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あぁ栄光の手取遊園てどりゆうえん

 かつて、石川県には北陸鉄道(株)が経営する遊園地があったそうです。

 その名も「手取遊園」──。現在の「手取フィッシュランド」とはまったく別の施設で、白山市鳥越地区の上野にあったといいます。

最終修正:令和6年4月15日 (2)
 


 この「手取遊園」は石川総線沿線開発計画により鉄道線増収対策を見込んで計画されたものだそうで、「北陸鉄道の歩み」によれば昭和30年(1955年)9月15日に開園したとあります。

 この用地は昭和9年(1934年)7月11日〜12日に起きた手取川大水害の際、土壌が流出した影響によって耕作地として使用できなくなっていた通称「マキノシリ」という場所の土地を、当時の鳥越村がまとめて北鉄へ貸し出したものだったといいます。

 遊園は手取峡谷の景観を借景に5000坪(約1万6500u)の敷地を持ち、行楽客の自然探勝を深め、年齢を問わず健全な娯楽を楽しめるレクリエーションの場として賑わいを見せたそうです。

 とくに園内に設備された「観覧車」は県内初のものであり、連日盛況だったと伝え聞きます。

 昭和31年(1956年)4月1日には鉄道金名線(電車)の「上野」駅がアクセス駅として整備され、「手取遊園」と改称。昭和32年(1957年)10月30日には三角屋根の駅舎が新築され、日祝日には野町駅から50分で結ぶ急行電車が4往復も運行されたということですから、北鉄としても、かなり力を入れていたのですね。

 その後、第2遊園地分として借地を9696坪(約3万900u)に増やし、3ヵ年計画を立てて施設の拡充が図られています。

 昭和32年(1957年)には新規の遊戯機械として「アースウェイブ」が登場。昭和33年(1958年)には菖蒲池が造られ、そこには数百株の菖蒲が植えられています。

 ところが、この頃から自家用車が普及しだした影響から、電車を利用する入園者は少なくなっていき、遊園地の滞留時間も短くなっていったようです。

 鳥越村史によると、遊園地には「楽しい科学ののりもの」として、次のような遊戯設備が配置されていた模様です。

:: 子ども電車(探険号)
 スマートな電気機関車に客車3両をつないだ列車で、定員40名。子どもだけでなく大人にも喜ばれたそうです。1周220mのコースには様々な探険的な作り物が配されていたそうです。

:: 豆自動車
 いまでいうゴーカートでしょう。2人乗り10台を備え、子どもが自ら運転でき、花壇に取り巻かれた幅5mのドライブウェーは1周100mで、人気を博したといいます。

:: ムーンロケット
 お月様を模った直径7mの半球をめぐって4基のロケットが猛スピードで走るというもので、1基に8名が乗れたそうです。

:: かんらん車
 高台の上に高さ10mの観覧車が設置され、ぐるぐると回って手取峡谷の景観を一望できたそうです。この観覧車は石川県初のものだったといいます。

:: アースウェイブ
 昭和32年(1957年)に新設されたもので、直径10mの球形で、1分間に5回転するとともに、1回転につき上下4回揺れるという仕掛け。大航海時代の大汽船の気分を味わわせてくれ、この遊園地のシンボルとなったとあります。当時全国で4ヶ所にしかない珍しいものだったそうです。


 村史には、これらの乗り物に6回乗れて50円の回数券が発売されていたとありました。

 
 ▲手取遊園跡地は「バードハミング鳥越」のテニスコートになりました

 こうした「科学のりもの」だけでなく、一般の遊戯設備として、スベリ台、ブランコ、シーソー、レボル、遊動橋、ローンスイングなどがあり、運動競技設備としては大運動場も。これは直線コース70m、100mのトラック、センターポールのあるグランドで、町内会などの運動会に好適だったそうです。

 また小運動場として直線コース50m、1周70mのコースを持つグランドもあり、同様に運動会などの催し物に利用されたといいます。遊園では運動会用品などのレンタルも行っており、低料金で利用することができたとか。

 このほかテニスコート、バレーコート、展望台、円形大休憩場、小休憩場、売店なども設備されていた模様です。

 遊園の営業は毎年4月から11月までの間で、冬季は白山麓という立地もあって積雪が非常に多いため休業となっていたようですが、この冬季の4ヶ月間の休園は遊園によってマイナスの一因でもあったといいます。入園者は開園翌年である昭和31年(1956年)の113,800人がピークで、その後は少しずつ減少していました。

 「北陸鉄道の歩み」では、スケールが小さく、地域的条件も良好といえず、計画当初期待したほどの成果はあげられなかったと総括されています。また「鳥越村史」では、そうしたことに加え、昭和33年(1958年)に金沢の大和デパート屋上によく似た遊戯施設が設けられたことが、客足を遠のかせた原因であったと分析されていました。

 昭和37年(1962年)6月20日、この「手取遊園」の運営は北陸鉄道(株)や地元の「はやしや旅館」などが共同出資した「手取温泉開発(株)」という会社へ譲渡されたのち、昭和45年(1971年)3月31日をもって閉園しています。

 また、遊園譲渡後の昭和40年(1965年)頃に手取遊園駅は「手取温泉」と改称され、この駅名が金名線廃止まで続くこととなりました。

 この手取温泉は鉱泉で、「鳥越村史」によると天正年間には鳥越城主が愛用した湯治場だったといわれますが、温泉地としての開発が進んだのは昭和25年(1950年)頃からのようで、昭和28年(1953年)に「はやしや」が開業。その後「三船旅館」がそれに続き、昭和36年(1961年)には「はやしや」の一部を鳥越村が買収し、国民宿舎「城山閣じょうざんかく」としてオープンしています。

 鳥越村史には「手取遊園と一体化して一大保養リクリエーションの場ともなっていた」とありました。

 夏は白山登山の一基地、冬はスキー客の利用も見込んだものであったようですが、「続鳥越村史」には結局どの施設も経営がふるわなかったとの記述もあり、国民宿舎「城山閣」の経営は昭和43年(1968年)に鳥越村商工会へ委託されたのち、手取遊園とともに閉鎖となったそうです。

 昭和53年(1978年)12月15日、旧城山閣が鳥越村老人福祉センターとして転用され、温泉浴場がお年寄りに無料で開放されています。

 その後、昭和58年(1983年)8月12日に旧城山閣の建物は解体され、その水源を利用した「手取温泉センター」が旧村営住宅跡に完成しました。

 この温泉センターが核となり、平成4年(1992年)10月31日に温泉リゾート施設「バードハミング鳥越」がオープン。隣接するテニスコートやバーベキューコーナーについては旧手取遊園の跡地が利用されています。

 手取温泉駅は、上野の集落から「バードハミング鳥越」へ至る道路と、廃線跡に作られた手取キャニオンロードとが交差する上野交差点のすぐ南側にあったようです。現在も駅があった当時から営業していたと見られる「番場屋ストアー」の建物が残っており、駅前の風景を物語っています。

 
 ▲手取温泉駅跡。自転車で走っている人のあたりに駅舎があったようです

  


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