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017−5

僕は女の子よりカツカレーの方が好きだ 第5


 ヨ,

 土曜日。また雨だった。隣町の書店にCDを買いに行った帰り、リウヤは雪薙ゆきのバスに乗った。雨なので自転車はやめてバスにしたのだったが、さすがにバスはラクだ。乗っていれば居眠りしていても目的地に着く。雨に濡れることも、風に吹きさらされることもない。
 空席の目立つバスに揺られて十五分。終点の雪薙駅前に着く。夕方十七時にもなれば、あまり繁華ではない駅頭は、すでに薄暗かった。
 バスのりばに面して、駅舎の一階の、元々はバス会社の旅行センターが入っていた場所が、ガラス張りの待合所として開放されている。バスを降りて、その前を素通りしようとした途中、ふと、視界のかたすみに映った顔を、思わずふりかえった。ガラス窓の向こうに、リンゴの顔が見えた気がして。そしてそれは、すぐに気のせいでないことが分かった。たしかにリンゴだったのだ。
 しかも驚いたのは――そのとなりに、サクセがいた。
 話している。
 悪いと思ったけれど、見ないわけにはいかなかった。ガラスの向こうの二人とも、こちらには気付いていなかった。部屋のなかは明るく、外は暗いのだった。なかから外は見えづらい。
 サクセは、リンゴからなにかを渡されている。
 紙袋に見えた。蒼いリボンで飾られていた。
 リウヤの胸がパチッパチッとショートした。
 ――プレゼントか?
 サクセはわらってはいない。わらってはいないが、しきりに、うなづいている。リンゴは、にこやかな顔で、しきりに口をうごかしている。なにを語りかけているのか――。ガラス越しに、声はまったく聞えない。
 いったい、どういうコトなのか……。
 そして、さらにリウヤはつぎの瞬間、あっけに取られてしまった。
 サクセは、リンゴの肩に手を置いて、なにやら熱心に話しかけている。身体をちかづける。待合室内には、……ほかに誰もいない。
 リウヤは釘付けになっていたそこから、視線をそらした。
 そうか。そういうことか。
 もうたくさんだった。リウヤはその場を立ち去った。雨傘をさすと、傘のはたから、雨だれがとめどなく流れ落ちていく。雨はだんだん強くなりつつあった。
 ――こういうときは、どうすれば良いのか。
 なにがなんだか分からなかった。
 さっきの光景は……どういうことなのか。
 カレーしかないな。
 ひとりでそうつぶやきながら、カレーの店へ向かった。
 これで何日連続、この店へ通っているのだろうか。
 飽きることはなく、かえって、喰べないと、落ちつかなくなりつつある。喰べないと、この淋しさが埋まらない……。
 このカツカレーをいちど食べると、やみつきになって毎日でも食べたくなる。身体がカツカレーを定期的に欲するようになり、カツカレーを食べないと気がすまないようになる。一種の中毒になる、という口の悪いウワサは、まことしやかに広まっていた。カレーのルウにとけこんでいる香辛料のなかには、ソウイウ性質のものも混じっているのかもしれず、はからずも薬効をもたらさないとも限らない。
 ――人を好きになるというのは、麻薬みたいなもので、満足というものはない。あたらしい刺激をつねに求める。見てるだけでよかったと思っていても、それだけでは物足りなくなる。会えるだけでよかったと思っていても、それでは物足りなくなる。カレーだって同じだ。はじめはただのLでいいと思っていても、そのうちLジャンになる。きょうのリウヤは、Lジャンにした。Lジャンはライスが1.5倍ある。それでも、黙々とフォークをつかううちに、やがて銀皿の底が見えていく。これがしまいにはLダブルになってしまうのかも知れない、と自覚しながら、リウヤは黙々とフォークを口へ運ぶのだ。
 けれどカレーの味は――、ひどくニガかった。


 タ.

 カレンダーの日付けがどんどん×で埋まってきて、ついにあしたは本番。きょうはリハーサル。意気消沈でも、演技にはいれば、白いひとになりきって、声をだすしかない。通しゲイコは五周やった。なにも考えずに、演技だけに集中した。劇をやっていて良かったと思う。演技に打ち込むことで、いま自分を占めている、ぐるぐるした思考を忘れられるというものもあるのだった。
 意外にも――沈んでいても、ミスはなかった。尾神に褒められもした。そして尾神はリンゴも褒める。褒められて、ひとことふたこと、言葉を交わしている。昨日、包みを手渡していたときの笑顔が、フラッシュバックする。リンゴのほうを、どうしても見られなかった。
 おわったあと、玄関さきに、いつものように人影があった。
「枯渕、カレー行こうぜ今日。」
 さそいかけるサクセに、しかしリウヤは反応しなかった。
 学生鞄を持ちなおし、前へ前へと歩いていく。
「枯渕、」
「…………なにか用?」
 リウヤはすこし険呑な口調で問い返した。さすがにサクセも気色ばむ。
「……なんだよ、なに怒ってんだ。」
 眼を見開いて問うサクセを、リウヤはきっと見返した。
「気付かなかったよ……、二人のこと。」
「なに?」
「ほんとうは、リンゴのこと……、リンゴと付き合ってるでしょ?」
 サクセはいよいよ眼をまるくした。その表情が、リウヤにはますます癪にさわる。
「……付き合って、ないぞ?」
「うそだよね、」
「枯渕待てよ、おれは、」
 ごまかすつもりか、とリウヤは思った。かっと胸があつくなった。サクセとリンゴが付き合っているのなら、もうそれはそれで良いともあきらめもつきはじめていたのだった。親友なのだから。どこの誰とも分からないやつに取られるよりは良い。だから、もしもサクセが素直にそう云えば、応援してもよいかとも思えたのに、いつもは真っ直ぐな親友が、どうして、こうもとぼける。
「ヒドいな……。云ってくれれば良かったのに。」
「枯渕、聞けって、おれはだな、」
 ごまかさなくてもいいんだよ。なぜ、ごまかそうとする? うつむいたまま、サクセのほうを見ずに、リウヤはため息をついた。そで口をしきりに指さきでいじっている。そで口のボタンが取れかかっていた。そのボタンを、リウヤは指に力をかけて、ひきちぎってしまった。
「ぼくがリンゴのことしゃべったら、うるさそうにしていたの、これで分かったよ。」
「……それは、」
「なんか、踊らされているみたいだよね。そうと知らずに、ばかみたいに、リンゴのことしゃべってさ。」
「ちがうんだ、」
 サクセが真剣な顔をして訴えようとするのをしりぞけて、リウヤは独りごとみたいにつぶやきつづけていた。
「トモダチだって……知らないことあるよね、」
「…………、」
「キスは? したんでしょ?」
「ばっ、ばかか、するわけねーだろ、」
「でも、付き合ってるんでしょ?」
「いまはちがう。」
 云ってしまって、サクセは口をおおう。そのしぐさを、リウヤは見逃さなかった。
「そう……。知らなかった。ずっと友達のつもりだったけど、」
「だから、ちがうって。いまはちがうし、それに、付き合ってたなんて、ほんの、みじかい間だ。」
「……ぼくは、いいけど、いいけどね。……でも、教えてほしかったな。せめて。」
「隠すつもりはなかった。云う必要はないと思って……。」
「云う必要が、ない?」
「枯渕、おれは、べつに梨郷とはさ、なんていうか、手紙をよこされたから、それでさ。その、……本気じゃなかったんだ。けど、結果として、おまえに隠していたことになったのは、――すまん。」
「本気じゃなかったの、良かったよ。けどサクセくんはそうして遊びでやってたのに、ぼくは、ぼくは、こんなにもリンゴのことを想っているのに、リンゴのことスキなのに、こうして、ぼくがリンゴのこと……リンゴがスキってわかってて、なんで、隠してたんだ。」
「だから……、」
「サクセくん、リンゴとね……、お似合いだと思う。だから……しあわせに、なって欲しいって思うよ。ぼくなんかより……きっとお似合いだよ。云ってくれれば良かったんだ。そしたら、あきらめもついたんだ。こんなに……迷うこともなかった。」
「枯渕、ちがう。オレはな……、」
「なにがちがう?」
 リウヤは金切り声になった。
「プレゼントもらったんでしょ!」
 云ってしまった、という自覚はあった。これをカードにするのは酷いから、さすがに云わないでおこうと思っていたのだが、つい口から出てしまった。激しい口調に、サスケも顔をゆがめた。
「ちがう! 枯渕、オマエはなにも分かってない。……分かってくれない。」
「なにを分かれっていうっ?」
「どう云えば分かってくれる? どう云えば、おれを赦せる!? おれは……おれは!!」
 サクセが、めずらしく感情的な声をだした。なんでそこまでして隠すんだ。同情なら……いらない。いらない、のに。リウヤの心臓が沸騰した。
「うるさいよ! ……サクセッ!!」
 グーでなぐった。頬をねらったが、リウヤの背のほうがひくいせいで、外れて顎のあたりに命中した。
 いきおいで尻もちついて、そのまま坐りこんだサクセは、手で顎をおさえながら、うつむいていた。
「ばか!」
 リウヤは捨てゼリフ残して駆けた。視界は涙でくもっていた。
 ばかだ! ばかだ!
 ばかだ……。
 サクセも、……ぼくも。
 こんな風になるのは、本意ではなかった。
 もしもサクセが素直に認めたなら、リウヤはそれを祝福して、自分は手を引いて、サクセの恋を応援する立場になろう、そうも思っていたというのに、なぜ、こういうことになる。
 夢中で走って、夢中で走って、気付けば、カツカレーの店の前に立っていた。
 やっぱり自分はばかだとリウヤは思う。こんな心境で、カツカレーが喰べられるわけがない。カツカレーにだって失礼だ。ノドのあたりもきゅんと詰まっていて、カレーの香ばしい匂いをかいでさえ、食欲は湧き出してこなかった。とても喰べられそうにない。リウヤは、きびすを返した。きびすを返したところで、信じられない顔に相対した。
 心臓の鼓動が、不規則にはやくなっていく。
 なんでここにいるの? リンゴ、


 レ.

 思いがけないことに半ば混乱しながら、リウヤはカツカレーの店のお持ち帰りカウンターで、窓の外を見つめていた。
 すっかり、夜だ。夏の十八時と、冬の十八時、まったくちがう時間のように感じる。なにも知らなかった子どもの頃の時間と、大きくなって、おとなの入口に立ち始めているいまという時間と同じくらいに。
 リウヤはノドがつまって、心臓を吐きだしてしまいそうで、鼓動で手がかってに跳ねてしまいそうで、ずっとリンゴから眼をそらして、窓の外をみていた。窓にリンゴの横顔がうつっている。その横顔が、ちらっとこちらを見て、リウヤはドキリとした。
「持ち帰りのLカツカレーはね、お箸で喰べるんですよ。」
「……そうなの。」
「カレーがどろっとしてるからね、お箸でも大丈夫。うちの父が、好きで好きで。お店で喰べるよりも、こっちのほうが好きらしくて。」
 リンゴが注文した、持ち帰りの「L折り」四つは、なかなか出来あがらない。厨房のほうをぬすみみると、まだカツをフライヤーに入れていないようだった。油の温度を上げている段階のようだ。
「それにしても、枯渕くんと、カツカレーのお店で会うなんて、ほんと奇遇。Lカツ、好きなんですか?」
「うん。……まぁ。」
 リウヤも、L折りを一個だけ頼んでいる。せっかく来たことでもあるし、リンゴと一緒にお店に入ってしまって、なにも注文しないのも何だった。いまは空腹でなくとも、持ち帰りなら、あとで喰べればいい。
「わたしは……わりと苦手だったけど……。サクセくんが、たしか好きで。」
 サクセか。――リウヤの胸が、もやもやとうずく。
「枯渕くんは、サクセくんと、いつも仲良しですね。」
 うん……。リウヤはうなづく。
 仲良しだったよ。うるさいくらいに、ね。けれどこれからはどうなるか分からない。これからは、ぼくよりも、きみのほうが、たぶんサクセと仲良しだと思う。
「サクセくんは……、わたしのこと、きらいみたい。」
 はにかんだように笑いながら、リンゴが云った。
 リウヤは返事ができなかった。
 どういうこと?
 ガラス窓の鏡がうつしたリンゴの表情は、にこやかだった。けれど、その笑みにはかなしげな色彩があった。どこか無理しているみたいな、はかなげな。もっと云ってしまえば、自嘲のような笑顔だった。
「枯渕くんが、うらやましいです。」
「えっ、」
「サクセくんを独り占めしてて。」
「…………うん、でも、」
「サクセくんは……、枯渕くんといるとき、いちばん楽しそう。わかるんですよ、好きだから。見てれば、わかります。くやしいけど。」
「…………そう、かな。」
「でも、枯渕くんは、サクセくんの誕生日、知らないんですよね?」
「知ってるよ。十一月……。」
 そういえば、十一月。今月だ。日付けは……もう、終わっている。小学生のころは、たがいの誕生日もおぼえていて、お小遣いで買った、ささやかなお菓子とか、カードとか、渡しあったりしていた。いつしか……そんなこともしなくなっていたけれど。
「サクセくんがね……、枯渕くんがプレゼントもくれないのに、って、云ってましたよ。でも、そんなこと云わなくてもいいのにね。受けとってくれたのは嬉しかったけど……。おまえより枯渕から欲しかった、とか、ひどいと思いません? 枯渕くん、親友のよしみで、云ってあげて。」
 リンゴは笑顔だった。笑顔だったけれど……、肩がすこし、ふるえている気がした。リンゴもきっと、ほんとうに、サクセのことが好きなんだろう。あれ、誕生日プレゼントだったんだな。そういえば、自分のほうからは、もう何年も、そういうのを祝うことはなくなっていた。サクセは、リウヤの誕生日には、ジュースをおごってくれたり、宿題を代わりにやってくれたり、ささいなことだけれど、なにかを「くれて」いた。それを当たり前のように、受け取っていた。なにひとつ、それに対して返していない。リウヤは、唇をかんだ。
 カウンターの椅子の上で、リンゴがわずかに身じろぎする。
「サクセくんのことしか……わたし、考えられなくなって。でも、ダメでした。わたし……落ち込んでます。ダメですね。もう本番なのに……、こんなに落ち込んでて、めいわくかけてて。明日が……不安。」
「そんなこと、」
「枯渕さんは……、しっかりしてるから、こんなバカみたいに、悩んだり落ちこんだりしないでしょうね。」
「……そんなことないよ。」
 リウヤはひくい声で云った。
 悩むけど、落ち込むけど。その原因はきみだ、なんて、云えるはずはない。それだけのことだった。
「……でもわたし、もういいんです。サクセくん以外を好きになること……できそうにないから。好きにはなってくれなくても……よかった。受けとめてもらえなくても……。あのひとに出会えて、好きになれて。」
「………………、」
 なんで、ぼくにそんなことを云うんだ。
 ぼくは、きみが好きなんだよ?
 ぼくが好きだって云ったら、きみは受けとめてくれるのか?
「おれ……は、」
 ままよ。頭をぶんぶん振って、息をすいこんだ、その瞬間に、
 リンゴは云うのだった。
「枯渕さんが、ライバルなんて……勝てっこないですよね……。」
「えっ…………、」
「わたし、はじめから知ってたんです。サクセくんは、…………。はじめから分かってたのに、もしかしたらと思って。ばかでしょ? わたし……。サクセくんじゃないとダメで、サクセくんじゃないとイヤで。でも、でもね、サクセくんが、好きにはなってくれなくても良いんだ、受けとめてもらえなくても良いんだって云っているのを聞くとね、わたしも、そうでありたいと、思い……ました。」
 リンゴは、がばっと頭をさげた。
「へんなこと云って、すみませんでした。あした頑張りましょうね。」
「うん……、リンゴも……、」
 きっとまたいいことあるよ。頑張ろう。そう続けるつもりで、続かなかった。心のこもらない独りゼリフは、誰にも届かず、ただ自分の中につきささって、砕けた。
 L折りが仕上がってきた。男の店員が、ガサガサと黄いろのレジ袋を捧げ持ち、おまたせいたしました、と云った。
 リウヤは、したくちびるを噛んでいたことに気付いた。まるで漫画だ。こういうとき、本当に下くちびる噛むんだな、無意識にも。

 云えなかった。
 云えなかった。ぼくはバカだ。
 奪えるところだったのに。奪えるところだったのに。
 かわりにぼくが……。
 ――そんなこと、こんな状況で云えるわけがないじゃないか。ぼくはそれほど、オトナではない。
 世の中すべてがかなわないことなら、ガマンもできるはずなのに。そうでないものがあるから、自分一人がかなしいように思い込む。後悔を諦めが駆逐し、そしてまた諦めがすべての夢を焼くようだった。
 どうしよう。あしたは本番、だ。


 ソ.

 緊張のためか、その晩の眠りは浅かった。夜中の二時に一回眼がさめて、次に三時にも眼がさめた。その都度、妙に現実感のある夢をみては、醒めてのくりかえしだった。一時間たらずの、みじかい夢のはずなのに、ひとつひとつが長く感じる。五時に眼がさめたとき、ふつうなら夢はすぐに忘れてしまうものなのに、そのとき見た夢だけはやけに鮮明で、リウヤが次に眼をさましたときにも、まだ憶えていた。
 それもそうなのだった。リンゴが、夢に出てきたから。
 放課後の教室のようだった。リウヤはその教室内を俯瞰するように、第三者の視線でそれを見ていた。ひとりポツンと取り残されて、椅子に坐ったリンゴが口をひらく。誰か相手がいる。まだ相手が誰かは、わからなかったが、その相手にリンゴは語りかけていた。
『好きにはなってくれなくても……よかった。好きになれて。』
 その言葉は、夢からさめたいま、現実のリンゴがリウヤに云った言葉の再生だったと理解することができる。
『なにか貰えると思ってスキになるのかよ!! なにか見返りを貰えると思って!! それが愛か!!』
 リンゴに語りかけられていた誰かが、そう云った。
 これは、いつか、サクセがひとり酒の熱気にうかされながら口走った言葉だった。サクセくんは、ぼくに説いてくれたんだ。見返りを期待してではなく……。
 愛してもらうことはできない。けれど、愛した。それは幸せなことなのか? スキになれる人がいたってことだけで。
 ――ぼくには、わからない。コドモだから。


 本番の日も雨だった。冬の雨はつめたい。そう、季節はすでに冬だった。県の北の、さむい地域では、すでに初雪も観測されていた。雨はいつか雪にかわるかも知れないと思わせる、はりつめた寒さがあった。
 白いヴェールで顔をおおっているから、明るい舞台の上から、暗い客席はまったくといっていいほど見えない。それが、やりやすかった。けれどリウヤが出た瞬間の、客席からの笑い声や、知った声のヤジは、ちゃんと耳に入った。……まじめな劇なのに。
 声はよく通った。それがすくいだった。
 リンゴの声が、それに続く。――いい声だ。
 本番は、そんなこんなでつつがなく終わった。
 劇の幕は降りたけれど、幕は降りない。きっと。

 劇団のメンバーあげて、学校でささやかな打ち上げをしてから、解散になった。そのあとリンゴはどうしたか、知らない。最後の記念撮影をしたあとに、どこか外に行ってしまって、それっきりだった。劇のメンバーの女子のあいだで、二次会、二次会と声があがっている。それにも交わらず、リンゴは立ち去ったことになる。なにが彼女をいそがせたのか、どこへ行ってしまったのか。
 終わってしまった空虚感のなかで、リウヤは外へ向かった。リンゴは、どこへ行ってしまったのかと、追うように。
 学校の玄関さきを見まわしていると、リウヤはおもいがけない人物の姿を目にした。サクセだった。雨がつよく降っている。そんななかで、彼は傘もささずに立っていた。いや、手には傘を一本持っている。開きもせずに。濡れた前髪から、しずくが落ちている。濡れた頬から、しずくが落ちている。サクセは自然な感じで眼をほそめて、笑いかけた。
「なにしゃぼくれてんだよ、」
 そう云いながら、傘をひらく。
「カレーでも、喰おうぜ、」
 ――雨なのに。どうして、待っていてくれるの。リウヤが、そう傘のなかでつぶやくと、サクセは雨にぬれた睫毛をしばたいた。
「トモダチとして、ほっとけないからだ。」
 雨が小降りになってきた。サクセは傘をとじた。二、三度振って、しずくを切る。
「なにしてんだよ、カレー行くぞ。」
「……う、うん、」
 とまどうリウヤを、自転車のうしろに坐らせて、サクセはカレーの店へ急いだ。走っている最中、二人は無言だった。無言で、いまから待つカツカレーのことだけを考えていた。
「L!」
「Lー!」
 香ばしいカツと、トロリとしたルー。つやつや光っている新米。
 ざく、っと音をたてて、カツを噛む。
 肉汁が、舌のうえに、口のなかに、ノドの奥に、ほとばしって、もういちど噛めば、粗い衣と肉が渾然一体となって、口のなかいっぱいに転げた。歯の噛みしめるのをノドが奪うように、ごくりとのみこむ。
 ……おいしい。
「な、やっぱりカレーだろ?」
 カレーはおいしく、リウヤのくせっ毛をなでてくるサクセの指さきはやさしかった。
 なにがトモダチだよ。……サクセくんはずるい。リウヤは胸のおくで苦し紛れにつぶやいた。



    ―終―





 


   平成24年(2012年)12月10日


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