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  水銀コーヒー


 誰かから、水銀を蒸留するとコーヒーを作ることができると聞いたので、私は早速それを試してみようと思った。水銀は確か我が校の音楽室に貯蔵してあったはずである。それで、放課後一目散に音楽室へ走った。
 水銀があるはずの音楽準備室は、鍵が掛かっていないようだった。重そうな金属製の引戸に手をかけると、拍子抜けするような軽さですっと開いた。準備室の中は窓がなく、薄暗く陰気だった。かといって、電気を点けると先生にばれるかも知れないから、暗い中で事を成し遂げなければならない。トライアングルやカウベルといった、小型の楽器が並んでいるらしい棚を手探りでまさぐると、水銀と大きく書いたラベルの貼られた小瓶が見つかった。
 私は準備室の一角に備えられている流しで、水銀の瓶をヤカンに空け、ガスコンロにかけて火を点けた。それだけでは水銀の蒸気が辺りにただ漏れてしまうだけになるから、ヤカンの口を、ちょうど傍らの壁に掛けてあったゴム管に食わせて、もう一方は棚にあったフラスコに突っ込んだ。これで万全のはずである。しばし待つと、ゴム管の先から渋い色をした液体がどんどん涌いてきて、フラスコに溜まっていった。こうばしい香りが、部屋中に立ち昇る。私は嬉しくて堪らなかった。
 フラスコの中身を、手元にあった紙コップに移して一口飲んでみると、確かにコーヒーであった。うまい。砂糖も何も入っていないブラックコーヒーのはずだが、自然な甘みが感じられる。これは皆にも飲ませてやらなければならないと思う。私は、フラスコの中身をいくつかの紙コップに分けて、お盆に乗せて持っていった。フラスコの中に溜まったコーヒーはそんなに多くはないように見えたのだけれど、コップに移してみると意外と量があったようで、10杯近くにもなった。もっとも、最後の方はもうフラスコの中がカラなのにもかかわらず、注げば注ぐほどコーヒーの奔流が流れ出てきた。
 教室へ行くと、何の部活動か知らないけれど、放課後にもかかわらず生徒が5人ほどいて、机を寄せ合って変な毛糸玉のような物体に絵の具で色を塗りあっていた。
「あら、いいにおいね」
 毛糸玉を真っ赤に染めている女子が、我がコーヒーに気付いたと見えて、こちらを向いた。後姿はずいぶん美しく見えたが、振り向くとそうでもなかった。
「コーヒーを淹れたけど、飲む?」
 私は皆に紙コップを配った。
 老眼鏡のような古臭い眼鏡をかけた男子が、真っ先に手を伸ばして、一口すすって、ほう、と声をもらした。
「砂糖だけとは、渋いですね」
 古眼鏡君は、やはり砂糖を入れたものと思っているようだが、本当は無糖である。それで、
「砂糖は入っていないんだよ」
 と、注進した。
「あぁら、でも甘いわよ」
 茶髪の女子が、鼻にかかったような声で言った。
「甘くても砂糖は入っていないんだよ」
「じゃあ、合成甘味料かしらん?」
「いいや、全くの無糖、ブラックなんだよ」
「それじゃあ、これは普通じゃないね。何のコーヒーなの、これ」
 パイナップルのような妙な髪形をした女子が、紙コップを投げ出すように机に置いた。
「水銀を蒸留して作ったんだよ」
 私が言い終わるが早いか、皆が顔を蒼然とさせた。
「水銀から作ったとは思えないだろう」
「危なくないの?」
「水銀の毒はみんなヤカンに残るから大丈夫なんだよ。そう、大丈夫だから、うん」
 私は説明しながら、本当にそうだったのかどうだか、判らなくなってきた。ひょっとすると、やはり水銀の毒が含まれるから飲んではいけないという事だったかも知れないとも思えてくる。いや、その前に水銀からコーヒーが作れると聞いた事すらも、何だか現実だったのか夢だったのか、記憶の輪郭が曖昧に霞んできて、全身から血の気が引く気がした。
「やっぱり、水銀が残っていると思うよ?」
 ひどく小柄な、小学生みたいな男子が、女みたいな口調で言った。
「この甘みはきっと水銀の味だわ!」
 後姿だけがきれいな女子がいきなり立ちあがって、口を両手で抑えながら叫んだ。全身が、小刻みに震えている。皆もそれを合図とするかのように一斉に立ち上がって、一目散に教室を出て行った。きっと、吐きに行ったのだろうと思う。私はぞっとして、残りのコップを窓から捨ててしまった。しかし、本当に危険なのだろうか。素人考えで勝手に判断するのも迂闊なことである。私は、あとで専門家にでも訊きに行くために、最後の一杯だけ残しておいた。
 何だか気が抜けて、私は彼らの坐っていた椅子に腰掛けて、ぼうっとしていた。机の上には、水銀コーヒーの入った紙コップが放置されている。そのうちのいくつかは転がって、机の上に褐色の液体が広がっていた。妙な色に塗られた毛糸玉がそれを吸い込んで、ますます気味の悪い色に染まり始めている。
 だんだん日が薄らいできたと見えて、夕日が斜めに差し込んできた。そろそろ帰ろうかなと思う。あくびをしながら腰を上げかけると、窓の外から、救急車の音が近付いて来た。


      ―終―

 ※危険ですから、水銀を飲んだり加熱したりされないようお願い申し上げます。

   平成15年(2003年)2月14日


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