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017−1

 僕は女の子よりカツカレーの方が好きだ


 イ.

 今日も一日、授業が終わって、放課後の解放感が廊下伝いに響いてくる。それを耳にしながら、リウヤはウンザリと溜息をついた。
 三年六組の担任教師は、いつも話が長すぎる。雪薙中学校の先生たちのなかで、たぶん一番だろうと思う。しぜん終礼もながくなって、ほかのクラスの生徒たちが歓声のざわめきをたてる頃に、いつも六組だけがとりのこされて戸を閉ざすこととなった。
 話は、冷えてきたので風邪をひかぬようにという注意から始まって、むかしの人はこのように風邪を防いだという薀蓄へと進む。やがて口調は熱くなり、いつものように文明批評にまで及んだ。どうでもいいよなぁ、そんなこと。聞き流しながら、リウヤは制服の袖口をいじっていた。紺色に映える金いろのボタンが緩み、取れかかっている。
「枯渕くん、」
 先生が小声で呼びかけるのと、まわりの生徒たちの眼が一斉に向くのは同時だった。
 はッと顔をあげて、
「起立ッ!」
 リウヤは号令をかけた。生徒たちがガタガタ音をたてて椅子から立ち上がり、そのついでにだれもがやれやれと伸びをする。礼を終えて、先生が職員室へ引き揚げていくと、みんなは遅ればせの歓声をあげながら、それぞれ部活に家路にと連れだって急いだ。
 夏季休暇が明けてから任された委員長というしごとには、すでに二学期の半分が終ったいまになっても、いまだ慣れない。前任の女子生徒が一学期のおわりとともに転校していって、なぜか後釜をやらされているリウヤは、クラスメイトからしきりに比較を受けることとなり、しばしば気を悪くしていた。
 けれどもとにかく、ようやく長話から解放されたことに、リウヤはほっと息をついた。引き出しのなかの教科書をスポーツバッグへ片付ける。まずB5判の理科の教科書と、おなじサイズのノート。大きなものから仕舞ってから、小判の国語や数学。工夫して入れなければ、座学系授業が揃いも揃った今日のような日は、カバンが不恰好にふくらんでしまう。
 ふと顔をあげると、帰ってゆくクラスメイトたちの流れにさからって、教室に入ってくる男子生徒がいるのを見つけた。
 生徒は片手をポケットにつっこんだまま、学生鞄を持ったもう一方の手を、鞄ごとちいさく揺するように挙げて合図してくる。
「サクセくん、」
「よぉ、重そうだな、」
 机までやってきて、ポケットに手を隠したまま、リウヤの帰りじたくを傍観していた。
「うん。きょうは五教科プラス保健だから。」
「ふーん。」
 彼は隣のクラスの生徒で、名前を初引サクセという。リウヤとは小学三年のときクラスが一緒になって以来のともだちだった。いつも不機嫌そうにみえる相貌に、冷めた態度を浮べる少年だった。切れ長のつり目が凛とするどい。前髪をやたら長くのばしていて、そのごく先端だけをうすく染めている。ときどきそれが目蓋にかぶさり、左手で鬱陶しそうにかきわける癖があった。
「枯渕さ、そんなのいちいち持ってこなくても、学校に置いとけば、」
「……それ、違反だよ?」
「巧くすりゃバレないって。没収されたら借してやる。」
「サクセくんといっしょにしないでよ。」
 さらっと云うと、サクセは不服そうに舌打ちしながらリウヤを小突いた。にこりともせずにそうしてくる。けれど、それがいつものコミュニケーションだということをリウヤは分かっていた。笑顔で拳を払いのける。
「枯渕さ、きょうウチこいよ、」
「ん、ダメなんだ。」
「どうして、」
「劇のケイコ。」
「きょうもあるのか、」
「毎日あるよ。文化祭、もう二週間前だもん。」
 十一月なかごろの文化祭で、三年生有志が学年劇を発表することは通例になっていた。リウヤはその有志のひとりだ。もともと目立つことを好まない性格の持ち主だから、劇への出演などいままで考えもしなかったのだけれど、委員長という立場もあって、名を連ねることとなった。
 劇の有志を決めるホームルームの模様を、リウヤはいまでも思い出す。中学三年の秋という、大事な年の大事な時期だから、ただでさえ挙がらない手がいつもよりひときわ挙がらず、ギスギスした空気に重苦しく沈んでいた。つまりは、みんなが誰かに押し付けたがって、様子をうかがいあっている空気だった。
 それはまぁ、壇上で司会をしていたリウヤにしても同じことで、なんとか誰かが手を挙げるまで黙ってやりすごそうと、教卓でちいさくなっているうちに、オナカがぐぅと鳴ってきたりして、ハヤク終わらないかなぁと心のうちでつぶやくひとりだったが、けっきょく、誰もがみんな黙っている圧迫感に耐えがたく、自ら手を挙げた。
 とはいっても、すでに劇団のひとりとなったいまでは、ケイコに打ちこむこともまんざらではなく、演技の面白みを知るようになってきている。
「劇、か。」
「うん。……ごめんね。」
 リウヤは手をあわせて謝ったが、サクセはつまらなそうなカオをしながら舌打ちすると、ぷいと机を離れていった。呼び止めようとして腰を浮かしかけると、少年はふと思いなおしたように立ち止まり、こちらを斜かいに振り向く。
「枯渕さ、このあいだのあの店、よかっただろ。」
「店って、このまえ一緒に行ったカツカレーの?」
「ああ。」
 けろりとした態度でうなずいた。拗ねたかと心配したリウヤは肩をなでおろしながら、彼が従兄から教えてもらったというその店のカレーの味を思い出していた。
 銀の皿に敷き詰められたライスにトロっとしたカレー、傍らに刻んだキャベツ。そしてその上に大きなカツが乗っかっていた。細く切られたカツとカレーとキャベツとライスを、いっしょに口へ運ぶ。まずカリリとコロモの味。ついで肉汁がほとばしり、そして、カレーのスパイス。それらが渾然一体と和音を奏でる。リウヤはあわてて唾液を呑みこんだ。
「そんなこと云ったら、喰いたくなるじゃん。」
「そんなら、こんど一緒に行こうゼ、」
「うん。」
 リウヤは笑顔をこぼしながら、スポーツバッグを肩にかけて立ち上がった。カツカレー、か。


 ロ.

 途中までサクセと並んで歩いて、二階の西階段前で手を振って別れた。体育館への渡り廊下をとんとん走って、剣道や卓球の部活がすでに始まっているトレーニングルームを横切る。柔道場の重い鉄扉を開けた。
「おはようございます。」
 挨拶しながら上履きをぬぐ。学校にあって異質な、畳のにおいが鼻にとびこむ。この柔道場が劇の稽古場だった。
 上履きをそろえ、スポーツバッグを隅に寄せて畳のうえへあがった。イグサの感触が、なぜか懐かしさを呼んでくる。リウヤの家は全室ともフローリングだけれど、彼はこの畳にばぁちゃんの家をおもいだす。柔道の競技用なのでバネが仕込まれてあるらしく、あるくとギシギシきしんだ。
 広間のあちこちで、すでに劇のケイコがはじまっている。キャストの生徒たちが台本片手に台詞の素読みをしていた。カントクの尾神が、メガホン片手にそれを仕切っている。
「おはようございます。」
「おう、枯渕おはよう! 遅刻だぞ。はやくしろよ!」
「ごめん、」
 夕方なのにおはようございます、と挨拶をするのは劇団での流儀だとかで、気持ちを切換えるためなのだそうだ。カントクがこの点の励行を徹底させている。
 カントクと云っても、尾神はもちろん学生服を着たおなじ生徒だ。教師は深く介入することなく、脚本から演出から、この劇のほとんどすべてが生徒に一任されている。ただ、監事として学年担任のだれかしかが日替わりで練習の様子を見守ってはいた。それを先生たちは得意げにエグゼクテブ・プロヂューサーだとか称している。もっとも生徒一同、まじめな顔でそう呼ぶものは誰もいない。
 きょうの監事は二組の栃尾という女の先生だった。担当は国語。生徒の間では、無害な教師として知られている。ラッキーかな、とリウヤもひそかにだが思った。
 カバンに入れてきていた台本を手にして、声帯のウォームアップをはじめる。けれど一行か二行読んだか読まないかのうちに、ふと気になるものがあって、顔をあげた。台詞の練習にはげむ生徒たちのなかに、なにやら妙な扮装をした者がいる。なぜか背広姿や看護婦姿で、台本に目をおとしていたりしていた。
 首をかしげていると、
「枯渕くん、衣装できてるよ、」
 衣装係の女子がやってきて、白い袋をさしだしてきた。リウヤは合点がいった。そういえばこのあいだ、メジャーをつかって、肩幅だの、胸囲だの、いろいろ計測されたものだ。そうか、衣装ができたのか。
 受け取った白い袋の口からは、さらさらした生地の白いシーツのようなのがふわふわと入っているのが見えた。
「なにこれ、」
「だから、衣装。着替えてみて。」
「いま?」
「みんな着てるでしょ。衣装なんだから、」
 背中をおされて、リウヤは袋を片手に更衣室へ行った。
 ロッカーの前で中味を広げてみると、白のシーツとみえた布は、ひらひらした浴衣のような装束だった。ソデの存在でかろうじて着るものとわかる程度で、それがなければ、前あわせの無い筒状になったこの衣装は、まるきりただの白い布きれだろう。
 袋の底にはいっていた説明書きの紙のとおりに、上着を脱いで、白い布地に足先まですっぽりくるまれてみる。頭には白いヴェールをかぶった。さいごに白手袋を両手にはめる。これで完成ということだ。足元は、ふつうの白ソックスを履いていればOKとの由。
 出口の洗面台で、鏡に身体をうつしてみる。正真正銘の不審者かと見えた。自分の姿をみて、少年はこうも情けなくなったことがない。けれどユーレイと呼ばれれば、かえってまだ救いがあるだろうとは思えた。そう、リウヤの役はユーレイだった。
 ユーレイといっても、役名としては“白いひと”なんていう別の名がある。おそらくは“幽霊”と堂々書くのがはばかられでもしたか。“白いひと”というネーミングは、台本を書いたカントクが遠藤周作にはまっていたためと見てよい。あるいは幽霊としなかったところに、マンボウよりは狐狸庵というコダワリもあったのかも知れなかった。
 さすがに白いヴェールまでは被らず手に携えて、更衣室をあとにした。鉄の引戸を開けて白装束の人物が這い出てくるのを目にして、卓球の練習をしている生徒たちがラケットの手をとめ、くすくす忍び笑っている。
 そんなにヘンだろうか。ヘンだろうなぁ。リウヤはなかばヤケクソになってずんずん歩いた。こんな恰好をさせられるのは、この劇でもおそらく自分くらいだ。柔道場の鉄扉にちからをこめて、めいっぱい開けた。
 瞬間、一同のケイコにはげむ声が停止したように感じた。気のせいだろう。気のせいだと思わなくてはならない。カントクの尾神だけが、おう、おうとメガホンで手をばんばん叩きながら寄ってきた。
「似合う似合う。いいよいいよ!」
「それ、おだててるの、からかってるの、」
 リウヤはあいまいに笑った。尾神は、いいよいいよと連発するだけだ。
 衣装小道具のたぐいが初めて揃った嬉しさからか、よく見ると、まじめに自主練習している者はごく一部だった。
 劇は学園を舞台とした筋書きのものであり、多くのキャストは中学生役なので、たいていはブレザーやセーラーのままだったけれど、一部、医者や新聞記者などおとな役や、リウヤのような人外の役なんてのも紛れ込んでいたので、それらには衣装が与えられ、それぞれ一様にはしゃいでいるようだった。医者の役をやる生徒はしきりに聴診器を人の胸やどこかへ押し付けているし、かたわらでは新実がヒゲを付けたり外したりして遊んでいる。
 これら衣装・小道具を用意した衣装係は、ふだんコスプレでならす美術部や放送部の女子らで、彼女らは嬉々として調達あるいは作成にあたったという。たしかに出来はよかった。
「おはようございますー。」
 入口の鉄扉をあけて、白い着衣に身を包んだ女生徒があらわれた。リウヤは思わず眼をまるくした。自分とおなじ、ユーレイ服だった。律儀に白のヴェールまでかぶっているので、誰だか顔はわからない。
「あ、リンゴちゃん、かわいいー♪」
 女子たちの何人かが気付いて、ユーレイの正体の名を呼んだ。
 そうか、そうだった。“白いひと”は自分だけではない。このリンゴという女の子がもうひとり、二人めの白いひととして存在したのだ。妙な扮装が自分だけではないことに気付くと、なぜか、心強く思われるものを感じた。
 ちなみに、この“白いひと”という妙な役柄は、主人公の少女の心象風景の場面において、二人して少女を問い詰めさいなみ、おいつめるという、まぁそのような役回りである。
「枯渕さん、おはようございますー。」
「あ、おはようございます。」
 リンゴが盟友とも云える白装束の姿に気付いて、ちいさく頭をさげた。礼儀ただしい少女だった。ヴェールの奥に、いつもの淡いほほえみが透けている。
「がんばりましょうねー。」
 リンゴは眠たそうな独特の声で云って、ぺこんとお辞宜してから、白装束の絹ずれを鳴らしながら向こうへあるいていった。ヴェールは脱げばいいのにな、とリウヤは見ている。ときどき人の肩にぶつかりそうになったりした。白いヴェールは視界がまったくないわけでもないけれど、不自由はすると思う。尾神がリンゴに気付いて、いいよいいよと連発した。
 ところで、みんながそう呼ぶ“リンゴ”というのは愛称で、梨郷サトリというのが彼女のほんとうの名前である。梨郷は「りんごう」と読む。名前は梨なのに、愛称になると林檎なのだ。
 あるとき、リンゴはこう話したものだ。
 秋になると、おかぁさんがよくお盆に林檎と梨とを剥いて切ったのを、たくさん盛ってくれた。実がおんなじカタチだから、切ったカタチも同じ。けれど、色はちがって、林檎は白いけど、それはわたしの肌みたいな白さで、梨はもっと白い。だからわたしは、梨が羨ましかった。
 たしか劇団の顔合わせのときで、リンゴとはほとんど初対面にちかかった頃のことだったとリウヤは思いめぐる。場面ごとに競演する何人かとひとかたまりになって、完成前の仮台本を片手に、けれど練習なんてせずに雑談していた。
 リンゴはそう話したけれど、リウヤは逆で、女の子みたいな色白がすこしコンプレックスだった。弱っちく見られるし、日焼けすればぶざまに紅くなってヒリつきもする。話しに耳を傾けながら、自分なら梨よりは林檎がいいなぁと思ったものだった。
「それじゃ、みんな、やるぞやるぞ!」
 カントクの尾神が、メガホンを通して広間の全員へ叫んだ。
 はじめは立ち廻りを含めてのケイコには入らず、まずは全員車座になって、台本見ながらの輪読を行う。二人だけユーレイ服を着ての姿で、である。役順の関係で、リウヤのとなりにリンゴが坐る。ユーレイがふたり並んだのを見て、くすくす笑う声がどこかで聞こえた。リウヤはサクセばりに舌打ちでもしたくなった。
 リンゴはユーレイ服の裾にすっと手をやり、膝をまげて腰をおろす。リウヤもおなじく正座をしていた。この衣装を着てはあぐらをかきづらい。もともと正座のほうが落ちつくタチでもある。
 全員揃ったところで、尾神がスタートの合図を入れた。
 主人公の少女が、受験やいろいろなことを苦にして、駅から飛び込もうとする場面から物語ははじまる。主人公役の女子が長台詞を読む。カントクの尾神が、うんいいよ、いいよと満足げに頷いていた。
〈この衣装、いいですよね。〉
 リウヤにこそっと耳打ちしたのは、となりのリンゴだった。輪読の最中なので、ごく小声でささやいてくる。
〈はずかしくない?〉
〈ううん。かわいいし。いい出来映えだし。〉
 リンゴは屈託ない笑顔をのぞかせた。台本を読むためにヴェールはしていない。頬にえくぼができる子なんだな、とリウヤはなんとなくその横顔を見ていた。
 やがて出番が廻ってきて、リウヤもなにがしかの台詞(責めるような台詞ばかりだ)を読んで、リンゴもおなじく主人公をさいなんだ。お姉ちゃんを見習いなさい、と女の生き霊に責められ、主人公役の女子が泣き出す演技をする。みんな上手だ。リンゴも上手だった。声優になりたいとか、そういえばそんなことも云っていたのを聞いたのも思いだした。
 輪読を一周終えたところで、反省会をかねた休憩を入れたあとは、カントクの号令一声、立ちゲイコがはじまる。ここからは柔道場の畳が舞台となり、並んだみんなのカバンが観客となる。みんな真剣そのもので取り組むのだ。――第一幕。みんなすでに、劇の世界へ入っていた。


 ハ.

 ケイコが終ってから、くたくたになって着替えをした。熱くなっていた身体がきゅうに冷え、リウヤは一瞬ぶるっと身体をふるわせた。秋だろうと冬だろうと、一年じゅう窓を開け放った更衣室のなかは冷たく、これでは風邪をひきそうだ。さっきの担任の話でも聴いておけばよかったと悔やんだ。
 薄暗い照明がてらす廊下を足早に歩いて、エントランスへ急いだ。帰りに8番ラーメンでも喰べて行こうかな、と考える。
 靴箱のところで内履きを脱いでいると、偶然、リンゴと一緒になった。
「さむくなりましたね。」
 リウヤに声をかけながら、少女は手のひらにはぁッと息をはきかけ、すりすり擦りあわせた。ころころと笑みをたたえて、まだやわらかな丸みをのこす頬をほんのり染めている。愛らしいだけでなく、すっきりとした口許が知性を感じさせた。
「さむくなったね。」
 ちょっとテンポがずれてリウヤがこたえた。せっかくだから、なにか話題をさがそうかと思ったものの、なにも思いつかなかったのだった。
「さむくなりましたね。」
 リンゴはおなじ言葉を繰りかえしながら、えくぼをつくったまま屈んだ。自分の靴箱から飾り気のない運動靴をだして履きかえる。こういうクツをはいてるんだ。リウヤは靴ひもを結ぶ手を留守にしながら、なぜか少女のしぐさを見つめていた。
「それじゃ枯渕さん、また明日。」
「ん、うん。」
 うつむきかげんに、リウヤは手を振った。
 リンゴは五組の生徒だ。リウヤの六組とは隣のクラスだから、向かい合わせに下駄箱が並んでいる。それなのに、劇の練習で一緒になるまで、この二年と半年のあいだ顔も知らなかったのだ。一学年250人くらいのものだから、実際にはすれ違ったりしたことくらいはあったのだろうけれど。
 外はもうすっかり日暮れている。校門からのびる道沿いの街燈に、灯りが点いたり消えたりしていた。晩秋の風が学生服を透過して、肌を粟立ててくる。もう冬だなぁと思っているうちに、玄関前広場の人影に気が付いた。黒い粒子の沈殿しているような闇のなかに、紺色のブレザーが浮びあがっている。
「よォ」
 サクセが愛想もない表情で立っていた。両手をポケットに隠して、寒そうに肩を縮めている。
「カレー、喰いにいこうぜ。」
「いまから?」
「おう。……だめなのか?」
「夕飯いらないって云ってあるからいいけど。――サクセくん、もしかして待ってたの?」
「……いや。」
 少年の頬は紅かった。まぁ図星のしるしだろう。それにしてもあいかわらず素直じゃないなとリウヤは思う。鼻をすするサクセに、ポケットのティッシュをさしだした。
「枯渕さ、」
 サクセははすを向いたままリウヤを呼んだ。
「なに?」
「オマエ、ああいう女がいいんだ。」
「ああいう女って……、」
 リウヤがなかば真剣顔して訊くと、サクセは顎をしゃくって、リンゴのうしろ姿を示した。
「ああいう女って……。」
「見てたけどさ。」
 うしろを見れば、暗い玄関前広場からは明るいエントランスの靴箱が舞台のようによく見渡せることに気付く。リウヤは納得した。
「……あれが、いいんだろ?」
「――いい、ってのは、どういうこと、」
 云い澱んでいると、少年は舌打ちしながら、リウヤの顔をみないままに歩きだした。あわててあとを追う。
「あんだけさ、はにゃーんとしてりゃ、分かるっての。」
 リウヤが追いついて横並びになると、サクセは前を向いたままちいさくつぶやいた。
 そうか、と思う。気付いてみれば、いまもなぜかリンゴのことを考えている。なぜかリンゴのことを考えていた。


 ニ.

 先日行ったカレー屋までは、学校から歩いて十五分ほどかかる。
「自転車を持ってくればよかったな、」
 サクセがふるえる唇で云った。
「さむいから、いくらでも歩けるよ。歩いてたほうがいい。」
「それも、そうか。」
 学校裏の田んぼのなかに、一筋のびる農道を歩いて、国道のバイパス沿いにくると、行き交う自動車のヘッドライトと居並ぶロードサイド店の灯りが煌々と輝き、夜空にオレンヂいろのグラデーションをつくっていた。
 いま、雪薙の駅前でもこんなに明るくはない。街よりも、田園を切開いた国道沿いに商業活動の拠点がうつっているのだ。商品もお金もここで動く。ここで働く土地のひとも多く、ロードサイドにウィンカーを灯す車も多い。
 けれど歩く人というのは、このバイパス沿いの立派な歩道にほとんどいない。賑わっているといっても、賑わっているとは人の数をみてのことではなくて、駐車場の自動車の台数をもって云うのだった。逆に、ひとりでバイパス沿いを歩いていれば、警らの巡査が不審げに見てパトカーを徐行させる。
 そのことへのいびつさを憂える大人は誰もいなかった。なにも無い田舎町よりは、とにかく有名店が軒を揃えるバイパス通りが誕生したことのほうを、誰もが歓迎するのだ。
 リウヤとサクセは、そんなバイパスの歩道を二人で歩いて、紳士服チェーン店やドラッグストアのさきに、目指すカレーの店の看板を見とめた。
 店に近付くだけで風に伝わっていたスパイスのかおりが、店内ではよりつよく鼻をくすぐった。入口の券売機で食券を買う。二人とも平日200円引きの〈Lカツカレー〉を押した。厨房をコの字に囲むカウンターに並んで腰掛ける。
 おばさん店員がいらっしゃーいと愛想よく迎え、コカコーラの夏季増量缶なみの巨大なコップをどすん、と置く。水がなみなみと注がれている。かわるがわる、おばさんに食券を渡した。サクセが渡しぎわに「マヨネーズ」と告げる。はいはいとおばさんは了解した。
「マヨネーズ?」
 厨房へおばさんが引っ込んでから、リウヤはサクセのひじを突ついた。
「シロートだな、枯渕は。それが定番なんだよ、」
 サクセはフンと鼻を鳴らしながら、水をごくっと飲んだ。
 おたがいあの日行ったのが初めてだったはずなのだけれど、サクセはあれから何度か経験をつんで、玄人の知識を身に付けたのだろうか。よし、自分もつぎ来たときは、マヨネーズって云ってみよう。リウヤは巨大コップの水をごくごく飲みながら、目の前で調理されていくカレーの行方を見守っていた。
 カウンターと厨房との仕切りはなく、座席から調理の様子はかんたんにのぞける。白い上っ張り姿のカレー職人が、寸胴のカレーをかきまぜ、ごはんを炊き、カツを揚げている。
 銀の皿にしゃもじでぎゅうぎゅう丹念にライスを敷き詰める。いかに多くの量を収めるかに、職人の注意が配られているように見えた。安い値段で目いっぱい喰わせるのが、この店の方針のようだ。
 もうひとりの職人が、油の滴るカツをフライヤーから取り上げた。すばやく俎板に載せ、包丁片手にフォークの背で押さえながら、一気にじゃッじゃッじゃッと切ってしまう。目にも留まらぬ速さだった。
 いっぽう銀皿のほうには、千切りキャベツがピンセットの巨大化したようなトングでもってガバっと盛られ、上からトロみの強いルウをなみなみと掛け回される。
 そして最後に、揚がったばかり切られたばかりのカツが、端を揃えてドドドドと載っかるのだった。黒いソースのラインが引かれる。次に上がってきた皿にはさらにマヨネーズがかけられた。黒いソースと白いマヨネーズが、二色で競うようなラインを描いている。
「ほら、あれがマヨだろ。」
「なるほど、」
 リウヤはちらりとサクセを見た。勝ち誇った勝者の横顔のように思える。よし、こんどから自分もマヨネーズって云おう。マヨネーズ、マヨネーズ、マヨネーズ。
 皿の端がすッと拭き取られると、いよいよ運ばれてきて、ほかほか湯気をあげる銀の皿が、どんと目の前に置かれた。はいお待ちどうさま。いただきます。カウンターの向こうとこちらで、ほぼ同時に云うや云わずや、ただちにフォークでカツを突き刺して、ライスと一緒にひとくち。
 うまっ! リウヤは感激の声をあげたけれど、サクセは無言のままに猛然とフォークを口に運んでいた。もはや会話は成り立たず、二人とも無我夢中のままに意識を茶色い物体に没入していった。

 満腹しすぎて、息苦しくなりながら二人は夜道を歩いた。カレーを喰べて、つかれた身体に力が戻り、もりもりずんずんどこまでも歩けそうな感じだ。
 二人して靴音鳴らしながらどんどん歩き、ふたことみこと話をした。決してカレーの話しばかりしたわけではなかったけれど、比較的カレーの話題が多かった。
 あかるいバイパス道路から、もとの暗い田んぼ道へ戻ると、しぜんに二人とも語勢が弱まり、口数がすくなくなった。並んで歩くスピードだけはかわらない。サクセの吐く白い吐息もかわらなかった。
 そんな風に歩いていると、歩きながら、サクセがふいにリウヤのカオをまじまじ覗き込んだ。
「なに、」
「……髪、のびたな。」
「そうかな、」
 リウヤのすこしくせッ毛な髪は耳を覆い、そのまま頬にかぶさっている。先端が好き勝手に跳ねる後ろ髪は、すでに襟首をかくしていた。
「のばすつもりか、」
「……そうでもないけど。」
「オンナ、みてぇ、」
 サクセはリウヤの白い頬をぴたぴたつっつきながら、ちいさく笑った。どうせオンナ顔ですよ。リウヤはふてくされたようにサクセのさきを歩く。雪薙のふるい街並みに入って、大通りからはずれた街路を歩いて行った。軒を寄せ合う家々には明かりが灯り、味噌汁のかおりが淡く漂った。
「サクセくんさ、」
「なんだ、」
「――いま、スキなね、スキな女子っての、いる?」
 無意識に訊いてしまった。どうしてそんな質問したのか分からず、言葉の途中で自分に戸惑いながらも、云い終わってしまってから、学校でのことを思い出した。なぜかリンゴのことを考えている。リウヤはしだいに顔があつくなってくるのを覚えて、紛らわすのに精一杯になった。
「……ん。……いねぇ。」
 すこし間を置いてから、サクセはつまらなそうに答えた。
「そ、そう。いないんだ、」
 二人とも、行く手だけを見ながら歩いていた。細い小路が旧道と交わる四ッ角のところへきたときに、ちょうど定期バスがやってきた。二人は電信柱の脇で、バスが横切って去っていくのを待った。
「……枯渕、」
「は、はい、」
「なんだよ、“はい”って。」
 加熱された意識が思わずだした妙な返事に、サクセが頬をゆるませたのが口調だけで分かって、リウヤも可笑しくなっていっしょに声をだして笑った。
「枯渕は、リンゴがいいんだよな、」
 からかうようにサクセがうたう。ちがうってと弁解するリウヤの後ろ髪をつかんで、なにがちがうか云ってみろと笑っていた。いつになく機嫌がいいな、とリウヤは思う。まさかカツカレーを喰べたからでもないだろうけれど。
 床屋のまえの三叉路で、ふたりの帰り路は分かれる。バイバイ。それじゃ。そう云いあって別れた。
 サクセはうしろ手ふりながら、電燈のすくない夜道へ消えていく。風がだんだん冷たくなってきた。リウヤは急ぎ足で歩きなれた路を帰りながら、あしたはコートがいるかな、と考えていた。



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   平成17年(2005年)11月26日


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