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 連れ子の遺影に


 遺影のなかできみは、学生服を着て、少しはにかんだようにわらっている。小さな顔に不釣合いな大人用の眼鏡は、元気な頃いつもそうだったように、少しずれて、鼻にかかって写っていた。女子みたいだと友達にわらわれていた細い髪の毛に、つやが輪をつくっている。その髪のおもかげは、現実にある目の前の、冷えた枕の上にのぞく、乾燥しきったきみの頭髪にもまだ残っていた。
 白い布をはらうと、そこに、眼鏡をかけていないきみの顔があった。死化粧をほどこされたその顔は、蝋細工のようにつくりものめいていたが、ほんのわずか唇をひらいていて、眠っているときのきみの顔そのものだった。頬にふれる。つめたく凍っているのかと錯覚された。しかしその凍てついているかのような頬は、かさつきながらも、手のひらに、たしかに人の肉体であったがゆえのやわらかさを伝えてきた。私は布をもどした。
 私がきみの父親となったとき、きみは十一歳だった。
 私が知り合った年上の女性に、前の夫との子がいることは、はじめから知っていた。というよりも、薄幸な離婚をしたあと、残った幼い息子を一人健気に育てているという女性に惹かれた面もあったのだった。その女性と結婚するということは、その一人息子の父親となるということである。そのことも、はじめからわかっていた。
 ちゃんと父親として懐いてくれるか、いや、懐くという言葉はちがうか。慕ってくれるか。それはたしかに、一抹の不安でもあった。けれど、その女性の子であれば、きっと、母親に似て、素直で思慮深い、聡明な子だろうという幻想をいだいてもいた。
 きみにはじめて会ったのは、私がきみの父になる一年半ほど前。金沢アクアリゾートのプールでだった。どうせ対面するなら、たのしいところでしましょうよと、妻――きみのお母さんは云ったのだった。きみと、きみのお母さんが来るのを、私は、流水プールのなかで緊張しながら待っていた。きみの顔は、前々から見せてもらっていた写真の通りだった。きみのお母さんと、よく似ていると思った。
 きみははじめ、母親に寄りつく虫に対するような、警戒した表情をみせていたけれど、きみのお母さんが私に目配せしながらトイレに立ったあと、つかのま二人きりになったときに、きみは私が買ってきたアイスクリームを美味しそうに喰べて、照れくさそうに笑った。プールから上がったあと、ゲームコーナーで対戦した。私のことを、トモにいちゃんと呼んでくれた。それだけのことで、この子は、きっと、自然と私の子になってくれるだろうと確信していた。浅はかだったと思う。若かったのだ。
 一年半して、きみのお母さんは、私の妻になった。そしてきみは、私の長子となった。
 結婚披露宴では、私と妻のケーキ入刀を、誰よりも熱心に、使い捨てカメラでうつしてくれた。そのあとの夏、私と妻と、きみの三人で行った旅行では、本当の父親であるかのように私を錯覚させるほど、きみは懐いて、道中で乗ったタクシーの運転手が、ボクはお父さん好きなんだね、と話しかけていたほどだった。それを聞いて、私は、うれしかった。
 この旅行のことを書いた夏休みの作文が、学校で賞をとった。きみが眠ったあと、私が酒盃を傾けているところに、妻がうれしそうに原稿用紙を持ってきた。大人びた筆致で書かれたそれを、私は読んだ。しかし、その作文の書き出しは「夏休み、お母さんと旅行に行った」となっていて、私のことには、ふれていなかった。そういえば、私のことを呼ぶときも、あいかわらず、トモにいちゃんのままだった。父と呼んでくれと頼んだわけではないが、私は、きみから父親としての合格を貰えていないのだろうかと思った。
 きみと私が不仲になっていったのは、さて、いつの頃か。そういえば、さかのぼれば、妻と三人で、ダイニングのテレビをけして、きみのお母さんと結婚したい、きみの父になりたい、と告げたとき、きみは私に最初の反発をした。兄であってほしいと云った。そして、なおも私と妻が折れず、その意思が確固たるものだと察知すると、こんどは、わかった結婚してもいい、けれど子はつくらないで欲しい、そう云った。その真意がどこにあるのかは、私にはわからなかった。妻にもわからなかった。小学生の子の、気まぐれの主張のようにも感じてしまったのだ。子はつくらないで欲しいといっても、いざ子が生まれてくれば、きっとかわいがってくれると思った。
 妻の腹が大きくなって、病院に入ると、私ときみは、家に二人きりになった。しかしきみは、そのころにはすでに、それまでほとんど眠るときくらいにしか入らなかった自分の部屋にこもってしまいがちになった。私にも笑顔は見せてくれなくなった。トモにいちゃんトモにいちゃんと、懐いていたきみの姿は、なんだったのだろうかと、私はいらだった。自分は何かしたのだろうか。いや、何もしていないはずだ。何もしていないにしても、きみは、きっと私の気付かない何かに立腹して、私をきらうようになったのだろう。それが何か。わからないままに、ただ仲直りをさせてほしくて、買ってきたゲームソフト、ケーキ、本。しかしそれらは、みんな居間のテーブルのうえに、そのまま置いてあった。
 子が生まれたあと、妻が、子を抱いて退院してきた。その直後は、私にとって初めての赤子だということもあり、妻をサポートしての子育てにもかまけて、素直に云えば、きみのことをまったくといっていいほど構わないでいた。忘れていたというしかない。構っても、構っても、手応えがないことに失望してもいたのかも知れない。それは、反省している。
 歳の離れたきょうだいができたとき、幼子は、自分だけに注がれていた愛情が弟や妹にそれることに嫉妬をおぼえる、という話はきいたことがあった。しかし、実際にはそれほどのことはないだろう、ましてや、きみは幼子ではない。もう小学校も最高学年になる男の子なのだから。そう信じていた。いや、信じようとしたのかも知れない。
 実際のきみは、やはり嫉妬していたのだろうか。それとも、もっと別のところに不満があったのだろうか。子をつくらないで欲しいという希望を裏切ったから、立腹していたのだろうか。いまとなってはわからない。きみは、子をあやすこともないどころか、子に眼をむけることすら、しようとしなかった。子が泣き出したら、いかにも迷惑そうな顔でそっぽを向いて、テレビの音量を大きくしていた。その音に、子がまた泣く。そんな様子を見ていてさえ、私も妻も、子が言葉をしゃべれるようになったら、きっと仲良しになって、いっしょに遊んでやって、泣くことがあればなぐさめるような、本当の兄弟みたくなっていくはずだ、と、楽観的に考えていた。考えざるを得ないのだった。幼子の世話だけに気をとられ、もうじき中学へ行くきみのことを、子どもあつかいする暇はなかった。
 子の排便の匂いが家に充満する日も多かった。そのたび、きみは、顔をしかめて気難しそうに部屋へ去った。子がおもちゃにして舐めるのを見るたびに、テレビのリモコンもさわらなくなっていった。きみは、明らかに、子をきらっていた。
 きみだって、赤ちゃんの頃、こうしてうんちをもらしていたんじゃないのか。おしっこもしていたんじゃないのか。おれだってそうだ。そうしてみんな育ってきたのだ。そう叱っても、自分はそうじゃない。証拠はあるのか。トモにいちゃんは、ぼくの子どもの頃をその目で見たのか、と云ってきかない。瞳に涙をためていた。その涙がきみの眼鏡のレンズに落ちて、レンズ越しの瞳は、ゆらゆらと震えて見えた。きっとあれは、反省の涙ではなかっただろう。ましてや、恐怖の涙でもない。くやし涙にちがいなかった。
 教えてくれないか。きみは、子がいやだったのか。私がいやだったのか。
 わずかに開いたままの唇に、生気はない。あるはずもない。二度と開かない土いろの唇に、私は指をおしあてた。
 きっと反抗期だとわらう妻が、すくいだった。はやい反抗期は、かしこい証拠だと妻は云った。では、そのかしこさは、おまえからもらったものなのか? それとも、前の旦那からのものなのか?
 きみはいやに神経質で、ひまさえあれば眼鏡を拭いていた。私の脱いだ靴さえも揃えていた。皿の置き方が気に入らないと並びかえていた。本棚に一巻から順に揃っていないとひどく機嫌が悪かった。妻にそうした性格はない。前の男からもらったものに違いないと思うしかなかった。
 前の旦那は、どんな性格の人間だったのか。たとえ妻に対しても、そんなことは、やすやすとは訊けない。よほど、昔のことの話題にでもなったとき、ことのついでを装って、話題をそちらに向けるようにして聞き出すしかないだろうと思っていたが、そのような局面を得られることもなく、ひとりでに押し出されるようにして、日々は、流れて行った。
 少女のような風貌から、冷やかされ、それがいじめらしきものに進展しはじめたのは、きみが中一の秋頃だった。いじめなのか、と訊いた私には無言を通し、妻にだけ、なにか色々話していた。私は、すでにきらわれていたのだった。きらうのなら、良い。あえて話すこともなかろう。私自身がきみの年まわりの頃、親がとやかく口出ししてくるのが、ひどく不愉快だった。そのときの気持ちは理解できるのだった。私はそのうち、食事のときにすら、言葉をかけないようになった。
 葬儀会社の人は、二人組みだった。いずれも若い女性だ。きみの顔にかけていた布を両手で丁重にはらうと、静かに合掌し、掛け布団もはらい、白地の浴衣のようなものを着てねむっているきみの身体を、横にしたり、腕をとったりしながら、何というのか知らないが、やはり純白の装束に着替えさせている。これが、死に装束というものなのだろう。
 節くれた細いつま先が、裾からのぞいてぴんと伸びている。この薄い足で、どんどんと床を踏み鳴らして、きみはよく怒っていた。妻が困ったように笑って、床がこわれるこわれると云うと、はなをすすりながら、きみは部屋へ去って行くのだった。
 ふいに、後方の障子の向こうから、幼子のキャッキャッという笑い声が聞こえ始めた。子は妻の姉――子にとっては叔母となる――にあそんでもらって、機嫌を良くしているようだった。私は、ふいにほっとする思いがして、少し頬がゆるんだのを自覚した。いつしか張りつめていた緊張が、その笑い声で解ける気がした。が、すぐにまた顔を引き締める。うしろに坐っている妻の母親が、ひどく嗚咽しているのが聞こえる。私の横では、妻がときおり目がしらを押さえながらも、しっかりした眼差しで、気丈に見とっていた。
 二人の女性の手つきは非常に手慣れていた。何年か前に公開されて話題になった、こうした職業の方を描いた映画を私は観ていないが、おそらく劇中でも、このような技が紹介されていたのだろうかと、私はそんなことを考えていた。死に装束をととのえ終わったあとで、女性の一人が、きみの小さな手のひらを合掌させて、数珠をはめさせた。きみの細い指さきに見える白い爪が、まるでつくりものみたいだった。
 二人の女性は、きらきらと光沢のある白い布のようなものできみの身体をつつんでいる。布につつまれたきみの身体は、思ったよりも、ほんの小さく感じられた。用意されていた棺もまた、子の身長にあわせてのものか、想像よりも小さいものだった。うしろのほうで、私の叔母が、あら可愛らしいちんちくりんな、と他人事めいた感想をもらしている。その声に、義母がまた声をあげて泣き始めた。
 そのとき、子のキャッキャッという笑い声がまた聞こえた。後方の部屋の障子の向こうから届く笑い声に、舌足らずな言葉がまじっている。ニイチャン、ニイチャン……と。きこえた気がした。ニイチャン、ニイチャン……。たしかにきこえる。子は、まだこの言葉は覚えていなかったはずだが。
 にいちゃんの服をかえてるんだよ、マモルちゃん、にいちゃん最後に、立派な服を着せてもらってるんだよ、マモルちゃん。
 妻の姉のそうした声がきこえて、私の横で、妻は急にくずれるようにうずくまって、声をあげて泣いた。号泣した。きみの名前を呼びながら、まるで子どもみたく泣き声をあげて、きみの名前を繰り返して、なんで死んだのと訴えた。そのさまは、親戚一同の涙をさそった。
 私も、そこではじめて、かわいていたハンカチを眼じりに当てた。
 やっと――、普通の家庭になるのだろう。私と妻、その息子マモル。三人で仲良く暮して行けばいい。私は別れの涙を拭いた。きみの小さな身体が、二人の女性にかかえられて、小さな棺のなかに横たえられる。
 子は、なにが楽しいのか、ニイチャン、ニーイチャンと、覚えたばかりの言葉を繰り返している。おそらくは、あのヒトデみたいに小さい手を振って笑っているのだろう。兄は死んでいるというのに、おそらくは笑っている。すすり泣く声のあちこちで聞こえる座敷のすぐ隣の部屋で、何がうれしいのか、キャッキャッと笑っている声が、しきりにきこえる。私に似て、冷たい男に育つのかも知れなかった。



 *この小説はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。

   平成25年(2013年)5月18日


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