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015

 さいごの村


 須知は中空を見上げたまま、ただよう雲へ、じっと視線をそそいでいた。霞のような絹雲には、夕映えのオレンジ色が染み込んで、空に淡くただよっている。あるところでは帯のようにはっきりと自己を主張しながら空に流れ、またあるところでは、指さきで擦って滲ませたみたいに、薄いあかね色に溶けていた。
 そばに立っている少年が、なんか面白いモンでも見えるのか? とふしぎそうに訊いた。ポケットに手をいれて、寒そうに身をすくめながら、同級生のほうをみている。
 須知は、くりくりした瞳をその少年に向けて、面白いよ、と一言答えた。サクラ君も、雲みてみなよ、
 雲? サクラといわれた少年は、首を傾げながらも、須知がそうしているように、空を見上げてみた。けれど上へ向けた視線はただおよぐばかり。しばらく見つめていたけれど、やがてやめて、須知を向いた。
 わかんねーな。
 サクラがあきらめたように云うと、須知は不服そうに唇をとがらせた。
 そうかなぁー……。なんでわかんないのかな。――わからんもんは、わからん。――わからんということが、わからん。須知は親友の口調をマネして云いかえす。サクラはそれに対して無言だった。
 峠道の中程にある展望台からは、渦巻きのようにぐるぐる一回転半する自動車道がまず直下に見えて、その向こうに、自分たちの住んでいる村がひろがっていた。それは、二人にとって見慣れた、を通り越して見飽きた風景だった。地上から見る村の居住まいも、こうしてこの高所から俯瞰する村の全体も、幾度も幾度も見てきたものだから、もう何の感動もおこさせない。ただ、高いところから地平を見下ろすのは単純に気持ちがいい。だから、それだけの理由で二人はよくここまで登ってきたりする。今日も、連れ立ってチャリを走らせ、登ってきたところだ。
 風がふかりふかりと吹く。まだ寒さを連れてくる類の風ではあるけれど、ひところのような刺すような厳しい冷たさはない。
 ……春だねぇ。と須知がつぶやいた。
 そうか? サクラはいぶかしげだ。
 うん。だって、においがする。ひなたのにおいっていうの? 風にね、ひなたのにおいがまじってくると、もう春だよ。
 まだ冬だろ。サクラがブルゾンのポケットに手を突っ込んだまま、ちょっと不機嫌そうにして云う。長い前髪が風に揺られ、切れながの眼が隠されたりまた現れたりした。
 サクラ君、寒がりだからねぇ。
 べつに普通だろ。だって今二月だぞ二月。二月は冬だぞ。三月ならまぁ春でも許すけどな。
 二月、春だよ。それにもう二十八日だよ? ――二十八日だろうが。まだ来月まで三日あるぞ。――サクラ君、だからいま二月。
 サクラはそれで黙ってしまった。
 展望台の欄干に、枯れかけた蔦が未練そうに絡まっている。葉をおとして枝だけになった山萩や雪柳が、寒い季節をつたえていた。潅木たちは展望台を整備するにあたって人工的に植えられたものらしいが、手入れは程々にもされないとみえて、細い枝が伸び放題になって、力なくしなだれていた。
 へたったイカソーメンみたいだ。思い付くままに須知がそう云うと、サクラが可笑しそうに笑った。ひくく変わりつつある彼の声だが、笑い声は澄んで高い。本気で笑うと、まだ子どものまんまの須知の声と、いい勝負だった。
 いいなイカソーメン。そいつで一杯やりたいな。――なにを? 須知が問うと、サクラはサケ、と即答した。
 おサケぇ? 怒られるよ。――須知、サケのむの怖いのかよ。――補導されるよ。――わかりゃしねぇさ。
 黙っていればいいんだ。いっぺんオマエも酔っ払ってみろよオマエも。サクラは須知の背中をバンバン押す。そのたびに、須知のかるい身体が一歩ずつ前進した。サケ、サケとサクラが連呼する。
 ……ってことはサクラ君は、のんだことあるの?
 須知が訝しげに訊くと、サクラはなんだか急に顔を紅くさせて、それこそ酔っ払ったような顔色になって、そっぽを向いてしまった。
 あ、あるぜ。あれは旨いモンだ。唇をとがらせながら云う。
 へー、そうなの? ――そ、そうだよ。旨い、んだぜ。――どう旨いの? ――どうもこうも、例えようがない。とりあえずのめばわかるって。――本当はサクラ君だって、
 そ、それより!
 須知の云おうとするのを阻止するかのように、サクラはにわかに声を大きくして遮った。
 それより、須知! あれ、あれだ。あの、そうだ試験はどうだったよ!
 試験? 数学のアレ?
 そ、そうだよ。ヌキウチのやつ! サクラは、耳たぶをまっかにして叫ぶ。須知はいつになくニヤニヤしながら、サクラ君が数学のこと話題にするなんて珍しいねぇ、と云って、くっくっと猫ッ毛を震わせた。
 ぽすっ、と拳骨が須知のアタマを撫でた。

  ぐるぐる道路。

 眼下の、ぐるぐる螺旋を成す自動車道路に、思い出したように車が走る。右のほうから角度をかえながら左へと弧を描いていく。いったん左の山蔭に消えると、車はひとつ向こうの一段低い道路を、今度は右へ向かって走っていった。急な山の崖を一気に昇り降りするために、こんな道になっているのだ。
 車見てると、けっこう面白いねぇ。――そうか? 走ってるほうが面白いぜ、この道路。――サクラ君走ったの? 自動車専用だよここ。自転車と大八車も通行禁止。――るせぇ、親の車だよ。つか大八車って何だよ、
 須知がにやっとして、道路のほうを指さす。あすこの入口の標識に、そんなのがあるよ。軽車両通行止ね。自転車と大八車が上下に描いてあって、赤の斜線のヤツ。見たことない? ――標識マニアと一緒にすんなよ。サクラはあきれ顔をしている。
 この自動車専用道は、二人が小学三年のとき開通した。けれども通行料金がいくらかかかるので、土地の人はみんな以前からの旧道を使う。狭くてヘアピンカーブが幾重にも重なる険しい旧道だけれど、なにしろ慣れているから、苦にはならないらしい。
 なかなか車、走らないねぇ……あ。
 須知がなにかをみつけて声をだした。――どこだよ、見えねーぞ、サクラがとぐろを巻くループ道路に眼を走らせていると、須知がデニムジャケットの裾を引っ張る。――違うこれだよ。つぼみが出来てる。
 須知が、枝ばかりが目立つ潅木を指差して云った。レンギョウというのだろうか、早春に黄色な花を噴水のように咲かせる木である。たしかに枝のさきに、つぼみが結ばれていた。
 だから云ったでしょ。やっぱり春だ。須知が勝ち誇った表情でにっこりして見せると、サクラは、いくぶん不服そうにしながらも、まぁもう三月だからな、と、暗に認めたように云った。
 三月か。あぁ、もう三月なんだねぇ。須知がしみじみ云う。二人とも遠くを見ている。――二月は二十八日までしかないんだぞ。須知よ、そこんとこ解ってるか? ――いや、知ってるけど。
 自分を棚に上げるにも程があるサクラの不条理な物云いに、さすがの須知も頬を膨らませた。白い頬にも夕映えがうつり、オレンジ色に色付いている。そのほっぺたをうりうりとつつくサクラの拳骨も、おなじ色に彩られていた。
 ……あしたで、もう三月か。須知が、かみしめるように云った。あしたっから……、三月で、
 あすから市民だな。オレたちも。
 須知が云おうとしたことが、知らないどこかで伝わったのか、サクラがちょうど横取りした。
 眼下に見えている家々の集まりは、今日まではひとつの独立した名のある村だった。しかし、明日からは近隣の町いくつかと合併して、町々に抱き込まれて、ひとつの市の一部分となる。
 市民かぁぁ。須知が、ためいき半分、ことば半分の声をもらした。おれ、まだちょっと分かんない。サクラ君は、市民って感じしてる? 自分で。須知がたずねると、サクラは遠くのどこかを一心にみつめたまま、しねぇな。とだけこたえた。
 遠くでサイレンの音がして、下界からは、アニーローリーの郷愁をさそうメロディが伝わってくる。五時を報せる村内放送だ。いまでやっと五時か、と須知は思った。雪の降っているあいだとくらべて、日が長くなったことを実感する。やはり春だ。
 須知がふわぁ、とアクビして、ややあってサクラもつられたようにアクビした。うつしやがったな。サクラが、あふあふやりながら悪態をつく。ごんごんと拳で須知の頬をつついた。ついさっきオレンジ色に染まっていたほっぺたは、薄暮のなかで蒼白く色彩を褪めさせている。雲だけがオレンジ色を残し、空は薄紫に色模様を変えだしていた。
 もうだいぶ薄暗くなってきたよ。展望台の欄干に頬杖ついて、須知が云う。となりでサクラが、あぁ。とだけ、短くこたえた。
 日が、暮れるねぇ。――あぁ。――夜になる瞬間だよ。――あぁ。――夜になったら、今日が終わって、あしたになる。――あぁ。――あしたっから、――あぁ。
 サクラが言葉の途中の、へんなところで相槌を打った。
 サクラくん、聞いてんの? ――きいてる。
 須知がサクラの顔を覗きこむと、点きはじめの街灯の明滅のように、目蓋がくっついたり離れたりしていた。ただでさえ鋭い眼が半開きになって、彼の意外と長い睫毛が妙に目立つ。
 ――あしたっから、もう市だ。市民だ。
 須知は独白のようにつぶやいた。期待も憂鬱もないまぜになって、少年の胸をもやもやと捉えている。いや、いくらか憂鬱がまさっているような気が自分でもしていた。
 市民。甘く憧れることのできる代名詞であっても、それが実際に自分に適用される呼名になると思えば、須知は釈然としない。ウソのようで、ムリヤリ取繕ったうつろな称号のようで。
 市だなんて。市民だなんて。恰好はいいけど、それで急におれたちが“市民”になれるわけがない。23時59分と0時ジャストとの一分差で、何が変わるんだ、と思う。そして、そのうつろな名と引換えに、疎ましくもいくらかは愛着があって、結局は好きだと自覚している、この村の名前だけが消えていく。
――心のなかで、いろんなものが留まりきらず、生まれては弾けていく。
 もうすぐ、陽が沈むぞ。なんだか眠そうにしていたはずのサクラが、ふいに須知を呼んだ。我に帰れば、今度は逆に自分の方がボーっとしていたことに気付き、須知は苦笑いした。
 広い空の、ある一方で、オレンジ色がつよく輝きだしている。落日が近付けば近付くほど、斜陽は強く差しこんでくる。二人は揃って左手のほうを向いて、西の黒い山並みを見つめた。陽はそちらへ沈もうとしている。
 それにしてもよ、展望台なのに、あさっての方向を向くなんて。須知コッケイだと思わねぇ? ――しかたないよ、北向きの展望台なんだから。――朝日を見るにも夕日を見るにも向かねぇしな。――だいいち肝心の眺めだって、ぐるぐるした道路とその向こうに冴えない村が見えるだけだしねぇ。――だから、お客もほとんど来やしない。――それがおれたちの村クオリティ。
 悪口を云いあって面白がっているうちにも、真円の光のかたまりは、意外な速さで下へ下へと落ちていく。どんどん低くなっていって、ついに稜線すれすれになり、しかし今際のひと踏張りとばかりに山と山との谷間の、切れ込んだ部分にちょうど上手く落っこちた。
 が、それも焼け石に水で、結局は山に喰い込み、どんどん形が欠けていって、さいごに一条の強い光線を放つと、ついに消えた。二人が息を呑む。西の山には、オレンジ色の間接照明だけが残った。
 ああ、沈んだ。――沈んだな。――この村で最後の太陽だったんだねぇ。――村のおとしび、だな。――サクラ君、らくじつ。落日だよ。――るせぇな。
 拗ねたようににらんだサクラの顔色は、日暮れのブラックトーンが効いて、よくわからない。けれど、感情の顔に出やすい少年である。やっぱりカオをまっかに染めているに違いないと、須知はひそかに思ってくすりと笑った。
 ごうごうと野太いエンジン音が、後ろの方から登ってくる。小砂利でタイヤをぱきぱき鳴らしながら近付いきて、少し離れたところで停まった気配がした。警笛で一声かけてから、また騒音を盛んに響かせながら遠ざかっていく。二人がチャリを放っつけてある粗末な駐車場に、一日二回だけ定期バスがやって来るのだ。けれど滅多に人は乗らない。村のおカネで運営しているのだそうだ。
 明日からは、それももう走らなくなる。
 二人はまた村の見晴らしを向いて、けれど眺めを見るでもなく空を見るでもなく、ぼんやりと、月の始めより少しだけ温くなったことが感じられる風に黙って吹かれていた。
 サクラくんさ、卒ったら、どうする? ――そつったら、って、なんだよ、――卒業したら、ってこと。――まぁ高校行くんじゃねぇの? つか、まだ二年も先じゃんかよ。
 サクラが半ばふきだしながら云う。どんだけ先のこと云ってんだよ。
 ――だってねぇ、だって、
 須知は、切ないような疲れたような声で云ってから、空を仰いだ。星が瞬きはじめている。銀粉をいっぱいに振り撒いたように、星はそれこそ星の数ほど光って見えた。“市”の夜空でも、星はみえるのだろうか。
 だって、おれたちの村だって、もう無くなるんだよ?
 サクラは、横目で須知の伸びた首筋をちらと見てから、ふん、と鼻を鳴らした。
 それってカンケーねーじゃん。――関係ないとダメなの? そういうことじゃ、ないんだよ、
 サクラは、言の葉を舌の上で転がすように考えながら、眼をくるりと廻して、ちょっと目蓋をぱちぱちさせてから、
 わかんねぇ、と肩をすくめた。
 うん。……おれもわかんない。
 おいおい自分で云っといて、かよ、サクラが遠慮なく吹きだして、須知の猫ッ毛なこめかみに、ぺしぺし突っ込みを入れた。いつもならそんな風にじゃれ付かれても笑ってされるがままに受ける須知だったが、いまは違って、表情は固く閉ざしたまま変わらなかった。
 ――わかんないことだらけだ。なんで村じゃいけないのかって。村がいきなり市になっても、村だったところは今の村のままだし、おれたちだって……。
 おれたちは、変わるのかな。須知が思いつめたように云った。かすれ声だ。サクラが、静かに口を開いた。――オレは、市になっても、市民になっても今のままだと思うけどな。
 須知はだまったまま、なぜかかすれる喉に、しきりに咳払いしながら聞いていた。
 オレはいてやるからな。今のままで。……オレはいてやる。卒業しても、いっしょだ。隣り村の高校が市になって潰れて、街の高校に行くことになっても、オレは。
 いつになく熱っぽく、サクラは語った。語りも熱いから、彼のカオも、きっと熱くなっているはずだと須知は思う。そして、熱いということは、カオはやっぱり紅くしているはずだ、と。
 須知は、その熱が自分のほっぺたにも移り来るのを気に留めながら、おれも。と云って、また咳払いした。
 眼下の村が、静かに沈むような夜の気配に満たされはじめ、暖色のあかりがぽつりぽつりと家々の窓に宿るのが、ずっと高台のここからも判った。この営みは、きっと村の23時59分から市の0時00分になっても、なんにも変わらない。朝になれば、百足屋のばぁちゃんは野菜を大八車で牽いて家々を廻るだろうし、豆田の新聞配達は咥えタバコでいい加減に新聞を配って怒鳴られるだろう。
 そして村の子どもは“市立”の学校へ行って、夕方には買い喰いしながらチャリを走らせ、夜になればまたこんな風に家々に灯りがともって。
 それは、おれたちだって。
 須知がじいんと手の平が汗ばむのを感じていると、サクラが、ふいにまた大アクビした。
 ……眠くなった。云いながら、さかんに眼を擦っている。
 ダメだよ寝たら、凍死する。――いやしないし。つか、ここじゃ寝ないって。――家に帰っても、寝たらだめだよ。――なんでだよ、――寝たら、起きたときにはもう市になっちゃってる。――あ、そうか。そうだな。サクラは合点したように目配せした。
 須知。今夜な、オレんち来いよ。市になる瞬間はさ、二人で起きてようぜ? サクラが云うと、須知は、うん。と思いっきり首を上下させて頷き、そうしつつもちゃんと、
 おサケはのまないよ? と念は押した。
 すっかり夜になってしまった。あと五時間で、二人はとつぜん市民になる。けれど、今のまま何も変わることはないだろう。きっと、ずっと変わらないはずだ。




 平成17年春 平成の大合併の季節に

*この小説はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。

  平成17年(2005年)3月11日


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