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味わいバス停は生きている
加賀八田,加賀八田口,八田東
かがはった / かがはったぐち / はったひがし
最終修正:令和5年10月18日 (1)
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:: 加賀八田金沢市森本地区、河北潟沿岸部に広がる農村地帯にある、西日本ジェイアールバス(株)才田線のバス停です。 すでに愛知県の関西本線に「八田」駅があったことから国名の「加賀」を冠したもので、鉄道・自動車を一貫のシステムとして捉えていた旧国鉄ならではのバス停名となっています。 こうした“加賀”を冠したバス停は「加賀宮野」「加賀高坂」など、金沢市内のJRバスでほかにいくつも存在していましたが、いずれも廃止──。いまは「加賀八田」とそして「加賀八田口」だけになってしまいました(北鉄のバス停には「加賀田上」があり、これも国鉄由来のバス停名です)。
「八田」という地名は、潟のはたであるから“はった”とも、または開墾した“治田”からともいわれます。
かつては北鉄バス才田線の「八田」バス停も隣接していましたが、昭和62年(1987年)3月31日を最後に廃止され、JRバスへ一元化されました。
ここは「オ」の字の複雑な五差路となっているのですが、交差点すべてを信号機で整理すると非常に複雑になり、おのおのの待ち時間が長くなってしまう一方、主道路以外の道の交通量はそこまで多くないということで、押ボタン信号のみに留めてあるのかも知れません。
昭和7年(1932年)5月19日、八田村で薬局業を営んでいた小林理作氏が「小林自動車」(通称“八田バス”)として5人乗り自動車を用い、森本駅〜八田間で6往復の運行を開始──。これが八田で最初の停留所です。
八田小学校は昭和46年(1971年)9月1日に大場小学校、才田小学校とともに森本小学校へ統合され、その年度内は「八田教場」として使用されたのち、昭和47年(1972年)3月22日に正式に閉校となったそうです。昭和47年(1972年)10月18日、八田保育所の落成式が開かれています。
ポールの撤去後も、台石のあった痕跡が残っていますね。 忠縄経由のバスは大場から直進して、八田東、右折してこの位置にあった加賀八田、加賀八田口、左折して忠縄、才田口……というコースで進んでいました。
:: 加賀八田口加賀八田のひとつ森本寄りにあり、以前は「寿康苑前」を名乗っていたバス停です。石川県長寿生きがいセンター寿康苑の閉館により、平成28年(2016年)3月26日改正で「加賀八田口」と改称されました。 ここにバス停が新設されたのは昭和61年(1986年)10月20日で、この日より才田線は全便とも寿康苑前経由のラケット循環へ経路を変更。新設区間内に「寿康苑前」「忠縄」「才田口」の各停留所が新設されました。このラケット循環系統は令和4年(2022年)6月30日を最後に廃止され、忠縄と才田口はそのとき運命を共に……。「加賀八田口」は、唯一の生き残りです。
そもそも、かつての才田線はラケット循環でしたので、ここは当初、才田ゆきの片方向のみがこちら側に停まっていました。その後、平成8年(1996年)4月1日にいまのコースである向陽高校前・湖陽住宅経由の系統ができて、少しややこしいのですが、こちら側に金沢ゆき、ポールの向かい側に才田ゆきが停まるようになりました。
もとは湖陽住宅へ乗り入れていなかったので、いまの加賀八田口バス停のほうが「寿康苑前」を名乗っていても変ではなかったのですね。
が、歩道は昔のままですから、まるで路上にボーンと建屋が置かれたような、異様な光景となっています。
:: 八田東かつて存在した八田東経由便の大場〜加賀八田間にあったバス停です。民営化後の昭和62年(1987年)6月1日に設置されています。 元来の才田線のメインルートであったものの、晩年は1日1往復が残るのみだった八田東経由……。とうとう令和4年(2022年)6月30日を最後に廃止されてしまいました。
どうやら、このポールは福井県のJR越美北線が水害により不通になっていた平成17年(2005年)6月13日〜平成19年(2007年)6月29日までの間、越前東郷〜美山間で運行されていた列車代行バスで使用されていたもののようでした。 この特異なポールは、奈良県でよく見られるものと仕様が酷似しています。政宗3号さんにJRバス平城山線(ならやまえきバス)平城山駅停留所の写真を見せて頂いたところ、外観が一致していました。 JRバス平城山線(ならやまえきバス)は、当初平成17年(2005年)春に開業が予定されていたものの、何らかの事情により平成19年(2007年)3月18日まで開業が延びているようです。 憶測ですが、ならやまえきバス開業に向けてポールが用意されていたものの、スタートが延期されたため、平成17年(2005年)6月13日からの列車代行バスのポールとして転用。これが流れ流れて八田東へ行き着いたということなのではないでしょうか。 なお、鳴和(市内方向)のJRバス停留所も、一時期このタイプのポールが使用されていたことがありました。
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