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023
 
 浜風の思い出


 列車は始発の大阪駅を出ると、すぐに鉄橋にさしかかる。車掌の案内はそれで途切れた。鉄骨の檻のなかを轟音とともに進む。列車のたてる重々しい響きは、わざとそうしているかのような、大仰なものを感じさせた。
 私の乗っている車両に、ほかの乗客はいない。無人のシートの背にかかる白いカバーが、整然とならんでいるだけだ。鉄橋を渡りおえると、案内放送が再開した。列車はふたたび地響きをたてながら心臓音をたかめはじめる。窓の外を、淡い煙がただよった。
 線路は複々線だった。となりの線路を、ディタイムでもなお満員の新快速がじりじりと迫り、私の特急を追い抜かしてゆく。その列車の窓のなかの、つり革につかまっている客のひとりと目があった。油煙をまとう旧式の列車のたった独りの乗客を、さてどのように見ているか。そう思うと不意に可笑しくなった。
 列車は山陰へと向かう特急である。山ごえをする支線へと分岐する姫路までは、山陽線をはしる。けれど大阪駅の時点では、ほとんどいつも客はいない。山陰へいそぐ客のためには、別の新しい線を通る特急がある。神戸、姫路へいそぐ客は、新幹線に乗る。そして近、中距離の客は、古びた特急などよりはやい新快速に乗るのだ。
 尼崎を通過した。家屋や小工場が密集するなかをはしり抜ける。新快速で通ると、ごみごみした雑踏というしかない車窓も、誰もいないこの空間の大きな窓から眺めると、ふしぎと違ったけしきに見える。外に生活の猥雑があろうと、列車内はあくまでしずかだった。力走をつたえるエンジン音だけが、そのときまでの唯一の音だった。
「おじさん、」
 声がきこえた。子どもの声だ。
「ねぇ、おじさん、」
 もう一度おなじようによびかけられる。よばれたのは、やはり私か。声のしたほうを見ると、いつの間に坐ったのか、通路をはさんだ隣のシートに、少年がいた。
 私は緩慢にうなづいた。おじさん、か。だんだん、その呼び名が実感を伴ってきた。実の甥っ子というのも持っていないし、呼ばれ慣れはしていないのだが、しかし30代も半ばになって、お兄さんもさすがになかろう。
 少年は笑みをうかべていた。利口そうな顔つきに見えた。小学生か、中学生か。少し声がわりしかけていた。
「おじさんは、なんでこの電車に乗ってるの?」
「ん……?」
 この列車に乗っている理由は、子どもの戯れにもひとしい理由だ。背広を着込んでいる出でたちにそぐわない。
「用事だよ。仕事だ」
「ふぅん」
 少年はそれ以上はきかなかった。ジーンズを穿いた脚を、大人みたく組んでみたり、やめたりしている。
 芦屋を通過する。ホームに立つ人の列が等間隔で過ぎていく。尼崎といい、芦屋といい、ふだんは決して通過することのない駅を通過するのは壮観だった。
「ぼくはね、コドクになりたいとき、この電車に乗るんだ」
 少年が、おもいだしたように口をきいた。
「子どものくせに、孤独、か」
「うん。」
「なら、どうして孤独にひたらないで、俺に声かけているんだ?」
「さみしいから」
 私は苦笑してしまった。
「孤独になりたいやつが、淋しいって、そりゃあ……、」
 少年は大きな眼をとおくへ向けていた。長い睫毛を、ときどきしばたいている。
 デッキの扉ががちゃりと開いて、車掌が検札にきた。車内のちょうど中央、1ヶ所に2人固まっているだけなのに、律儀にデッキのドアの前で一礼している。やってきた車掌に、2枚、キップを渡す。乗車券と特急券だ。車掌は「姫路までですね」と確認しながら、1枚ずつ検印を押して、うやうやしく返した。あくまで慇懃ながら、マニアめが、という冷たさが透けて見えた気がするのは被害妄想だろうか。
 つづいて車掌は少年のほうを向く。どんなキップを持っているのか、私もひそかに横目で盗み見てみる。少年は自動券売機で購ったらしい小判のキップと特急券を渡していた。自動券売機の券ということは、近距離だ。すくなくとも、1,450円くらいまでの。ひょっとしてこやつも同類か。
 車掌は最後に深々と頭を下げ、去っていった。通路を挟んだ席で、少年は小さなキップをポケットに大事そうにおさめている。カバンの類は持っていないようだった。カメラも持っていなさそうだ。手ぶらで一人で特急に乗ってきている。
 口をひらこうとしたところで、少年がさきに話しかけてきた。
「おじさんは、仕事してるの? サラリーマン?」
「ああ、そのようなものだ」
「ふーーーん、そうか」
 少年は腕組みしながら、天井のほうを見た。そうして、ゆっくりと眼をとじる。おさない声と裏腹に、しぐさにはどこか子どもらしさを感じさせないものがあった。
「ぼくも、はやく、働きたいな。……っていうより、学校をはやく終わりたい」
「学校は、中学か?」
「うん。……おじさん、関西ことばじゃないね、」
「あぁ、ここらの人間じゃないんでね。でも、キミもだろう?」
「ぼく転校してきたから。静岡から」
 すこし長めにした髪の毛が、首をふったことでさらりと躍った。
「関西弁には慣れないか?」
「慣れない。で、いじめられる」
 海に面した街がひろがって、列車は速度を落とした。三ノ宮に着く。神戸の街でもっとも大きい駅である。はじめての停車駅だった。いままで通過してきた各駅で見られたように、ホームには私たちの列車とは無関係の列ができていた。
「いじめられてるのか、」
「まぁね」
 少年は大きな問題でもなさそうにいいながらも、腕組みして、眼をとじた。あとは黙っている。
 この駅で何人か乗ってくるかとも思えたが、窓の外の行列は誰もうごかない。つぎの電車を待っているらしい。白い油煙のただようホームの上で、並んでいる客たちは黙ってこちらを黙殺している。列車へ一瞬だけむけられる目線は、よその見慣れない変なのが来たという風にみえる。
「金魚鉢のなかにいる魚だよ、ぼくたち」
 窓の外に顔を寄せながら、少年がつぶやくようにいった。
「面白いことをいう、」
「ぼく、小説家になりたいんだ」
「ほぉう、」
 エンジンの鼓動がたかまり、排気音にすこし遅れて列車がうごきだす。結局、私の車両には誰も乗らずにおわった。車内に煙のにおいが舞いこんでくる。列車は神戸の街を見おろしながら、すこし走行するとすぐに惰性になって、神戸駅にとまる。神戸といっても駅としてはこの街の代表駅とはいい難い。ホームから見える駅のロータリーもごく小さかった。
「神戸だよ神戸」
 少年が、窓外の駅名標を指さしていう。わざとそうしているかのように、はしゃいで見せている気が私にはした。
「おじさんは、どこまで?」
「姫路」
「あ、そっか。さっき車掌さんがいってた」
「よく気付いたな」
 デッキのドアを開けて、客が乗ってきた。三ノ宮ではいなかった乗車客が、神戸ではいるのが不思議だった。キャリーバッグを引いた女性や、定年後の老夫婦といった顔ぶれである。むろん席を埋めるにはほど遠いものの、とりあえず貸切ではなくなった。
 神戸を発車した。神戸のつぎは明石、そして姫路である。この列車を満喫できるのも、あとわずかだ。
 重々しい金属音とともに速度を増していく、その音響に耳をかたむけようと思った。
「ねぇ、おじさん、」
 少年が口をはさむ。正直うるさいと思ってしまったが、声のほうを向く。子の目線はすこし上目遣いだった。
「おじさんは、子どもいる?」
「……子ども? いない」
 めまぐるしく話題がかわるものだ。まるでコマネズミのようだと感じた。そういう年ごろなのだろうか。
「ドクシンなの?」
「こら、ぶしつけなやつだな」
「結婚してるの?」
「していない」
 少年はいたずらっ子のような目付きをしていた。利口そうに見えたのははじめだけか。目上の者に、あけすけなことをいう子には見えなかったのだが。私はすこし憮然とした。
「ふーーーーん、そうか……。でも結婚しても、どうせ離婚するかもしれないからね」
「……お前ねぇ、」
「ぼくの母さん、出てったから。チビの頃に」
「そうか」
 それがどうしたと続くくらいに、あくまで自然にこたえた。くらい表情になりかけていた少年が、眼をまるくした。
「あれっ? 普通な反応だね」
「俺もそうだったから珍しいとは思わない」
「おじさんも?」
 左の窓外の街並みがひらけて、海がひろがった。列車は海岸線に沿ってはしる。海が照り返す太陽の光が、窓いちめんに差し込む。穏やかな波のむこうに島がみえはじめた。
「あれ四国?」
「淡路島」
「あわじ島かー」
 少年ははやくも話題をかえていた。ほんとうに、関心がつぎつぎ変わる。よくいえば頭の回転がはやいのか、あるいはなにも考えていないのか。
「あわじ島は徳島県?」
「兵庫だろう、おまえみんな間違ってるな」
 淡路へかかるつり橋が、角度をすこしずつ変えながら近づいてくる。明石海峡大橋は、はじめてここを通ったときには完成していなかった。あのころ淡路へは、船しかなかった。
「こっちへ来るか? こっちのほうが、海がみえる」
 少年を自分の隣に招いてみると、素直に席を引っ越して、私の膝の前を身軽にすりぬけて、窓側に腰をおろした。不思議と、隣に坐ると黙っている。大橋のしたをくぐって、その威容が後方へ去る。あとは青い海がつづいた。山陽電車の線がのびてきて、寄り添うようにレールが輻輳する。海はすこしずつ離れていった。山陽電車のみじかい編成がどこかの駅に停まっている。人丸前と駅名がよめた。
 列車は速度をおとしている。明石に停まるためだ。少年は、窓にひたいを近づけるようにして外をみていたが、やがて口をひらいた。
「おじさんは、どうして結婚しないの?」
 しばらくのあいだ黙っていたからか、すこし声がしゃがれていた。言葉を切ってから、ちいさく咳払いしている。声変わり前の症状だと思えた。
「相手がいないと結婚はできないからな」
「ふぅん……うちの親父みたいなヤツでも結婚できたのにね」
「そうか」
「でも、結婚しても、どうせ別れるかも知れないしね」
 少年はまたそういった。ひどく皮肉そうな口調だった。
 明石の駅名標がゆっくりとすべってきて、停まった。明石の駅は山陽電車と隣接している。大きな駅にみえた。ここでも何人かが乗ってくる。列車はすいているに越したことはないが、多少は同乗客がいたほうがそれらしい。大きな荷物を持った人たちが通路を歩いていく。ざわざわとした話し声が、車内にきこえるようになった。
「おじさんも、離婚されたの?」
 少年は窓の外をみつめたまま、いった。
「結婚もしたことないからな」
「ちがう、そうじゃなく、おじさんの親」
「――母親は、たしかに出て行ったな。おまえと同じさ」
「ふぅん。だからか。……片親だっていって、なぐさめてきたり、かなしそうな顔をしたりされなかったのは、はじめてだったよ」
 こざかしい感じの口調にきこえた。声変わりしかけの声を、せいいっぱい低めていた。少年はあいかわらず、外をみつめている。私には、その様子がひどく可笑しく思えた。他愛もないというべきか。
「俺もな、……」
 移り変わる車窓をみつめたままの少年に語りかけた。
「俺も、おまえくらいの年回りには、そういう自分の不幸話を自分から始めて、不幸にひたって悦に入るようなやつだったからな。きかされる相手のことも考えず」
「………………」
 少年は黙りこくってしまった。私自身もまた黙った。世の中に自分より不幸な人がいることも考えずに、ようは自分をなぐさめるために自虐に走っていた子ども時代をおもいだす。教師だけは同情をしてくれた。いま思えば形だけのものだったのかも知れなかった。その同情に乗じて調子に乗っていた自分自身の姿を、いま眼にすることができるなら、それはひどく鼻持ちならない子どもにうつるだろう。
 明石を出た。車窓の風景は、しだいしだいに地方都市のそれに似てくる。列車はつぎの西明石を通過する。新幹線に接続しているこの駅を通過する機会も稀である。
「ねぇおじさん、ぼく、たぶん、一生結婚しないと思うよ」
 外をみつめたままいる少年が、素っ頓狂にそんなことをつぶやいた。
「どうしてだ、」
「おじさんと、たぶん同じ理由だよ」
 私はうすく笑った。
「いってみろよ。いっとくけど、俺は“結婚してもどうせ離婚するから”じゃないぞ」
 列車は西明石の構内を出るとエンジンを回転させ、速度を増した。
「じゃあさ、おじさんは、なんで結婚しないの?」
 すこし考えたような表情をしたあとに、開き直って少年はききかえしてきた。ながい前髪に瞳はかくされていた。
「なんだ、俺といっしょじゃなかったのか?」
「意地悪な大人だなぁ。素直にいうんだよ、」
 うすい色の唇をとがらせている。私は苦笑した。
「おまえくらいの歳のころに、好きだった子が忘れられなくて、結婚もできないできてしまった」
「ふーーーーん」
「まぁいいだろう? 結婚してもどうせ離婚するんだしな」
 皮肉のつもりでいったのだが、少年は満足そうにうなずいた。
「そういうことだよ。本人はよくても、子どもはたまらないよ。離婚するんならさ……」
 大人びた口調でいうと、少年はやにわに大きな口を開けてあくびをした。そうしてから、すこし身体をひねってこちらに半身を向けた。
「出てった母さんもさ、ぼくにいってたよ。本当は、中学のとき好きだったひとと結婚したかったって。そんなこというんだよ、子にむかって」
 少年は唇をつきだしながら、したたかにいった。皮肉な口調だったが、瞳は澄んでいるように見えた。こんなことを人にいうのが、少年の解毒になっているのか。
「根暗なんだよ。金沢の女だよ」
 あどけない声で「おんな」などといっぱしのいい方をするのが、ひどくおかしいというか、可愛かった。それにしても、私も出身は金沢だ。だが、そのことは黙っておいた。
 少年の口調は調子づいている。私の顔をのぞきこんで、訊いてきた。
「ね、じゃあ、いまでも、そのひとが好きってこと?」
「……いまでもとか、そういうことはないがね」
「それは、ウソじゃなくて、本当?」
「嘘じゃないな。もう、さすがにどうも思わない。36だぞ。……なにしろ盛りはすぎてるんでね。枯れたもんさ。中坊とちがって、」
「さかり?」
「――ん、まぁいい」
 中学生が好きそうないい方で謎かけしてはみたが、首をかしげている。やはり子どもだと思った。
「そのひとが、いまどうしてるかとか、知ってるの?」
「知らんな。――まぁ風のうわさで、東京で就職したと聞いたが、もうあれから13……、14年経つ。さていまはどうしているか」
「じゃ、もうダメだね」
「ダメだな」
 私は苦笑した。20代の時分であれば、まぁ可能性に賭けないでもなかったが、もうこの年齢だ。ということは、相手もおなじく年齢を重ねている。家庭も、子どもも持っているだろうと想像できる。かといって、いまさら打算なしでほかの相手をきめられそうもない。ほかの相手とつきあっても、結局はあのひとの姿を投影しているだけだと自覚しておわる。いろんな意味で、ダメだと自分でも断言できた。
「おじさんって、かわいいね」
 突然、真顔で口をひらくのでドキっとした。
 私は照れ隠しのように、
「そこは、カッコいいっていってくれよ、」
 と、いったが、
「そうじゃなくて、子どもっぽいってことだよ」
 と、少年はまじめな顔のままかえした。
「だって、36? 36歳になっても、中学のときのときのことを引きずってるなんてさ」
 そうか、と思う。
 たしかにそうだ。なんのかんのいってみても、本質は、大人の皮をかぶったつもりでいる女々しい子どもに過ぎないのかも知れない。なにしろ、背広に身をつつみながら、その実、汽車ポッポを追いかけているのだから。
「どうしてダメになったの?」
「どうしてって、そんなの聞いてどうするんだ」
「聞きたいから」
「やっぱり中学生か」
 そういうと、少年はこんどはにやりとした。
「そこは、シシュンキっていってほしい」
「おなじだろ。なんだ思春期って、知ったくさい。おまえそれ漢字で書けるのかよ?」
 つぎは姫路だった。もうこの列車も終わりだ。このさい、隣同士になった縁もある。少年をからかうつもりで話してやってもいいと思えた。
 私が、年甲斐もなく忘れられないでいる子は、中3のとき出会った。
 中3のとき、出会った頃にはまったくなにも感じなかった。その時点で負けだった。その存在を片時も忘れられないようになったと自覚したときには、その子は私にとって親友といえた男と既に付き合っていた。その2人のはじまりを私は知らない。気付けば2人はそうなっていたあとだったからだ。
 嫉妬はむろんあった。しかし友情をこわすことは、私にはできなかった。しあわせそうに振舞う2人を前にして、出る幕はなかった。
 それだけの話だ。――昔話をきかせるように、私は語った。ふしぎと、その語りがたのしかった。少年も真剣な顔をして聞き入っているので、語り応えがあった。
「その、おともだちさんと、おじさんが好きだった人は、結婚したの?」
「いいや……、親友は、別の女性と結婚している。もちろん離婚はしてないぞ。いい家庭を築いている」
「勝ち組だね」
「ああ、俺は負けたのよ。それでいい。良い家庭を築く自信はないからな。お前のいうとおりだよ。俺も、家内に逃げられたヤツの血をひいてるからな」
 少年はとつぜん私の肩をたたいた。励ましのつもりか。裏のない笑顔だった。余計なお世話だと思う。
 私はあのころコドモだった。いまにも増してだ。いまなら、もうすこし上手い方法は採れるだろう。――中学を卒業したあと、あの2人とは離れ離れになって、別の高校へ行った。2人は申し合わせたように同じ高校へ進んでいる。ねたましいとも感じなかった。そうなるのが当時の私にとっても自然に思えたからだ。高校へ進んで、まもなく2人の仲が終わったのを、人づてに聞いた。あのとき動ければ変わっていたのかも知れない。けれどもそれも、もう20年も昔のはなし。この少年など、まだ生まれる前のはなしだ。いまさら拘泥すべきではないこと。こんなことを思い出しているから、コドモのまま進めないのだろう。
「つぎは姫路だぞ」
「うん。……降りるの?」
「あぁ。おまえもだろう、」
「まぁね。――でもおじさん、姫路に用事なのなら新快速に乗ったほうがよかったのにね」
 少年はこっちを向いた。はじめて見たときと同じ笑顔だった。大きな眼をほそく糸のようにしていた。
「おまえ、からかってるのか?」
「えっ?」
「俺がどうして乗ってるか分かってるんだろう、」
「えっ? 仕事の用事で姫路へ行くんでしょ?」
 加古川駅を通過し、鉄橋を渡る。姫路が近づいている。車窓に田畑がふえてくる。街が途切れると、線路ぎわに、大きなカメラを向けている人影がいる。1人や2人ではなかった。何箇所かでそういう人が車窓を通り過ぎていった。通過駅のホームに三脚をたてて、この列車を狙うのもいた。駅の端の1ヶ所に何人かかたまって、それぞれレンズを向けている。通過しながら、列車は合図のように警笛をみじかく鳴らしてから、エンジンをふかした。
「おまえ、そっちじゃなかったのか、」
「そっちって?」
「ん、まぁいい。……で? 孤独にはひたれたのか、」
「うん。……関西ことばじゃない言葉、ひさびさにきいた。これがぼくにとっての孤独」
「そうか。よっぽど関西が厭なんだな、」
「いや、関西はね……きらいじゃないんだ。でも、子どもにもいろいろあるから」
 少年は真顔になった。やせた膝を小刻みにゆすっている。あまり感心しない癖だなと思った。
「おじさん、お名前教えてよ。せっかくだからさ」
 私は名刺を渡した。自分でも素っ気ないやり方だと思うが、子どもである自分がかぶっている大人の皮の部分がそうさせたのだ。
 はじめてもらうだろう名刺というものを、少年はまじまじと見つめていた。ものめずらしいのだろうと思ったが、ちがった。
「これ、“ゆうき”って読む苗字だよね。――結城さん?」
「そうだ」
「ぼくも、“ゆうき”。名前のほうね。字はちがうけど」
「ほぉう、」
「出てった母さんがつけたんだよ。むかし好きだったひとの名前から取ったんだって。おじさんじゃないよね、まさか、」
 私はにやりと笑ってみせた。おかしなものだ。そういわれてみれば、横顔があの子に似ている気がしてきた。が、おそらく気のせいだろう。
 大阪から1時間ちかくが経過していた。新快速よりも実際は遅い。けれど速さだけが特急たるゆえんではない筈だ。
 列車は姫路に着いた。無骨な折戸が音をたててひらく。
「じゃあね、たのしかったよ」
 俺もだ。――私はそう思いながら、無言でかるく手を振った。さて、はしり去る列車をフイルムに焼きつけねば。少年を背にして、私はホームの端の先頭車へ向かった。
 のこりわずかとなった旧型特急のさいごの姿を手元に残そうと、同好の士が何人もレンズを向けていた。列車からたちのぼる熱気と煤煙の香りが、駅の風景をいっとき昔に戻らせた。炎のように熱気がゆらめき、列車の黒い屋根をゆがませた。
 列車は淡い煙をまとい、ゆっくりと去っていく。ふと見ると、さっきの少年が誰かを手持ちぶさたに待っているのに気づいた。


*この小説はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。

   平成22年(2010年)11月17日 初出
   令和2年(2020年)11月7日   再公開


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