そして、平成元年(1989年)8月14日〜31日にかけて文学部・法学部・経済学部の3学部と附属図書館、大学会館が移転。平成7年(1995年)には全施設の退出が完了し、これにより石川県の手で金沢城の復元が開始されることとなりました。 平成13年(2001年)9月7日、橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓の復元完了により「金沢城公園」がオープン。長い年月を経てお城はよみがえり、こうして兼六園とともに新しい観光名所として知られるようになったわけです。 その後、平成22年(2010年)4月24日に河北門、平成27年(2014年)3月7日には橋爪門と玉泉院丸庭園が復元されました。
この三の丸広場は、金沢大学城内キャンパス時代には教育学部本館があった場所のようです。
河北門と石川門は、河北郡に面している方角にあるため「河北門」、石川郡に面している方角にあるため「石川門」と名付けられたといいます。現在「石川郡」という地名はなくなってしまいましたが、この石川門は、石川郡のありかを未来へ語り継いでゆくことでしょう。 河北門を出ると、広々とした新丸広場を経て、正面に「大手門」、左前方へ進めば「黒門」となります。黒門へ抜けると、武蔵ヶ辻・近江町市場へは7、8分もあれば着くほどの至近で、エムザ「黒門小路」の由来となっています。兼六園、金沢城と散策した後、黒門からそぞろ歩き、エムザ黒門小路でおみやげを購入するという流れも良いかと思います。
この橋はお城として改造される以前の「金沢御堂」の時代から存在していたとされ、参詣者は朝に念仏を唱えながら橋を渡り、帰りは日本海に沈む夕日を拝んで極楽浄土を祈ってから尾山を後にしたといわれています。 令和3年(2021年)3月はじめに改修工事を終え、綺麗に整備し直されました。
「長屋」といいますが、なまこ壁が美しい2階建ての倉庫です。もともとは軍備倉、のちには鉄砲倉として利用されていたということですが、金沢大学時代も書庫として使われていたそうです。 この三十間長屋より奥のうっそうとした森が、かつて本丸のあった場所だそうですが、もとより度重なる大火により建物はなにも残っていません。森となっているのは金沢大学時代に理学部の植物園となっていたためで、野鳥が生息し自然の多く残る散策路となっています。
しかし、庭園は廃藩置県とともに廃絶。明治4年(1871年)より明治政府の兵部省の管轄下となり、オランダ人スロイス医師の邸宅が置かれたのち、大正15年(1926年)頃に池を埋め立て、露天馬場が設置されたということです。 戦後、昭和30年(1955年)に県スポーツセンターへと転用され、昭和40年(1965年)には石川県立体育館が完成。長い間中高生のスポーツ競技の殿堂として知られていましたが、平成20年(2008年)に取り壊され、発掘調査が開始されました。 それから約7年の歳月を経て、歴代藩主の愛でた庭園が絵図や文献から忠実に再現されたわけです。現代の金沢によみがえり、市民憩いの庭園となった玉泉院丸庭園。入園料はもちろん無料です。
では、石川門より石川橋を渡り、兼六園へ向かいましょう。
加賀百万石といわれた前田家が造らせた庭園で、水戸、徳川家の「偕楽園」、岡山、池田家の「後楽園」とともに“日本三名園”の一つに数えられています。 延宝年間(1673〜81年)に5代藩主・綱紀公が現在の瓢池付近に蓮池御亭をつくったのが庭園としての始まりだそうです。 その後、文政5年(1822年)に12代藩主・斉広公が千歳台に竹沢御殿をつくり、天保8年(1837年)、13代・斉泰公の時代に、ほぼ現在に近い形となったそうです。
お殿様のための庭園から、広く民衆へ開かれた憩いの場所となったのです。 年配の方には兼六園下のことを「公園下」と呼ぶ人が多いように、かつてはあくまで「公園」であり、年中無休、時間制限なしの無料の公園として開放され、園内には「児童苑」も存在し、子どもがキャッチボールや遊具遊びに興じるような光景も見られたそうです。 子どももお年寄りも、朝でも晩でも気軽に出掛けられる場所だったのですね。花見のシーズンなどは、芝生の上にゴザを広げて弁当を食べたり、花見酒を楽しむ人でごったがえしていたそうです。その習慣が、いまのお堀通り沿いの園地での観桜に受け継がれているのでしょうか。 昭和51年(1976年)9月1日に有料化され、観光地として特化されるとともに、その優れた景観や構造物が大切に守られていくこととなりました。そして昭和60年(1985年)3月20日、文化財保護法により「特別名勝」として指定され、現在に至っています。
兼六園には、六勝と呼ばれる6つの要素があります。「宏大(こうだい)」「幽邃(ゆうすい)」「人力(じんりょく)」「蒼古(そうこ)」「水泉(すいせん)」「眺望(ちょうぼう)」です。 この六勝は普通ならば互いに矛盾しあう要素だそうです。「宏大」広々とした様子を求めると、「幽邃」静かで奥深い風情が少なくなってしまいます。「人力」人工的なものが勝っていれば、「蒼古」古びた趣きはなくなってしまうでしょう。「水泉」水の流れを多くすると、「眺望」遠くを眺めることができません。 しかし、この兼六園では相反して矛盾するはずの6つの要素を全て兼ね備えており、このことから、松平定信こと白河楽翁公が「兼六園」と命名したということです。 箱庭のように作り込まれた庭園の遊歩道には、じつにさまざまな道が張り巡らされています。広い道、狭い道、平坦な道もあれば坂道もあり、浜辺を思わせる湖畔に、川沿いの道。そこに架かる橋。行き止まりの山道……。 広い道から、今度はあの角を曲がって狭い道をたどってみようとか、まるで自分をバスに見立てて遊んでみるのも面白いです。 この霞ヶ池は琵琶湖をイメージして造られたものとも云われています。唐崎の松もそうですし、池の真ん中に浮かんでいる蓬莱島は竹生島を、池へ突き出している「内橋亭」は堅田の浮御堂を模しているそうです。
“亀は万年”ということで、雁行橋を渡ると長生きするとされていましたが、あまりに渡る人が多かったためでしょうか、石の磨耗が著しいため、現在は通行できず見るだけのものとなっています。
これはまさに「人力」の美でしょう。
寛永9年(1632年)に完成した辰巳用水は、金沢城が大火に見舞われたあと、水利を案じた3代・前田利常公の命によって着工。小松の板屋兵四郎という天才的な土木技術者が設計し、14万人もの人々の従事により、わずか1年で完成したということです。一説では完成後、兵四郎は城内の水路の機密が漏れることをおそれた藩によって亡き者にされたとも伝えられているそうです。 約380年も昔の地下水路が現在も使用されている例は日本で唯一といわれ、東京都の玉川上水、静岡県の箱根用水とともに、日本三用水の一つに数えられているそうです。平成22年(2010年)2月、上流部から中流部にかけての約8.7kmが国の史跡として指定されています。
言い伝えでは、このあたりで山芋を採って生活していた芋掘り藤五郎(とうごろう)と呼ばれる青年が、あるとき採った芋をこの泉で洗っていると、なんと芋についた土に含まれる砂金が洗い出され、キラキラ光っているのを見つけたそうです。 藤五郎は無欲な人柄で、和泉の国の素封家の娘と結婚しますが、妻の実家から送られてきた財宝も人に分け与え、雁の群れを獲ろうとするのに砂金の袋を投げ付け紛失する始末。見かねた妻が問いただすと、「こんなものは芋を掘れば付いてくる」と藤五郎。驚いた妻とともに、さっそく芋を霊沢で洗ってみると、美しい砂金が水のなかで輝いた。と、このような民話です。 以来、この沢は「金洗いの沢」、すなわち「金城霊沢」と呼ばれるに至ったとされています。 兼六園の南側、成巽閣に面した「ずいしんざかぐち」料金所から出場すると、そこがもうお金沢神社の境内となっています。兼六園ではいったん外へ出ても、当日日付印の入った入場券を提示すれば再入場ができますので、いったん出て、金城霊沢を見学後、また園内に戻る方法もOKです。
お金が投入されることで湧泉が汚れることから、管理する金沢城・兼六園管理事務所では「できるだけやめてほしい」と呼び掛けているそうです。
室生犀星の長女・室生朝子さんが昭和55年(1980年)2月に著された「四季との語らい 金沢そして能登」(主婦の友社)というガイドブックでは、金城霊沢の項にて、 昭和55年(1980年)当時にはすでにあったことなのですね。それから40年以上。もはやこれは歴史のひとつになりつつあるのではないでしょうか。
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