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二人の友の墓石ぼせきを前に


 同野くんの墓に参ったので、つぎは赤久保くんの墓に参ろうと思う。集落のちょうど裏の山へのぼる途中の、日のあたらない斜面にある共同墓地は、こんど新しく開通する予定の新幹線の高架がすぐ脇を通り、その白い高架は、整然と並ぶ墓石と同じ高さに橋をわたすようにしながら、ぽっかり口をあけたトンネルの坑口へと吸いこまれて行っている。子どものまま、大人になることなく死んだ同野くんと赤久保くんは、新幹線が開通して墓から見えれば、よろこぶか。それとも眠りをさまたげる騒音に、いらだつか。
 それぞれ離れたところで眠っている赤久保くんも同野くんも、十一年前、ぼくが小学生だった頃の友達だった。二人とも、小六のとき同じクラスで、そして二人とも、その同じ小六のとき、死んだ。
 同野くんは、少しお調子もので、クラスでもリーダー格の、男子からも、女子からも、好かれていた子だった。日曜日ごとに、街外れの簡易グラウンドでジュニアサッカーをしていて、そのサッカーの関係で、上級生、下級生にも幅ひろく交友があったようだったし、地域の大人からもよく顔を知られていて、秋の祭りの獅子舞のときでも、棒振りとして太刀を持つ子どもたちのリーダー格のようにして、活躍していた。集落の子どもの代表者といってもいいくらいの、人気者だった。
 同野くんが陽だとすれば、赤久保くんは陰だろう。赤久保くんは、どこか、風変わりな子だった。仲の良い子には心をひらくが、知らない子、気の合わない子に対しては、かたくなに口を結んで、しゃべらない。笑いさえしない。大人に対してもそうだった。そんなだからか、六年一組の担任からも、好かれていなかった。いや、嫌われていたといっていいかも知れない。クラスに消極的な暗い子はほかにもいたのに、不思議にも、赤久保くんにだけ、担任は、冷たいというか、なにかフィルターでもかけたような素っ気ない態度をとっていた。授業の指名でも、わざと難しい問題ばかりを、赤久保くんに与えて、こたえられないと嫌味を云った。いま思うと、それは、毛嫌いといってもよかった。赤久保くんはそれに対し、意に関せずといったふうに、口をへの字にまげたまま、黙って坐る。その黙ったままのかたくなな様子が、休み時間でも給食の時間でも、ずっとあった。
 だが、そんな赤久保くんが、ぼくと、同野くんに対しては、心をひらいてくれていた。きっとぼくらは、赤久保くんに好かれたのだろう。そしてぼくらも、赤久保くんをこのんでいた。ひとたびぼくたちを前にして口をひらけば、ポツリポツリとつぶやくような言葉に、子どもばなれした、どこか憂いを帯びたユーモアがあって、面白かった。漫才でいえば、お調子者の同野くんへのツッコミ役みたいなところもあって、二人の掛け合いは、見ていて楽しかった。
 その二人が、二人とも、小学六年で死んだ。同野くんは、赤久保くんの父親に殺害され、赤久保くんは、そのあと数日して、お母さんと一緒に来ていたデパートSの屋上から、空へ消えた。
 ぼくにとって、そのことは一種、心の傷で、まぁあとになって覚えたコトバでいえば、トラウマだった。昨日まで遊んでいた子が、病気とか、事故とかでもなく、いきなり死んだのだから、ほんとうに、それは突然の、心への打撃だった。現実ではなかったのではないかと思い込みたいところもあり、ひとたび人に語って現実と認識すれば、どこか、自分自身の人生にさえヒビが入るような気がして、ずっと口をとじてきた。いや、口どころか、心でも、あのことは考えないようにした。口で云わなくたって、心のなかでは考えているということもあるが、その、心のなかで考えていることすら、辛かった。だから、忘れてしまおう、なかったことにしてしまおうと努めてきたのだ。
 しかし――、もうあれから十一年経った。十一年経って、大人になってしまうと、ようやく、このことを現実として受けとめることができるようになったのかも知れない。「時間が解決する」とよく云うが、ほんとうにそれで、時間というものが、恐怖で凝固してしまった心の傷のまわりのかさぶたを、綺麗にこわして、かさぶたを剥せばすぐに血が出ていた傷を、血も膿もでない傷痕に、いつの間にか変えてしまっていたのだろう。
 赤久保くんの墓は、同野くんの墓のあるところよりも一段下で、階段をくだった、ほんとうに崖沿いの、藪の陰になったところにある。地面がわるいので、ぼくは足元に気をとられて、いちどその墓を行き過ぎてしまった。ぴかぴかしていた同野くんの墓とちがって、赤久保くんの墓は、古い家柄のためもあるのかも知れないが、いつ建てたのか分からない墓石は黒ずんで、角がとれて丸くなってきていた。なにが彫られているのかも、すでに磨り減って、よく分からない。いつ手向けたのか分からない花が枯れて、その残骸が風にゆらゆらと震えている。燭台が折れて、そのあたりの雑草のなかに転がっていた。見るからに、あまり、この墓へ参る人はいないように思えた。ぼくは、枯れた花の残骸を崖の下へ捨てながら、花を買ってくればよかったと後悔した。手をあわせる。
 あの頃、この二人とぼくの三人は、本当によく遊んだ。ぼくと同野くんで、赤久保くんの家に遊びにいくことも、そう少ない経験ではなかった。というよりも、何度もそんなことがあった。その日も、学校の休み時間のうちに申し合わせて、ぼくと同野くんで、赤久保くんの家へ遊びに行った。
 けれど、ぼくはその頃すでに、赤久保くんの家に遊びにいくたび、どこか異様なものを感じとっていった。まず家のなかが全体的にうすぐらく、ほこりっぽかった。玄関には、スコップだの破れた傘だの、よく分からない封筒だのが乱雑に積み上げられている。封筒類は、いま思えば、役所から届いた市民税や国民年金の督促状やなにかが、開封されないままに、そのまま積み上げられていたのではないかと思う。
 家のまわりに、車が停まっていないのも変だった。この地方都市では、どの家にも一台は車があって、玄関先や、ガレージに、最低一台は、大切におさまっているものだった。ぼくの家もそうだった。ぼくのどの友人の家も、やはりそうだった。赤久保くんの家だけがそうではなくて、家の前に、いかにも車をとめておけそうな敷地があるのに、そこは草がぼうぼうに生えて、割れた植木鉢だの、壊れた三輪車だの、得体の知れない錆びた棚のようなものだの、ガラクタが打ち捨てられているだけなのだった。
 そしてそれ以上に異様に思えたのは、玄関から上がらせてもらい、遊び部屋になっている部屋に行くには、途中、居間を通るようになっていたのだが、その居間にはいつも、赤久保くんの父親らしい中年の人が、冬ならコタツに入ったまま、夏ならパンツ一丁になって、いびきをかいて寝ている。土日に遊びにいっても、平日、学校が終わってから遊びにいっても、必ずここで、父親と思われる人物は、だらしなくよだれを垂らして寝ていた。夏休みや冬休みのときで、平日の昼間に遊びに行っても同じように寝ていた。赤久保くんの父親は、働いていないのではないかと思えた。
 トイレを借りると、異臭の漂うそこは、常にべとべとで、洋便器の便座は黄ばんでおり、タイルの床には小便がこぼれていた。古くなったビーチサンダルを、スリッパのかわりに用意してあるのも異様だった。そのサンダルを履くと、足裏にべっとりした感触がある。ぼくは、赤久保くんの家へきたときは、できるだけ、トイレには行かないようにしていた。
 夕方、日が暮れかかるころまで三人で遊んで、そろそろ帰らないといけない時間になる。もっと遊んでいたいが、日が落ちたあと帰れば親に怒られるし、赤久保くんの家族の迷惑にもなる。後ろ髪をひかれる思いで、玄関先で「ありがとうございました」と云って帰る。いつものように、赤久保くんは、居間のふすまから顔を出して、見送ってくれた。しかし、その日は、自転車にまたがってしばらく走らせてから、自分が帽子をかぶっていないのに気付いたのだった。その頃ぼくは、どこに出かけるにも、あるテーマパークで買ってもらったキャップ帽をかぶっていた。そのキャップが、来るときには確かにかぶってきたのに、いま頭にない。赤久保くんの家に忘れてきたに違いなかった。ぼくは赤久保くんの家へあわてて引きかえした。
 玄関の引き戸をあけて、すいませーん、と呼びかける。無言だった。また、すいませーん。しかし無言。少し間をあけて、やや大きめの声で、すみませーん。だが、無言だった。おかしいなと思いつつも、引き返すこともできずに、しばらくそのまま立っていると、
「なんだよ!」
 と赤久保くんが不機嫌そうにふすまを開けた。なぜそんな強い口調がでてきたのか、その態度に、ちょっと驚きつつも、
「帽子忘れてない?」
 と訊くと、すぐに引っ込んで、かと思うと三秒程度で戻ってきて、ない。と断言する。そんなはずはない。探すから上がっていいかと訊くと、赤久保くんは不機嫌を絵に描いたような顔で、もう帰れよと云う。しかし、そういうわけにはいかない。たいせつな帽子なのだった。それに、帽子を忘れたことは、親にも問われるだろう。
「探させてよ」
「ダメだ。帰れって!」
「どうしてさ」
「ダメだ。帰れってぇ!」
 赤久保くんは、最後にはすがるようにして、ぼくの肩を押し返すのだった。ぼくを一刻もはやく出ていって欲しい、そういう必死さを感じた。何なのだろう、ついさっきまで、あんなに一緒にさわいでいたのに。
 自転車にまたがって、赤久保くんの家に背をむけて、五十メートルも走ったところだっただろうか、家のなかから、あの父親の声らしい、物凄く大きな怒鳴り声がきこえてきた。罵声だった。これはきっと赤久保くんの、ぼくに対する理不尽な仕打ちに対して叱っているものと、そのときは思った。が、あとで知ったことによると、実際にはちがっていたようだ。
 赤久保くんの父親は、本当に、困った人間だったようだ。
 赤久保くんの告別式が終わったあとのことだが、赤久保くんのお母さんから、たくさんの話をきいた。赤久保くんの父親のこと、その父親が、日夜、自分や、赤久保くんをくるしめていたこと。子どもであるぼくに対して、そこまで話すかと思えるようなことを、気付けば二時間、いや三時間近くにもわたって、泣きじゃくりながら、話しつづけた。ぼくも、泣くしかなかった。その話の内容への恐怖とともに、赤久保くんのお母さんの様子にも、すこし恐怖をおぼえた。赤久保くんのお母さんは、そのときすでに、心をどこか病んでいたのだろう。おそらくそうだと思う。そうでもなければ、子どもであるぼくに、こんな深刻な、ある意味では隠しておくべきでもあるような大事なことを、あらいざらい、打ち明けることもなかっただろう。そうだ、赤久保くんのお母さんは、ぼくにすべてを話すことで、心のなかでぐちゃぐちゃにこんがらがって、めちゃめちゃな方向へ好き勝手に電波を送っている心の回線に整理をつけて、心の平静を取り戻したかったのではなかったか。しかし、赤久保くんのお母さんは、それで気持ちの整理をつけられたのかも知れないが、ぼくの心には、大きな釘を打たれることになった。
 赤久保くんのお母さんの話によると、赤久保くんの父親なる人間は、元々は、この街の中心市街地を走る路面電車の運転士をしていたそうだった。しかし、ある朝に、通勤・通学の人で満員の電車を運転中、急な下り坂の続く彦左衛門町〜東公園前間において、老朽化した電車のブレーキが突然効かなくなり、脱線、転覆。乗客のうち女子高生二名が、たくさんの乗客の下になって死亡し、多数の学生が重傷を負った。この事故はぼくが七歳のときに起こっている。当時、テレビでも全国ニュースになったから、子ども心にも、衝撃的だったし、その事故の当座、しばらくの間は、電車に乗るのが少し怖く感じるようにもなった。
 大学生になってから、図書館に行ってしらべた当時の新聞の記事では、重傷の負傷者は、いずれも命に別状はないと書かれてあった。が、記事にはそう書かれていたが、その実といえば、たしかに命に別状はないといえど、身体の一部に生涯完治することのない欠損を負ってしまった人も多数いたのだそうだ。実は赤久保くんの父親自身もその一人で、運転台に挟まれたことにより、左足首より先と、左手の指三本を失い、さらに右膝は九十度以上曲がらなくなったという。
 赤久保くんの父親は、この件で会社を辞め、幡田町のショッピングセンターで駐車場の監視員をしていたが、捨て鉢な勤務態度で、客と喧嘩。そのときは譴責で済んだものの、すぐにまた別の客と喧嘩。さらに上司批判。すぐに辞めさせられて、ぶらぶらと、雇用保険目当てのハローワーク通いで、一ヶ月に一度、指導係の職員の話をきいては、それを就職活動という名目にして、月に十万なにがしかの給付を受け取り、生活のたしとしていたそうだ。
 考えれば、事故の後遺症による回復できない損傷によって、赤久保くんの父親は、車が運転できなくなったのかも知れない。たしかなことは分からないが、玄関先に車が見えなかったのは、このせいだったのではないだろうか。そして、この地方都市では、車を運転できない人は、それだけで、就職に影響する。ぼくも就活をして分かったことなのだが、求人票にも、エントリーシートにも、この街の企業のほとんどが、備考欄に、要普通免許と書いている。もし書いてなくても、面接に行けば、入社後に取得してもらいますというところがほとんどだった。はっきりいって、絶対的といっていいほど、要普通免許だった。免許を持たない友人のひとりは、面接先で、普通免許を持っていないなんて、この街では障害者と一緒ですよと真顔で云われて、ひどく立腹したそうだ。
 赤久保くんの父親も、そんな状況にいらだち、酒におぼれたか。日の暮れた頃から、毎日のように酔っては、自分の好きなように暴れていたという。
 そういえば、赤久保くんの家に遊びにいったとき、いつもそうだったのを思い出すのだが、赤久保くんは、そろそろという時間になってくると、しきりと、時計を見たり、きょうの夕はんは何かなと云ったり、もう六時かと云ったりして、言外で、ぼくらに対して、そろそろの帰宅を促がしてくるようなところがあった。そろそろ帰ってほしい、あの魔物が起き出す前に、という意味があったのかも知れない。それで、あの日も、帽子を取りに戻ったとき、赤久保くんは、もう魔物が起きていることに焦り、必死といっていいほど、ぼくを追い返そうとしたのだろう。
 この日の夜におきた理不尽な騒動のことも、そのあと話の続きで赤久保くんのお母さんにきいたことだった。赤久保くんのお母さんの云っていたことを信ずるとすれば、こうだ。
 赤久保くんの父親は、その夜も、長い昼寝から起きだして、十八時頃に、風呂に入ったあと、
「酒!」
 と短く怒鳴りながら、冬のコタツから布団を取り去っただけのちゃぶ台のわきに、曲がらない膝のために、立膝でどっかと坐ると、赤久保くんのお母さんがビールを運んでくるのを、いらだたしげに待つのだった。赤久保くんのお母さんが、栓抜きで王冠を抜く。そして、自分は坐ったまま、赤久保くんのお母さんに酌をさせた。そうしながら、
「つまみは!」
 ちゃぶ台をドンと叩く。栓抜きと、抜いた王冠がはじかれて飛んだ。
「さきにつまみを持ってくるものだろう、」
 大声で怒鳴り散らす。前のときには、そうしたところ、ノドがかわいているのに、先につまみなんて喰えるかと激昂した、そのときの記憶が、赤久保くんのお母さんにはあった。
 それでも赤久保くんのお母さんは、どうしたら良いのかと怒ることはなかった。黙ったまま、従う。逆らう才覚が、自分にはなかったとお母さんは自嘲していた。
 で、赤久保くんのお母さんは、皿の上に、ちくわを磯辺揚げにでもするときみたいに、開いて切ったものに、わさびを添えて盛ってきた。刺身が買えなかったために、刺身のかわりに、工夫して考えてきた、心からの代用品なのだった。しかし、
「なんだ、これ?」
 赤久保くんの父親は、箸でそれを摘みあげて、ぷらぷらと見透かすようにしてから、ぽとんと皿へ落とすのだった。
「こんな下らんもんが喰えるかいや!」
 この大声は、赤久保くんの部屋にも、まるでそこに父親がいるかのように響いただろう。自転車に乗って帰るぼくの耳にとどいたのも、この怒号だったか。
「アキラはおるか、勉強見てやる。」
「あんたやめて、乱暴はやめて!」
「やかましい、勉強を見てやるんやと云うとるやろ」
 その大声が響くなかで、赤久保くんは、きっと、勉強机の下に縮こまるようにして、ふるえていただろう。ふるえながらも、このとき決心していたのかも知れない。あのとき買った包丁は、たぶん、このときも机の二番目の引きだしに入れてあった。いざというときには、これを使うしかない。
 あれは、ぼくと二人っきりで、文房具やなにかを揃えに、100円ショップへ行ったときのことだ。二人で鉛筆やボールペンのコーナーを見ていたのに、いつの間にか赤久保くんの姿が見えなくなったと思ったら、なぜか台所用品のところにいて、包丁を、手に取っていた。こんなものどうするのかと訊くと、護身用に、と云う。
 護身用って、誰から身を護るんだ?
 と訊くと、不審者とか、それに、中学生にカツアゲされるかもしれない。子どもはね、人を殺したって、死刑になんてならないんだよ。
 包丁なんて、子どもには売ってくれないはずだ。ぼくは以前、街の文具店でナイフを求めようとしたとき、子どもには早い、なにに使うのか、と云われて、店主からかたくなに拒ばまれたのを思い出した。しかし、赤久保くんは、包丁とともに、玉じゃくしを一緒にして、レジへ出した。なんと、それらは何の問題もなく、買えた。ぼくはそのとき、少しだけ、赤久保くんがおそろしくなった。物静かな赤久保くんを怒らせたら、包丁の先が、ぼくに向くんじゃないかと思うと、お尻がすうっと、つめたくなった。
 いま思うと、包丁を買ったとき、ぼくが見た赤久保くんの顔は、決意というか、信念にみちた真剣な目つきがあった気もする。この夜のことは、むろん、この目で見てきたわけではないので、半分、想像も入っているのである。赤久保くんがそのとき、実際に包丁を父親に向けたのかどうか、本当のところは分からない。お母さんは、ここについて話をしなかったからだ。しかし、息子がここで包丁を出していたとすれば、それは、母親にとっても、非常にショックなことだっただろう。赤久保くんとお母さんと、赤久保くんの父親という家族のなかに、たくさんの、信じられないような出来事が無数にあって、それを洗いざらい話したい衝動にかられていたとしても、赤久保くんのお母さんにしてみれば、このことだけは、できれば、話したくない、嘘だと思いたいようなことだったのかも知れない。そう、いってみれば、赤久保くんが自殺してしまったことよりすらも、お母さんにとっては、ショックなことだったのかも知れなかった。
 赤久保くんのお母さんが詳細を語らなかったので、父親が赤久保くんの部屋に乗り込んで行ったそのとき、赤久保くんは、狂乱状態のままにおそいかかる父親を包丁で追い払ったのか、それができずに、父親の暴力に甘んずるに終わったのか、それが不詳だ。だが、ぼくは確信をもって想像するのだが、おそらくこのとき父親は、子が、自分を殺そうとしていると察知するに至っている。そのなにかがあったことは事実だろう。そうでもなければ、ある意味、事故ともいえる同野くんの殺害が起こる原因だってなかったと思えるからだ。
 この当日から、同野君が殺害される日までのことも、やはりお母さんの長い長い話のなかでは、語られなかったことだ。しかし、実際にはこの間、赤久保くんは、ずっと学校を休んだ。まさにその日の翌日から、学校に来なくなったのだ。はじめは、風邪ということだったが、そのわりには、同野くんと二人で遊びにいったとき元気だったのが不思議だった。風邪での休みは三日続いたが、そのあとは三日間、オナカの具合が悪いのでということで欠席した。単なる腹痛でそんなに長く休まないし、重い胃腸病であれば、入院しなければならないはずなのに、そうしたともきかない。本当にそうなのか、変に思えた。だが、担任は無関心といっていいほど、そのことをどうとも捉えていないようだった。赤久保はまた休みか。というくらいのものだった。ぼくと同野くん以外の児童も、おおむねそのような反応だったように思う。
 この数日間について、なぜ、お母さんが話さなかったのかは分からないが、その前後の衝撃にくらべれば、平静な日々であったのだろうか、それとも、これまたあまりにも凄惨ななにかか、隠すべきような内容のなにかが起きていて、このときの赤久保くんのお母さんでも、さすがに子どもに対して話すに及べなかったのか。それは分からない。
 赤久保くんが不登校といえる状態になって、やがて一週間が経過した。その頃になると、プリント類やテスト用紙などもたまってくる。それで、たまったプリントを放課後に赤久保くんの家に届ける必要がでてきて、担任から、その役目をぼくと同野くんの二人にまかされた。担任にしてみれば、赤久保くんと仲の良い二人がいけば、赤久保くんも、少しは元気が戻るだろうという配慮があったのか、あるいは自分が家庭訪問をしたくなかっただけなのか、そのあたりは分からない。しかし、二人でそのようにして赤久保くんの家を訪れるものの、赤久保くん本人が玄関に出てくることはなく、玄関先で、お母さんにプリントをことづけて帰るだけに終わる日が続いた。
 運命の日も、そのようにして、ぼくと同野君に、担任教師の手から、赤久保くんへのプリントが託された。しかし、その日、本当に偶然というしかないのだが、ぼくがそのころ属していた掲示委員会のしごとがあって、放課後、学校に残らねばならないことになった。
 いま思えば、そんなことはほったらかして、ぼくも行けば良かった。しかしそのときぼくには、どうせ赤久保くんの家へ足をはこんでも、赤久保くんは顔を見せてくれないだろうという落胆、失望、そのことでの拗ねた気持ちによるものなのか、ぼくは行けないが、行かなくても充分だろう、同野くんに任せるよ、というような思いも、いま振り返ってみると、あったような気がする。いや、それとも本当に、掲示委員の役目が大事で、これはサボれない、友情よりもそっちのが大切だという思いもあったものか。いまではもう思い出せない。それくらい、意図的に、すべてを忘れようとして、忘れたつもりで生きてきたので、いまになって、当時の心境を思い出そうといっても、難しいのである。
 同野くんはそれで、一人でプリント類を持って、赤久保くんの家を訪ねたのだった。そしてそこで、赤久保くんの父親に殺害されている。
 その日、同野くんがどうやって死んでいったのか、これも赤久保くんのお母さんは話してくれた。いや、話してくれたというのは変だ。話を強制的にきかされた。ききたくはなかったのだ。しかし、赤久保くんの母親は、泣きじゃくりながら、ぼくを見すえて、話を続けた。
 この内容については、お母さん自身も、そのときじつは、赤久保くん自身と買い物に出かけていて留守だったので、あとになって所轄の刑事から聞かされた内容だと云っていたから、つまり、これは又聞きということになる。だから、この日起きたそのままの光景を、見てきたようにあらわすことはできないが、赤久保くんのお母さんが云うには、こうだった。
 その頃すでに、子が自分を殺そうとしているらしいと錯覚していた父親は、殺される前に、自分が子を殺してしまおうと考えてしまったらしい。それで、意を決して、昼間から大酒をあおり、台所にあった包丁を片手に、赤久保くんの部屋を開けてみたが、赤久保くんはお母さんと買い物に出かけていたため、不在。それを父親は、どうやら子は学校に行ったらしいと思い込み、ならばと玄関のドアの内側で、一升瓶を脇において数分おきにあおりながら、包丁を握り締め、子の帰ってくるのを待ち構えていた。そこへ間も悪く、同じような背格好にランドセルを背負った同野くんが家を訪ねてしまった。鍵もかけていない玄関の引き戸を、いつものように簡単にあけた。そこへ父親は、おそらくは全くの狂乱状態になりながら、包丁を両手に握って突進し、同野くんに体当たりした格好になった。同野くんは、凶刃でお腹をえぐられながら、そのまま父親に押し倒されるかっこうになり、その過重のために、刃は腹部深くのたいせつな臓器を貫通。眼もとじられぬまま、血の海のなかで、事きれたという。
 さきほどもぼくは云ったが、赤久保くんのお母さんは触れなかったものの、この父親の、子が自分を殺そうとしているなどという妄想は、たぶん、あの夜か、またはそのあとのいつかに、赤久保くんが父親に向けて、あのとき100円ショップで買った包丁をつき付けることがあったために違いないのだった。それに、父親のアルコール依存による錯乱状態もかさなって、異常な精神状態が形成されてしまったのだろう。なにしろ父親は、すでに、自分の息子と、ほかの家の子どもの区別もつかないほどになっていたことになる。
 赤久保くんがデパートSの屋上から自ら短い命をすてたのは、同野くんの告別式が終わって、五日ほど経ってからだった。父親が大変な事件をおかしてしまったことへのショックをなぐさめるために、連れてきていたデパートの屋上遊園地で、お母さんが売店のソフトクリームを求めている数分間での出来事だった。遺書はなかった。父親が親友を殺害してしまったことへのショックによる衝動的な自殺とされた。
 同野くんの初七日を待たずして、新たにクラスへ届いた訃報に、クラスはどよめいた。その日の朝の会で、担任の教師は、ぼくたちに向かって顔を向けたまま、声も出さずに泣きつづけた。さすがに、あれだけきらっていた赤久保くんであっても、死んだことに対して、哀しみをみせているのだなと、なぜか妙に冷静に、ぼくは思っていた。教師は泣きながらも、ひとことも言葉を発しないことで、心痛な哀しみというか、怒りに近い感情を、そのときのぼくは感じた。みんな泣いていた。ぼくも泣いていた。最後に教師は一言云った。この街が信じられない、と。
 二学期から、ぼくたちのクラス担任は、市の教育委員会からきたという、別の年輩の教師に変わった。いま思うと、担任にある意味、なんらかの責任が問われて、外へ出されてしまったのかも知れない。あのときの担任の涙は、それを想像しての怒りに近い悲しみだったのかも知れなかったが、まぁそれは、考えすぎというものだろう。
 あとで聞いたが、代わっていった担任は、じつは例の路面電車の事故で、妹を失っていたそうだ。赤久保くんにつめたかったのも、事故電車の運転士だった男の息子であったからなのかもと想像できたが、それもまた、ぼくの考えすぎだろう。
 このことと、二人の同級生の死とは、無論、関係ないことである。だが、この街が信じられなくなったとつぶやきながら、うらめしそうに泣いていた教師の顔が、いま妙に鮮明だ。
 あのとき、事故の起きた路面電車は、同野くんと赤久保くんが死んだその年の十月に、全て廃止された。乗客離れによる不採算で、設備の維持ができない状態に陥っていた。そのために極度に進行した老朽化により、事故を惹起させ、その後も安全性を確立することができず、終わったのだった。いまは電車にかわって、路線バスが市内を走っている。ぼくはじつは、そのバスの会社に、四月から勤めることになった。だが、そのことをぼくは、同野くんの墓前に報告できていない。赤久保くんの墓にも、むろん、報告はできないだろう。



*この小説は全てフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。

   平成25年(2013年)6月24日


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