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いしかわ★あちこち乗ってみた

吉崎よしざき線,山代大聖寺やましろだいしょうじ

温泉大聖寺おんせんだいしょうじ
YOSHIZAKI LINE
YAMASHIRO-DAISHOJI LINE
ONSEN-DAISHOJI LINE

最終修正:令和5年9月30日 (1)


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 吉崎よしざき線」は蓮如上人が北陸布教の本拠地とした吉崎、そして北前船の港・塩屋へと向かう路線です。

 平成27年(2015年)3月14日よりイオン加賀の里経由で加賀温泉駅まで延伸され、加賀温泉駅と大聖寺駅の間を移動することもできる路線となりました。

 山代大聖寺やましろだいしょうじ線」は平成27年(2015年)3月14日改正で吉崎線のメイン系統が加賀温泉駅へ延伸されることにより、山代温泉東口〜大聖寺駅前間を中心とした山代方面へ向かう系統が分離し、独立した路線となったものです。

 朝夕は山中、山代地区から大聖寺実業高校や大聖寺高校への通学の足ともなっていますが、加賀市内のバス路線のなかで唯一加賀温泉駅へ乗り入れておらず、運行も平日ダイヤ主体ということで、いぶし銀のような渋みのある路線といえるでしょう。

 温泉大聖寺おんせんだいしょうじ線」もまた、平成27年(2015年)3月14日改正でスタートした新路線で、路線名の通り加賀温泉駅と大聖寺のまちなかを結んでいます。

 コースの大部分はかつて運行されていた「橋立循環線」をアレンジしたものとなっており、途中には白山台、松が丘など急坂の介在する住宅地もあるため、それらと駅との間を結ぶ団地路線としての機能も有しています。

 加賀温泉駅から見える観音像はこの路線の沿線に立っており、白山台まで来ると車窓からもすぐ近くにその姿を仰ぐことができます。

 大聖寺は渋みのある城下町です☆

::乗車編


    

 マルシアさんによろしく

令和5年(2023年)9月某日

 もうだいぶ前の話になってしまったが、テレビ番組の人気シリーズ「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」で加賀温泉郷が舞台になったとき、大聖寺から加賀温泉駅までのバスが存在しないために、おなじみの蛭子さんと太川さん、それからゲストのマルシアさんのお三方が、1時間も歩いてこの間を繋いだという回があった。
 徒歩連絡はこの番組では日常的なシーンとして登場するが、雨のなか、車の飛ばしていく田んぼ道を歩いていくのは大変だったろうと思う。
 いまはもう、歩く必要などない。
 加賀温泉駅と大聖寺の間には、北鉄加賀バスの路線が2種類も運行されている。
 むろん、この番組の影響ではなくて、大聖寺にあった市民病院が加賀温泉駅前へ移転することが決まったので、大聖寺の方の通院に不便にならないようというのが、その理由のようだ。

 
 ▲塩屋ゆきでスタートです

 加賀温泉駅13時00分発の大聖寺駅前経由塩屋ゆきは、発車時刻より8分も前に1番標識へ着車した。
 杖をついたおじいさんが、
「これ塩屋ゆきやね」
 と運転士さんに尋ねている。
「塩屋ゆきですよ〜、もうちょっと待っとってねまだ時間あるし」
 気の良さそうな運転士さんは、そう告げながらバスを降りて、のりばのすぐ前方にある喫煙所へと向かった。
 なるほど、運行前に一服しておきたかったのか。
「13時発、大聖寺駅経由、塩屋ゆき発車しまーす」
 喫煙所から戻ってきた運転士さんが丁寧に肉声アナウンスをかけ、出発した。
 ぼく以外の乗客は男女4人。
 お年寄りばかりで、ビニールのガサガサ音が車内にひびく。
 駅を出て、お決まりの儀式のように加賀市医療センター立ち寄りを済ませたあと、交差点を左へ曲がる!
 これは北鉄加賀バスの数ある路線のなかでも、吉崎線のみの動きである。
『業務放送、イオン加賀の里前バス停発車後、上河崎方向へ右折して下さい』
 加賀ではめずらしく思える男声の注意放送が流れる。イオンのさきで、河崎上神社前経由と保賀西経由の2つの経路に分かれるためだろう。
 イオン加賀の里前で1人が下車し、入れ替わりに2人乗ってきた。
 吉崎線に何度か乗ってきたが、ここのバス停は案外、利用されているように思う。
 イオンには、アビオシティにはない魅力があるのだろうか。
 予告どおり、イオン加賀の里前を出たあと、国道8号線の交差点を目の前にしながら、そのすぐ手前にある名もない辻を右折した。
 はじめてこのルートに乗ったときは、かなり意表をつかれたものだ。
 えっ、そこへ行くん?!
 という……。
 大きな交差点の右折レーンに入り、ウィンカーを点滅させて信号待ちの車の後ろにつくのかな、と思わせておいて、まるで裏をかくように、その車列を尻目に小路へと曲がっていくのだ。
 だいたい、こんなところに曲がるところがあるということ自体、大きな店の影になっていて、気づきにくい。
 曲がったさきは、道が狭いというわけではないが、やたらとカーブが多い。
 河崎上神社前は乗降がなく、通過。
 河川敷が蔦に覆われてモコモコになっている大聖寺川を渡り、昔の山中線のルートへと曲がった。
 上河崎で2人降りていく。ここは昔は、加賀温泉駅からの直通路線がなかった場所である。吉崎線の延伸が、思わぬ恩恵になっている人たちだ。
 南郷、南郷公民館前。古い上屋のあるバス停が多い。
 昔の山中線は、鉄道線の大聖寺〜山中間の代替バスでもあり、それにふさわしい設備といえるが、まさかその山中線が廃止になってしまうなんて、思いもよらぬことだった。
 真新しい北陸新幹線の高架下をくぐって、続いてJR北陸本線の古びたガード下をくぐる。温泉片山津線の作見南からときわ台での展開と酷似している。
 これだけ2つの線路が並走しているなら「新大聖寺駅」が置けそうなほどだが、むろん、そこに駅が置かれることはないだろう。100年後くらいに、リニアモーターカーが北陸にも走るようになった頃には、わからないが……。
 信号機の名標は「菅生」とぶっきらぼうな名称の交差点を曲がり、菅生町。このあたり、昔の大聖寺の商店街で、お店が連なっていたはずなのだが、いまはなんとも……。
 昔は菅生町の車内放送で、
『処方箋受付と健康相談の、杉原薬局前でございます』
 つぎの弓町で、
『漢方と処方箋調剤の、大原愛生堂薬局前でございます』
 と、なぜか処方箋調剤薬局が2軒、張り合うように広告放送を流していたものだった。
 弓町の「大原愛生堂」のほうはバスの車体広告も出していて、名古屋市営の中古の古い大型バスが、リアーに正方形で黄いろの看板を掲げていた記憶がある。
 ガラス扉に白いカーテンを引いたしもた屋がいくつも過ぎてゆく。
 カルピスの大きな看板を掲げた店。ここももう商売はやっていないらしい。「セルラー」「デジタルツーカー」と大書した店も、錆びたシャッターを下ろしている。
 代がわりとともに完全に建て替えたのか、シャッターとシャッターの間に、住み良さそうな新建材の民家が挟まっているところもあった。
 南町を経て、大聖寺駅前に着いた。駅舎の前に降車場があり、そこで1人が降りていった。
 かつては塩屋ゆきの始発バス停でもあった大聖寺駅前だが、降車場から離れたバス停に人影はなく、そのまま停まりもせず通過してゆく。
 駅のバス停といえば、利用者の有無にかかわらず、とりあえず一度停まってドアを開けて、すぐ閉めて発車……という流れになることが多い。たとえば森本駅や粟津駅などがそうだ。駅ではないが、高浜バスターミナルや能登町役場前も。
 しかるに、ここの場合、人が待っていなかったら、停まるのも無駄とばかりに、そのまま減速せずに通過することが多い気がする。
 すでに発車時間に達しているのならば、誰もいないのに停車する必要などなく、現実的にはそれで良いのだろうとも思うが、ここでそれをされると、なんだか、ターミナル駅だった過去の栄光がひどく没落しているさまを象徴するようで、駅頭の淋しい風景もあいまって、憐憫の情が禁じえない。
 2度目の南町を経て、重厚な町家の多い旧市街を少し走った。越前町という城下町らしいバス停がある。
 かが交流プラザさくら前でバスを降りた。加賀温泉駅からの運賃は300円と安い。
 このまま塩屋まで、大聖寺川に沿ったのびやかな風景を眺めながら乗っていくのも愉快そうで、食指が動きかけたが、それをすると同じバスで来た道をまた帰ってこなければならないので、今回はよしておいた。
 ぼくとともに降りたおじいさんは、よくみると、さっき「塩屋ゆきやね」と尋ねていた人だった。

 
 ▲今度は温泉大聖寺線です

 帰りは、かが交流プラザ前13時40分発の松が丘経由加賀温泉駅ゆきに乗った。
 こんどは温泉大聖寺線で、ここが始発である。
 車両はきわめつきに古い中型ノンステップバス。なぜかぼくはこの車両にやたらよく当たる。先月、片山津温泉を訪れたときにも乗ったばかりだ。
 さっきと逆のコースを巻き戻すように走り、南町を経て、大聖寺駅前へ立ち寄る。
「大聖寺駅前で降りる方ございませんね? 通過します」
 運転士さんは、はじめから降りる人などなかろうという口ぶりだ。今度も、まったく停まることなくそのまま一周するだけだった。
 本日もう何回目か分からない南町で、かぁちゃんが水筒を提げて乗ってくる。マルエーや市役所、銀行などにも近いバス停であり、駅よりは、むしろ南町のほうがニーズがあるのか。
 つぎは法華坊。
 そして、耳聞山。
 懐かしい流れだ。昔の橋立循環線を思い出す。橋立方面のバスは、こうして少しずつ街を背にして山へとむかっていき、その山を越えて北前船の港町・橋立へ到達していたのだった。
 が、このバスはそこへは行かず、山の手前の岡町を曲がる。
 竹林の目立つ丘へとエンジン音を高めていき、のぼりつめたところで、切通しの左右が開けたと思うや、そのままの高さで中空へ飛び出す。JR北陸本線と旧道、それに集落の屋根屋根の上を一気に渡って、それから高度をどんどん下げて、田んぼのなかの地平へと降りていく。
 空中の滑り台のようだ。
 北陸新幹線の高架橋が、田園地帯をまっすぐ2つに分けている。
 その真新しい高架と平行して走り出したと思うやいなや、すぐに交差点を曲がり、またまた陸橋への上り坂。さっき越したばかりのJR線を、再びまたぐ。
 跨線橋を立て続けに2度も渡るのは、この路線ならではであり、面白いポイントである。
 そして渡って下って、また上り坂。今度は自然の地形にそった坂道で、さきほどの岡町の丘のつづきの丘陵地へと上がっているのである。
 アップダウンが人工物も含めて激しい。
 丘の中腹にある中央公園口でかぁちゃんが降りていって、車内の客は、ぼくだけになってしまった。
 バスは松が丘の団地へと、さらに上がっていく。運転士さんはギアをたくみに入れ換え、エンジンが粘りづよく回転した。
 坂をのぼりきった頂上に松が丘二丁目のバス停があり、ここでおじいさんが乗ってきて、貸切状態は解消された。
 この二丁目のバス停が高みの頂点に位置していたらしく、ここからは下っていって下っていって……、松が丘一丁目。ここでも2人が乗車する。
 いや、少し遅れておばぁさんが間に合った。「すいませーん」と乗ってきて、都合3名乗車。
 松が丘という名前の団地はあちらこちらにあるが、ここ加賀の松が丘は、団地造成前には“マツタケ山”と呼ばれるほど松茸が豊富に採れたそうで、団地名もその“松”から取ったそうだ。
 団地内をテンポよく走り抜け、気分が上がってくる。松の翠に雲白き、白山連峰背に受けて……と歌を唄いたくなる。いや、もちろん実際に声を出しはしないが……。
 バスは松が丘にさよならして、白山台。
 団地の家並みは連続しているように見えるが、こちらのほうは京福グループが開発した住宅街らしい。北鉄タイプとは趣を異にする上屋が整備されている。
 このあたりは駅からも望める加賀大観音の文字通り“お膝元”で、すぐ間近からバストショットが見えた。
 けれども、この観音像も老朽化が問題になってきていて、まわりの住宅地の人たちからは、倒れてきたらどうするという声さえ挙がっているそうだ。
 バブルの遺物であろうと、歴史的な価値はなんたらかんたらと云われようと、加賀温泉駅のシンボルであることには変わりないのだし、観光客も有難く見上げて、カメラを向けているのもよく見かける。市のほうで動いて、なんとか良い方向へ持っていって欲しいものだが……。
 坂を下りて団地をあとにし、温泉駅北口でおじいさんが降りていった。電車に乗り換えるのだろうか。
 カーブをたくみにかわしながら、作見。このあたり、ほんとうに道がまっすぐな箇所というのがない。昔からの北国街道である。馬が早駆しないようにしてあるのだろう。
 JR北陸本線と北陸新幹線をワンセットでくぐり、加賀温泉駅前のアビオシティ加賀が見えてきた。さっきとは反対側から、加賀市医療センターへアプローチする。
 そして、終点・加賀温泉駅着。
 1時間ちょっとの循環乗車だった。
 ちなみに、電車に乗り換える場合は、さきほどのおじいさんのように温泉駅北口で降りたほうが早い。時計を見ておいたが、温泉駅北口に着いたのは14時00分で、加賀温泉駅に到着したのは14時07分だった。
 もとより、蛭子さんたちのようにバスからバスへ乗り継ぐ場合は、もちろん加賀温泉駅まで乗ったほうが良い。ぼくもまた、その手である。
 つぎは山代へでも行くかな……。もしいいバスが来たなら、先月乗ったばかりだが、片山津でも良い。


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 大聖寺のライフは

平成25年(2013年)1月7日

 山中温泉の帰り、バスターミナルから乗った昼下がりのバスには、宿の女将さんみたいな和装の女の人が座席に座って、発車を待っている。
 81−601という中型ノンステップバスで、じつは行きにも同じバスに当たった。
 これもめぐり合わせか。
 このバスでは、車内の広告枠を利用して「こども絵画展」が開かれている。
 子どもたちが自由な筆で描いた絵の右下に、描いた子が運転席にすわっている写真が添えられていた。
 思い出になるだろうなぁ。
 バス離れをくいとめるためには、子どもの頃からバスへの親しみを……ということで、どこもみな工夫を凝らしている。なにせ、いまの若い親御さんは、どこへ行くにも自家用車らしい。バスの車内で親子を見かけるということが、ひどく少なくなっている。
 山代温泉東口で下車し、そこから15時10分発の保賀経由大聖寺駅前ゆきに乗り換えるつもりだ。
 この山代温泉東口〜大聖寺駅前の路線も、加温エリアに路線がたくさんあったころには、しょっちゅう乗っていたが……。最近、だいぶご無沙汰している。
 もとより、あまり特色のない、つなぎの路線という感じだったのだが、いまはこれに乗るために行程を考えないといけないような路線になってしまった。
 山代温泉東口のバス停にわくわくしながら待ち、さて、どんなバスが来るのだろうと思っていたら、交差点を曲がってニュッと顔を出した車両は、まさかの81−601だった。
 さっき乗ったばかりのバスである。
 加賀温泉駅に着いてから、すぐに回送し、ここへ急いでたどりついたのだろうか。
 これは予想外だった。
 が、来てしまったからにはやむをえない。
 きょう3度目の601号車に乗車した。
 バタバタンと音を立てて戸板の大きなドアが閉まり、プーンという音とともにギアが入れば、定刻に発車。
 お店の連なる温泉通りを通り抜けて、幸町のつぎが山代小学校前。久しぶりの停留所名である。
 いつもとちがうところへ行けるのが嬉しい。
 小学校の校舎を正面に見据え、突きあたりで曲がる。そして歩道橋の下をくぐる。
 また、この歩道橋が良いですよね。
 交通戦争とよばれた時期に、さかんに建てられたらしいベージュの横断歩道橋だが、同じような年代に建てられたものばかりだからなのか、老朽化も一斉にやってきて、撤去されるケースが増えてきた。
 ここのは、小学校の目の前ということで、補修しつつ残す判断になっているのだろう。
 小学校からだいぶ離れてから、やっと山代小学校前のバス停を過ぎた。
 白亜のギリシャ神殿のような大ホテルの廃墟が、朽ちたロープに囲われてたたずんでいる。
 ゲームならば、神殿ではあるが、お城ではなくダンジョンのBGMが流れていそうな一角である。
 そして交差点を曲がって、街をあとにした。
 道のまわりには草むらが目立つようになり、バスはオレンジいろのセンターラインの一本道をポコポコポコと音をたてながら淡々と走る。
 大聖寺川を渡った。
 橋を渡ると、つぎのエリアに入ったという感じがする。
 ドラクエでは、そうだった。
 したがって、ここはもう山代ではなく、大聖寺のフィールドである。
 つぎの街が近づく。
 上河崎、下河崎、南郷。なつかしい。運賃表に表示されるバス停名を眺めているだけでもゾクゾクとするほど、ほんとうに久々って感じがする。
 農協の建物に「寝台車運行」と書いてあった。むろん、想像してしまうのとは別の乗り物である。
 JRの線路の下を潜るようにくぐって、菅生町から、大聖寺の城下町へ繰り出した。
 街のメインストリートを凱旋するのだが、歩いている人は見当たらない。
 それどころか、車もすくない。
 最後まで、ほかに乗ってくる人はおらず、大聖寺駅の駅舎の前の降車専用ポールで下ろされた。
 大聖寺駅前のロータリーは、いまだに乗り場が複数用意されてあるのが、かえってわびしい。
 いまはもう、バス停1本だけでも充分すぎるくらいだ。
 たくさんの人が待っていて、のりばの前にギッシリ並ぶ店も盛業だったのに、ほんとうに、大聖寺の駅前は、この10年で別の場所みたいになってしまった。
 バス路線が壊滅して、のりばに面した店が、みんなやめてしまったからだ。
 アビオシティの栄える加賀温泉駅と引き比べると、それをするのが無駄にも思えるほど、優劣が明らかすぎて、あまりにも切ない。
 高速バス停もそうで、以前は大聖寺東町に停まっていたのが、いまでは加賀温泉駅への乗り入れになっているし、さまざまなものが加賀温泉駅前に移ってきているというしかない。
 商業施設だけでなく、いまは大聖寺にある市民病院も、今後、加賀温泉駅前に移転するという話もきいた。
 そうなると、交通は便利になるだろうけれど……。
 うーむ、けれども、されど、城下町。
 大聖寺には、誇り高い旧家のような威厳を感じる。


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::歴史編


:: 吉崎線の歴史

 バスというものが姿を現す以前には、大聖寺川下流部の豊かな流れを生かした「あんこう船」と呼ばれる巡航船が大聖寺〜吉崎間を結んでいたといいます。

 この「あんこう船」は塩屋の浜中氏(丸糸)と大聖寺の塚本氏、それに網谷、伊東の両氏の経営によるものがあり、1日に4〜5往復程度運航。25人乗りの動力船で、運賃は10〜20銭。大聖寺〜吉崎間の所要時間は40分を要していたそうです。

 毎年4月下旬の吉崎参りの際には25人乗りの船に100人近くも乗せ、1日に12〜12回も往復するという盛況ぶりも伝わっていますが、バスが開通すると廃れていき、姿を消したということでした。

\川下りは立派な公共交通だったんだ/
 

 
 ▲旧大聖寺川

 昭和7年(1932年)頃より「林自動車商会」という事業者によって大聖寺駅前〜吉崎間で運行されていた路線が、この方面のバス路線の最初であるようです。

 「鉄道省編纂汽車時間表」昭和9年(1934年)12月号に掲載されている「定期乗合自動車線」一覧表においては、「大聖寺駅〜吉崎」間の路線として掲載されており、距離は7.0km、所要時間30分、運賃40銭、往復70銭とありました。

\40銭はどのくらいかな?/
 

 昭和10年(1935年)にこの路線は温泉電気軌道(株)へと譲渡されています。

 なお、大聖寺〜吉崎間では合併前の温泉電気軌道(株)が鉄道「吉崎線」として鉄道敷設免許を取得していたようですが、実際に開通することなく、幻に終わっています。バスの吉崎線は鉄道の夢の通い路を繋ぐ路線でもあったのかも知れません。

\吉崎への電車が構想されてたのか/
 

 一方、山代〜大聖寺間においても温泉電気軌道(株)の路線があり、国立国会図書館デジタルコレクションにて公開されている「全国乗合自動車総覧」(昭和9年発行)によると昭和3年(1928年)10月25日より山代〜保賀〜大聖寺町八間道間で運行が開始されていたようです。

 「鉄道省編纂汽車時間表」昭和9年(1934年)12月号の「定期乗合自動車線」一覧表では、「山代駅〜大聖寺町」間の路線として掲載があり、距離は5.0km、所要時間20分、運賃30銭とありました。

 温泉電気軌道(株)は昭和18年(1943年)10月13日の戦時統合に際して北陸鉄道(株)へ統合。これにより、北陸鉄道(株)吉崎線が発足しているようです。

 
 ▲県内の交通を北鉄は1つに結びつけた

 北陸鉄道(株)への合併当初は「吉崎線」という路線名の通り、大聖寺駅前〜吉崎間での運行だったようです。

 「国立公文書館デジタルアーカイブ」にて公開されている「北陸鉄道株式会社申請による一般乗合旅客自動車運送事業の経営(延長)免許について」という昭和26年(1951年)5月8日作成の文書には当時の路線一覧表が掲載されており、加南支社担当の「吉崎線」として記載を確認することができます。運行区間は大聖寺〜吉崎間で、距離は8.0km。便数は14となっていました。

\吉崎が終点だったんだね/
 

 昭和28年(1953年)発刊の「ほくてつ 創立10周年記念号」(石川県立図書館所蔵)に掲載されているこの当時の路線概況には大聖寺自動車区担当の「吉崎線」として、大聖寺〜塩屋間9.1kmの路線として記載されており、この時点までには「塩屋」への延伸が行われている模様です。

 「国立公文書館デジタルアーカイブ」にて公開されている『旅客自動車石川県(一)自昭和二十三年至昭和二十五年』という資料にこれと関係する文書が見られますが、これによると、申請時の区界停留所名は大聖寺、今出町、鳥越、三ツ村、右、永井新、永井、瀬越、吉崎、塩屋となっていました。

 実際のところは吉崎〜塩屋間の延伸に関する申請のわけですから、大聖寺〜吉崎間については間違いなくこれらの停留所名で運行されていたものと考えられます。また、申請時の運行本数は7往復となっていたようです。

 三木がかつては「右」であったことに驚かされます。はじめは誤植かと思ったのですが、実際に「三木」の旧集落名は「右」という表記で「みき」と読ませていたのだそうです。

\左礫から右まで乗り継ぎたいね/
 

 
 ▲大聖寺城下町、時鐘堂

 「大聖寺町史」(大聖寺町史編纂委員会・編)によると、昭和30年(1955年)に越前町〜弓町間の聖南通りが開通し、バス路線が変更されたとの記述がありました。

 この頃は大聖寺鍛冶町付近が最大の中心街で、かつて大聖寺を発着するすべての路線は「鍛冶町」バス停に停車していたそうです。しかし、この聖南通りの開通により南町から直接越前町へ出ることができるようになり、鍛冶町は通らなくなったのでしょう。

 ただし、鍛冶町経由時代に通っていた経路のうち一部は、のちに加賀中央病院経由便が新設されたときに復活を果たすこととなります。

\いまのかが交流プラザさくらだね/
 

 
 ▲大聖寺鍛冶町のたたずまい

 昭和39年(1964年)7月版の「全国バス路線便覧」によると、吉崎線に関するものは下記のような記載となっており、新たに山代温泉発着で「吉崎御坊前」へ運行する系統ができていることが分かります。
 ◆大聖寺駅前〜吉崎〜塩屋    13往復
 ◆大聖寺駅前〜吉崎       4往復
 ◆山代温泉〜大聖寺〜吉崎御坊前 5往復

 昭和46年(1971年)7月11日には鉄道加南線の廃止に伴い、代替路線としてワンマンバス「山代大聖寺線」の運行が開始されています。

 のちには吉崎線の一部となっていた時期もあるこの路線は、山代東口〜大聖寺間で当初は26本が設定されていたようです。直接的に旧鉄道線に沿った経路ではありませんが、山代温泉と大聖寺の間で電車を利用していた方の利便を図り、乗り換えなしの路線として開設されたものと思われます。

\山代大聖寺線は当初からワンマンだ☆/
 

 
 ▲さながら湖のような大聖寺川河口部

 昭和50年(1975年)3月頃の時刻表によると、吉崎線と山代・大聖寺線は別々に記載されており、山代・大聖寺線には山代東口〜大聖寺〜片山津と直通するものが3往復存在するほか、片道1本のみながら田尻→大聖寺→山代東口と、橋立線との間で乗り換えなしで直通する便が存在していたようです。

 しかし昭和55年(1980年)6月発行の北鉄時刻表によると、この時点での吉崎線は山代東口〜保賀〜大聖寺駅前〜塩屋間となっており、「山代大聖寺線」という路線名は見当たらず、吉崎線の一系統として組み込まれている様子でした。これが両路線の第1次路線統合期です。

 塩屋へは1時間に1本、山代東口〜大聖寺駅間で切り取ると1時間に1〜2本程度のダイヤで運行されていた模様です。

\吉崎線も山代東口から出てたんだね/
 

 昭和59年(1984年)11月1日からは錦城ヶ丘〜塩屋間がフリーバス区間に設定され、停留所以外のところでも自由に乗り降りできるようになっています。

 
 ▲関町の大聖寺藩関所跡

 平成元年(1989年)7月発行の時刻表によると、吉崎線の塩屋発着便は計20往復、1時間に1本程度が運行されていたようです。

 この時点で「吉崎御坊」への運行はなくなっており、吉崎方面へ向かう便は全て塩屋発着となっています。

 しかし、この当時も毎年4月24日〜5月1日に開かれる「蓮如忌」の際には参拝客の送迎のため、大聖寺駅前〜吉崎御坊間で臨時バスが運行されていたほか、定期便も「吉崎御坊」まで延長して運行されていた模様です。

\いまも芦原温泉駅からは臨時バスが出るかな?/
 

 平成3年(1991年)1月20日には大聖寺川の北側を経由する上木出村経由の系統が新設。「上木」「上木出村」「加賀市青年の家前」「瀬越」の各停留所が開設され、これにあわせて従来からあった「瀬越」停留所は「瀬越口」と改称されました。

 なお、この新設区間はすべて当初からフリーバス区間に設定されています。

 
 ▲越前町バス停付近

 平成3年(1991年)9月14日からは大聖寺市街地の「加賀中央病院」(現:かが交流プラザさくら)への乗り入れも開始されています。

\大病院へ乗り換えなしで
 

 平成6年(1994年)3月31日の加賀地区分社化による「加賀温泉バス(株)」発足時には、いったん大聖寺駅を境に路線が分断され、南半分の大聖寺駅〜山代温泉東口間が再び「山代大聖寺線」として独立、これは北陸鉄道(株)担当で残る一方、吉崎線として残存する北半分の大聖寺駅〜塩屋間は加賀温泉バス(株)へと移管され、北鉄本体の「山代大聖寺線」、加温バスの「吉崎線」と、別々な2路線として歩み始めることとなります。

 これは金沢地区における津幡線と高松線の関係に似ていますが、分断当初はのちの津幡線と同様に、乗り継ぎ乗車券や、また乗り継ぎ回数券も発売されていたようです。

 かくして、吉崎線と山代大聖寺線は再び2つに分かれました

\会社ごとに分断されたんだ/
  

 
 ▲塩屋のちいさな待合室

 吉崎線からの分断後、北陸鉄道(株)の路線として残っていた「山代大聖寺線」ですが、結局は平成9年(1997年)4月1日に加賀温泉バス(株)へと移管されています。

 そして、平成15年(2003年)のダイヤ改正で山代東口〜塩屋間を走破する便が復活、翌年にはさらに増強され、このとき正式に吉崎線と山代大聖寺線が再統合され、分断されていた2路線が再び繋がるという稀なケースとなりました。

 これが両路線の第2期路線統合期ということになります(現在は三たび分離・独立)。

 なお、配布されている時刻表などにおいては、山代〜大聖寺間のみを運行する便に関して、引き続き「山代大聖寺線」という呼び名が便宜的に使われ続けていました

\でも正式には吉崎線だよ/
 

 
 ▲大聖寺駅前に停車する塩屋ゆき

 平成16年(2004年)10月16日ダイヤ改正時点での吉崎線は、塩屋発着便は合計10往復。うち上木出村経由は月〜金のみ1往復となっていました。

 平成17年(2005年)10月1日には「加賀中央病院」停留所が「加賀市民病院」と改称されています。加賀市と山中町の合併による新・加賀市の発足により病院名が変更されたことに対応されたものでした。

\加賀市立になったんだ♪/
 

 平成18年(2006年)7月31日を最後に、1日1往復のみ残っていたレア系統である「上木出村経由」が廃止されています。

 15年前に新設された同系統ですが、せっかく開業したものの利用客が根付かなかったのか、結局減便を重ねてレア系統化していき、ついには廃止されたという悲しい結末でした。

 
 ▲元名鉄バス

\そして加賀市では大規模な合理化が……/
 

 加賀地区の8路線が一挙に廃止となってしまった平成20年(2008年)5月1日改正では、「山中線」(大聖寺駅〜山中温泉)の廃止を受けて、温泉山中線と同じルートで大聖寺駅〜山代温泉東口〜河南〜山中温泉と乗り換えなしで運行する系統が朝夕に新設され、新たな活躍を開始しています。

 しかし、この時点では無風だった吉崎線も、平成21年(2009年)5月31日の改正で大聖寺駅〜塩屋間の運行が月〜金のみとなり、さらに1日2往復に大幅削減。土日祝は山中温泉→大聖寺駅ゆき片道1本が運行するのみの零細路線へと変わり果ててしまいました。山代温泉東口〜塩屋間直通の便も、この改正で姿を消しています

 このように暗い話題ばかりが続いていましたが、平成21年(2009年)7月1日には山中・山代〜大聖寺駅系統の一部便が「大聖寺実業高校前」へ延伸されるなど、利用増に向けた取り組みも見られます。

 
 ▲雪の大聖寺実業高校に到着

\通学にべんり〜/
 

 平成22年(2010年)11月14日からは、加賀市からの補助再開により、月〜金のみとはいえ、データイムの塩屋ゆきが2往復増発され、計4往復へ回復。地域住民と協調しての路線維持が試みられました。

 ただ、土日祝に運行されるのは、引き続き山中温泉→大聖寺実業高校の片道1本のみとなっています。

 
 ▲元「キャン・バス」だった小型バス

 平成25年(2013年)頃から、路線のキャッチフレーズとして『十万石すぱクロ号』および『蓮如の里号』という愛称が設けられたようで、主に山代温泉〜大聖寺間などで使用された83-631号車の側面に『十万石すぱクロ号』、主に大聖寺〜塩屋間で使用された40-060号車の側面に『蓮如の里号』の愛称をあしらった看板が設置されました。

 名称の由来は『十万石すぱクロ号』は大聖寺藩の石高“十万石”と山代温泉のゆるキャラである“すぱクロくん”をあわせたもの、『蓮如の里号』は吉崎が蓮如聖人ゆかりの地であることから名付けられたものと思われます。

\すぱクロ号はいまも後輩へ引き継がれてるね/
 

 
 ▲三ツ

 平成27年(2015年)3月14日からは翌年に控えた加賀市民病院移転を見据え、大聖寺駅前より「イオン加賀の里前」経由で加賀温泉駅までの延伸が行われ、「小菅波町」「イオン加賀の里前」「河崎上神社前」の各停留所が新設。土日祝の運行も復活しました。

 あわせて、山中温泉・山代温泉東口〜大聖寺駅前・大聖寺実業高校間の系統については三たび「山代大聖寺線」として分離・独立し、またまた2路線体制へ戻ることとなりました。

 吉崎線は一時期まったくバス路線がなくなっていた加賀温泉駅〜大聖寺駅前間を結ぶ路線ともなり、同日に開業した温泉大聖寺線とともに、大聖寺を舞台に新たな活躍を開始しています。

\加賀温泉駅から乗れるよっ♪/
 

 
 ▲河崎上神社前に到着する塩屋ゆき

 平成28年(2016年)4月1日改正では加賀温泉駅前に開院した「加賀市医療センター」への乗り入れが開始され、従来の「加賀市民病院」停留所は「加賀看護学校前」と改称されました。新医療センターの開院により、旧加賀市民病院が空き家となったため、隣接していた加賀看護学校にランドマークの白羽の矢が立ったということのようです。

 平成29年(2017年)4月1日には、前年に改称されたばかりだった「加賀看護学校前」停留所が「かが交流プラザさくら」と改称されています。旧加賀市民病院跡に同プラザがオープンすることに合わせたもので、よって「加賀看護学校前」という停留所名はたった1年間のみで終わってしまいました。

\加賀看護学校前は幻に……/
 

 平成30年(2018年)4月1日改正では、イオン加賀の里前〜上河崎間を「保賀西」経由で運行する便が新設され、4往復あった従来の河崎上神社前経由のうち、全日2往復が新系統に振り替えられました。

 これにより大聖寺市街〜黒瀬、保賀地区内間の乗車機会が増加することになったほか、黒瀬、保賀地区から加賀市医療センターへの通院の利便性が向上することとなりました。

 

 
 ▲県境のまち・吉崎

 令和3年(2021年)7月1日、北鉄グループの加賀地区バス会社再編に伴い、長らく本路線の運行を担っていた加賀温泉バス(株)は小松バス(株)と合併し「北鉄加賀バス(株)」となりました。

 本路線は旧加賀温泉バス(株)を継承した北鉄加賀バス(株)加賀営業所の担当となっています。

\加賀バススタートです/
 

 
 ▲古い街並みが残る十万石の城下町・大聖寺


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:: 山代大聖寺線の歴史

 平成27年(2015年)3月14日、吉崎線が加賀温泉駅へ乗り入れるようになったことにあわせ、同路線のうち山中温泉・山代温泉東口〜大聖寺駅前・大聖寺実業高校間の系統が「山代大聖寺線」として分離・独立し、発足しました。

\縁は異なもの/
 

 「山代大聖寺線」という路線はこれ以前にもたびたび登場しては吉崎線に吸収されることを繰り返しており、独立した路線となったのはこれが3回目です。統合と分離の繰り返し。まるで別れたり復縁したりを繰り返す2人のようですね。

 
 ▲大聖寺駅前にて

 吉崎線の項にも書きましたが、平成28年(2016年)4月1日改正で「加賀市民病院」停留所が「加賀看護学校前」と改称され、そして平成29年(2017年)4月1日にはわずか1年で「かが交流プラザさくら」と再改称されています

 令和3年(2021年)7月1日、北鉄グループの加賀地区バス会社再編に伴い、加賀温泉バス(株)は小松バス(株)と合併し「北鉄加賀バス(株)」に。本路線は引き続き旧加賀温泉バス(株)から継承された加賀営業所が担当しています。

 
 ▲山代小学校前から島屋交差点へと

\加賀温泉駅へ入らない路線なのだ
 


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:: 温泉大聖寺線の歴史

 加賀温泉駅と大聖寺を結ぶ路線は、いわゆる“廃止8路線”として「橋立循環線」が平成20年(2008年)4月30日を最後に廃止されたことにより消滅していました。

 しかし、大聖寺のまちなかにあった加賀市民病院が加賀温泉駅前へ移転することが決まり、移転後は大聖寺地区の方々の通院が困難になることが予想されることから、両地区を結ぶバス路線の整備が望まれるようになりました。

 このため、市民病院移転にさきがけて当時の加賀温泉バス(株)による新路線「温泉大聖寺線」が誕生することとなりました。

\新幹線が呼んだ新路線だ/
 

 平成27年(2015年)3月14日に開業の日を迎えています。北陸新幹線金沢開業と同じ日です。全日9往復で、全便が加賀温泉駅〜加賀市民病院(現:かが交流プラザさくら)間での運行でした。

 かつて橋立循環線が運行していた区間の復活といえ、高台にある松が丘、白山台などから両駅へのアクセスにも便利な路線となっています。

 これらの丘陵地の団地も開町から年月を経て、家を購入したときには20〜30代だった世代の方々も高齢化しつつあり、公共交通機関の重要性は日を追うごとに高まっていたことと思料されます。

 松が丘、白山台へのバス路線復活は、温泉片山津線の復活に続いて、バス路線の必要性が再認識され、加賀市内の路線が少しずつ「8路線」廃止前の路線網へと復旧しつつあることが実感される嬉しいニュースといえたことでしょう。

\加賀市にバスの需要はある☆/
 

 松が丘団地内では以前のバス路線のルートとは異なり、松が丘四丁目は通らず「中央公園口」停留所を経由するコースとなっていますが、「松が丘二十年のあゆみ」によると、中央公園口を経由するコースは以前から町内会側が望んでいたものだった模様で、路線復活と同時に、めでたく町民の希望が叶ったといえそうです。

 以前のルートと異なる点はもう1つ、松が丘地区〜大聖寺市街地にかけ、敷地や菅生町を通らず岡町を経由するコースとなった点が挙げられますが、これは岡町停留所付近にスーパーマーケットやドラッグストアなどの商業施設が多く出店していることも要因なのではないかと想像されます。

\岡町にはバローがあるね/
 

 なお、加賀市公式サイトで公開されていた平成26年度(2014年度)第2回加賀市地域公共交通活性化・再生協議会の議事録によると、本路線は計画段階では「加賀タウンライナー」という仮称で、往路は松が丘経由、復路は菅生町、敷地経由で戻る循環バスとして構想されていた模様でした。

 
 ▲白山台にて

 平成28年(2016年)4月1日改正では加賀温泉駅前に開院した「加賀市医療センター」への乗り入れが開始され、従来の「加賀市民病院」停留所は「加賀看護学校前」に。そして平成29年(2017年)4月1日にはさらに「かが交流プラザさくら」と改称されました。

 また、この改正では利用が少なかったという時間帯の2往復分が減便され、計7往復となりましたが、そのリソースについては温泉片山津線の増便に充てられています

\どこかを増やすにはどこかを……/
 

 
 ▲工事中の北陸新幹線を背に

 平成31年(2019年)4月1日改正より、残念ながら2便減の5往復へと縮小されました。平成31年(2019年)2月23日付け北國新聞朝刊によると、本路線の1便あたりの乗車人員は平日で3人、土日祝で2人と低迷しているということです。

 令和3年(2021年)7月1日、北鉄グループの加賀地区バス会社再編に伴い、加賀温泉バス(株)は小松バス(株)と合併し「北鉄加賀バス(株)」と名称が改まりました。本路線は引き続き旧加賀温泉バス(株)の機能を継承した北鉄加賀バス(株)加賀営業所の担当となります。

 
 ▲JRの線路をくぐる

\新幹線から見えるかな?/
 


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::走行音

 

 ☆ 加賀温泉駅→塩屋 (39-982)

 [→走行音をダウンロード]

 大聖寺地区のローカル路線だった吉崎線は平成27年(2015年)3月14日よりイオン加賀の里前経由で加賀温泉駅まで延伸されました。テレビ東京の「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」では、太川さん、蛭子さん、マルシアさんが塩屋から大聖寺駅前へ降り立ったあと、加賀温泉駅まで雨のなか苦労して歩かれたのですが、いまではその区間も一本で行けるようになったわけです。

 車両は蛭子さんたちが乗ったのと同じ39-982号車。高槻市交通部からの転入車で、降車ボタンを押すと5連続でチャイムが鳴ります。途中、南町でその音をお聴きいただけます。この車両もいまは過去のものとなってしまいました。

 
 ▲元高槻市バス

 
 ▲ハイバックシートが並んでいました


 ☆ 大聖寺駅前→山代温泉東口 (81-601)

 [→走行音をダウンロード]

 加温バスのオールドタイマーだった81-601号車による山代大聖寺線の乗車音です。渋い路線には渋いバス。この当時、最古参だったUDの中型ノンステ。ボコボコボコ……と停車していてさえ存在感を示す心臓音には、現代のバスにはない、たくましさのようなものを感じます。クラッチの「プ〜ン」という音も、いまでは一種のチャームポイントと思えます。観光客とは無縁といえる大聖寺近郊を淡々と走り、山代温泉東口までの短い散歩です。

 
 ▲幸町


 ☆ 加賀温泉駅→大聖寺駅前 (84-116)

 [→走行音をダウンロード]

 平成29年(2017年)4月に収録した温泉大聖寺線の乗車音です。84-116は旧北鉄金沢中央バス(株)で自社購入されたRM中型ノンステ。日野HRのエンジンを積んだ後期モデルですが、クラッチの「プーン」という異音がUDを主張していますね。

 利用の低迷が報じられている本路線ですが、この便はベビーカー連れで乗車する若奥さんも見受けられるなど、まずまずの利用率でした。

 
 ▲もと金中バスの116号車

     


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::参考文献

 「北陸鉄道の歩み」
 「北陸鉄道五十年史」
 北陸鉄道社内報「ほくてつ」各号
 「北陸鉄道ポケット時刻表」各号
 「三木村誌」
 「塩屋町史」
 「全国バス路線便覧」昭和34年・39年版 (全国旅客自動車要覧編集室)
 「石川県合併誌 下巻」
 「加賀市地域公共交通会議」
 「全国乗合自動車総覧」昭和9年発行(鉄道省・編)

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*バス車両撮影時には、運行・通行の妨げにならないよう充分に配慮しています。
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