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001

ローカル線の少女


 日本海側の、ごく小さい町にあるささやかな駅から、あるローカル線が分岐している。
 本線の立派なホームとは比べようもない貧弱な砂利のホームに、1両だけの気動車が、ぽつんと気を吐いていた。油煙でうっすらと煤けた緋色の車体が、朝日をけだるげに浴びている。
 くたびれた背広を着込んだ年輩の紳士は、頼りない足取りで乗り込むと、中程のボックス席に腰を下ろした。四人掛けのボックス席を一人で占拠することは易しい乗客数だが、彼は片隅に折り目も正しく坐った。
 老人にこれという行き先はない。ただ乗るだけの事である。鉄道の利用者には、列車に乗ること自体を目的とする人達がときに居るが、彼もその一人なのだった。
 テープの女性の声が、「間もなく発車します」と告げた。今時のローカル線には車掌など乗っていない。老人は、いぶかしげにその無機質な声を聞いた。
 気動車は、エンジンの唸りに続いて、ゆっくりと歩み始めた。
 彼は、分岐点で車輪がきしむ音を聴きながら、ゆるやかに離れていく本線を見つめた。本線が右手の木立の中に消えると、小さい川を渡り、田圃のあぜに沿って走る。それは、昔毎日眺めた車窓である。彼は、この線の中程にある山里の小駅から、本線で西へしばらく走った所にある町の高等学校へと通っていたのである。長い道程だったが、汽車が好きだったから、苦には思わなかった。
 車窓は、田圃をむしばむように立つ安易な形の住宅が目に付く意外は、ほとんど五十年も昔と変わっていないようであった。
 変わったのは、この汽車がこんな惨めになったことくらいや。
 老人は、苦々しそうにうめいた。
 かつて、この線が輝いていた頃の情景は、近頃淡い恋の想い出と共にいつでも蘇ってくるようになっていた。老人が若い頃は、黒光りする頼もしい蒸気機関車が、焦げ茶色の客車を何両も繋いで、それに学生がびっしりと乗り込んでいた。朝などは本数も多く、列車行き違いのある駅では駅長以下が緊張した面持ちで作業をこなしていた。それが今は、一両きりの気動車が、僅かな人間を乗せて、1日に4回ほど行ったり来たりしているだけである。見送る駅員の姿さえない。
 開け放たれた窓から、油煙が漂ってくる。線路が上り坂に差し掛かったのである。ここは、かつても機関車が喘ぎながら登る場所だった。
 ――今は、本物の蒸機などどこにも走っていない。観光客のための“エスエル”とかいうのなど、偽物や。
「昔なら……、」
 老人は、言いかけて止めた。年寄りの嫌らしい愚痴は言わないようにしようと心に誓ったことを思い出したのである。最盛期に固執するような年寄りの姿は、いかにも恥ずべきものだと若い頃から思っていた。
 しかし、老いた今となっては、そう思うことは強がりに過ぎないのである。
 五つ目の駅を過ぎ、川が寄り添ってきて、山肌がにわかに迫ってきた。狭隘な谷を埋めるように畑が広がり、おもちゃの飛行機のようなカラス除けがけだるげにプロペラを回している。ここから先の風景は、彼が好きな景色だった。なぜだか、我が家に帰るのだと思える地点なのであった。
 ところが、いよいよ鳥肌が立とうかというところで、彼は愕然とした。
 左手の山肌からコンクリートの橋が延び、村落と線路、川を一跨ぎにして右手の中腹へと消えている。
「あれは一体、何やろう」
 老人の声には、落胆の中に少し怒気が含まれていた。少し離れた席に坐っている二人連れの老婆の一人が、彼をチラと見てから、「新幹線が来たら便利になるねぇ」と、もう一人に言った。
「新幹線やと?」
 彼は、無念そうにうめいた。
 あんなものは、乗り物ではない。輸送装置だ。どうしてあれを蒸気機関車と同じ種類のものと言えようか。ディーゼルはまだ許せる。生き物の感触がある。だが、新幹線だと!
 速度が遅いので、目障りな高架橋がいつまでも視界に入っている。老人は、憮然として流れる景色を見つめていた。
「昔は……」
 老人は口をつぐんだが、集落を踏みにじる様な橋脚が目に入ると、やはり昔はよかったと思った。
 川が渓流となり、エンジンがひときわ唸り始めた。赤黒い煉瓦を巻いた古風なトンネルを抜けると、気動車は老人の故郷の駅に力無く停まった。
 彼は、開けた窓から村のあたりを眺めたが、席は立たなかった。降りても行く所も見る物もない。知人も残っていないし、次の列車までただ無為に過ごすだけになる。
 手動の扉は開かれることなく、列車は汽笛一声、上流に向かって走り始めた。ここから先は、昔一度だけ乗ったことがあった。
 学生時代の通学列車で、毎朝彼が乗る車両に、同い年かひとつ年上くらいの美しい少女が乗っていて、その少女に憧れるあまり、降りるべき駅を乗り越して彼女が降りる駅まで乗ってしまったのであった。
 馬鹿なことをしたものだと思っているが、当時はそれ程の事をせざるを得ないほどの情熱が、彼を征服していたのである。また、そうさせるだけの魅力が彼女にはあった。その白皙の顔はこの世の物とは思えぬ程であったし、麗しい黒髪には蒸機の黒とはまた違った艶のある美しさがあった。そして、絶やさぬ優しげな微笑み。どこを取っても、少年を恋に駆り立てさせるのに充分な少女だった。
 少女はこの線の終着駅まで乗っていた。とはいっても、他の客がそれぞれの駅で散っていき、車内が閑散としてくると気恥ずかしくなり、わざと隣の車両に移ってしまったから確かな事ではないが、少なくとも駅で降りる客達のなかに彼女の姿は見られなかったから、取りあえず終着駅まで乗ったのだろうと思われる。
 その時の彼は折り返しの列車で、本来降りるべき駅まで戻ったが、車掌から乗車券を買うといかにも馬鹿馬鹿しく思われ、それ以来間抜けな追跡はやらなかった。とはいえ、この出来事が、彼にとって今日の鉄道狂いの発端となったのかも知れなかった。
 例のテープの女性が次は終着駅だと告げ、運転台からベルの音が聞こえてくると、気動車は静かに歩みを緩め始めた。
「ここまで乗ったんは、わしだけか」
 老人は呟きながら腰を持ち上げ、よろよろとデッキへ向かった。客はもう一人も居なかった。運転士に切符を手渡し、草が所々で顔を覗かせるホームに降り立った。
 三方を山に囲まれた谷間の終点。あの日抱いた想いが、じわりと蘇ってきた。恋した少女が住んでいた村。今は自然に崩壊しそうなわらぶきの廃屋が並んでいるだけだが、あの日は彼女が生活しているであろうこの村を、まぶしげに見つめたものであった。
 老人は、何十年ぶりかに甘酸っぱい感覚を思い出した。この線区の凋落ぶりには心が痛んだが、やはり来て良かったと思った。
 彼はしばらくそうしてそこに立っていたが、急に虚しさを感じて、車内に戻った。
「禁煙」の車内で煙草をくゆらせる運転士に、折り返しはいつかと訊くと、下らないことを訊くなといった態度で、「あと20分」と答えた。実はそんなことは承知していたのだが、また折り返しに乗ることを暗に伝えるために訊いたのである。しかし、最近は乗ってきた列車ですぐに折り返しても全く不審に思われたりしなくなった。むしろ増収を歓迎されることさえある。彼は、あの日はどうやって弁解しただろうかと思った。
「時代が違うがやな……」
 彼はシートに坐ると、ふて寝のように居眠りを始めた。普通の人は走行中に眠気を催すことが多いが、彼の場合は走行中には車窓を注視し、停車中に居眠りをするのである。列車の旅に、身体が適応しているのだった。
 ガクン、という発車の衝撃で目を覚ました。
 車内は、いつの間にか男女高校生が何人か乗り込んでいて、談笑の声が満ちていた。こんな村にも高校生が居るのかと思ったが、それより不思議なのはどう考えても今が登校時間とは思えないことであった。この列車の発車時刻は11時03分であり、明らかに遅刻である。
 納得できずいぶかっていると、高校生の一人が朝の爽やかな日差しを眩しそうに浴びているのが目に入った。彼は、自分の腕時計を見てみた。7時45分であった。
「とうとう、モーロクしたらしい」
 彼は水を浴びたように愕然として、気落ちした。しかし列車は一人の人間の動揺などお構いなしに、我が道を走っている。仕方がないので彼は車窓でも眺めて落ち着こうと思った。心なしか、往路よりも窓が汚れているようである。それに、窓枠が木製で、先程と別の車両に乗っているかの様に思えた。彼はそれももうろくの成す業かと思ったが、真っ黒い煤が後方へと流れていくのを発見すると、彼は合点がいかないながらも感動した。
 老人は、前から聞こえてくる力強い響きを、確かに感じ、身震いがした。煤が詰まった窓を力一杯持ち上げて首を出すと、朝日を全身に浴びた蒸気機関車が、煙を噴き上げて驀進している。
 丁度カーブに差し掛かり、蒸機が、うねる大蛇のような客車の先頭に立つ姿が、はっきりと見えた。その神々しいまでの姿。何の遠慮もなく蒸気を吐く力強い無邪気さ。
「これだ……!」
 彼は、背筋が心地よく粟立つのを覚えた。もうろくでも夢でもいいと思った。
 前方にトンネルが見えたので、彼は窓を下ろした。
「夢やろうか……」
 彼は、窓に映った自分の顔をふと見て驚いた。
 彼は老人ではなかった。深く刻まれた皺も、白髪もない。あの頃の、少年であった。
「いや、夢やな」
 さすがにそう確信して、夢が覚めないように細心の注意を払おうと身構えた。
「夢ではありませんよ」
 突然涼やかな声が聞こえ、彼はその声の方をチラと見た。右のボックスに、白皙の少女が坐っていた。見覚えのある顔立ちだった。
「キミは……」
「わざわざ、逢いに来てくれたんですか?」
 少女は、言いながら彼の対面に席を移した。彼は、胸が急激に熱くなるのを感じた。
「キミに逢いに来たんじゃないけれど……逢いたかった」
 少女は、静かに微笑んだ。少年が、どうしても手に入れたかったあの微笑みであった。
「本当に好きなんですね、この線のこと」
 彼は苦笑した。奇妙な趣味がばれてしまったのか、と思った。キミの方が好きだ、と言える老獪さは持ち合わせていなかった。
 車窓は木立を抜け、トンネルを抜け、あの忌まわしい高架橋など微塵もない無垢な里を抜け、そして谷が開けてきた。
 どう考えても夢のような状況に置かれているのだが、彼女が夢ではないというので、そうではないのかと思いなおす。試しに自分の足を踏んでみたが、覚めることなく、現実の痛みがあった。
 彼は、彼女の方を見なかった。景色を眺めることの方が重要なのだと自分に言い聞かせていたが、要するに彼女と目を合わせてしまうと息が詰まりそうになるのである。彼は、心までガキに戻ったようだと思った。
「もうすぐ、終点ですね」
 街が近付いたところで、少女がしばらく続いた沈黙を破った。胸が萎縮するような感覚が、心地よく彼を襲った。
「町までか、キミも」
「いえ。」
 少女は、静かに微笑んだ。どこか寂しそうな微笑みだった。
 彼は、短すぎる行路と、自分の勇気のなさを呪った。
「今日のこと、忘れないで下さいね。」
「ああ、……でも、また逢えるやろ?」
 少女は、目を伏せた。彼は、その表情から否定を悟り、すこし落ち込んだ。
「わたしのことを……、この線のことを本当に好きなあなただから、贈ったんで す」
「え?」
 少女はさっと席を立ち、一度だけ彼の方を振り向いてから、静々と出入り台の方へ消えた。彼は、少女を追っていこうとしたが、腰に鈍い痛みを感じてよろけ、また坐ってしまった。
 少年はすでに老人であった。やはり夢だったのかと気落ちしたが、その割には鮮明だったなと思った。それから、夢の中の少女が贈ったというのは、一体何を贈ったのだろうかと考えた。しかし、次第に馬鹿らしく思われてきて、やめた。
 2、3人を乗せた気動車は、すすり泣くような音をたてながら、起点の駅の片隅に停車した。老人は、足取りも重たげにホームへ降りた。
 廃止一ヶ月前のローカル線を狙ったマニア達が、カメラを構えて待機していた。


    ―終―

  平成13年(2001年)9月29日初出


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