もりさけてんTOP > もりさけ観光開発 > 当ページ

兼六園と金沢城公園

 ここは普通に観光地を観光するページです。

 このページの内容は旧「北陸ローカルバス探見隊」のバス停のページで記述していたものを加筆しました。


最終修正:令和6年4月1日 (3)

 
 桜の頃の金沢城公園・石川門です。

 金沢城公園の入園料は無料で、菱櫓ひしやぐら五十間長屋ごじっけんながや橋爪門続櫓はしづめもんつづきやぐら・橋爪門など、建物の内部を見学する場合のみ入館料が必要です。


 
 金沢城のある場所には、もとは加賀一向一揆の中心であった浄土真宗本願寺派の大伽藍「尾山御坊」(金沢御堂)があったそうです。

 真宗は守護大名だった富樫政親氏を討ち滅ぼしたあと、ここ尾山御坊をいわば“共和国の首府”とし、じつに93年にもわたり加賀国を治めたそうです。日本の歴史でも稀な「百姓ノ持チタル国」の成立でした。

 蓮如上人が布教した、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで全てが救われるという非常にシンプルな思想は、それまで貴族や侍だけのものだった仏教を農民層に普及せしめ、村全体にまで浸透させ、それは面として連なり、ついには熱烈な政治勢力にまで発展していきました。

 そして蓮如上人の信徒たる農民たちは、信念のもとに武士たちと対峙したのです。

 これが一向一揆です。

 一揆といいますが、実際に政権が奪取されたのですから、革命といって良いでしょう。

 現代的な言い方をすれば、宗教団体が県知事を殺害し、政権を獲得し、寺院の姿をした軍事要塞を拠点に、外部から遮断された独立国を100年近くも打ち立てていたともいえるわけです。

 ここ石川県は、日本で唯一、そのような特異な時期のあった稀有な土地という言い方もできるわけです。そこには決して加賀百万石だけではない歴史の重さ、深み、熱烈なドラマがあります。

 長享2年(1488年)から天正8年(1580年)までの93年間、ほとんど1世紀の間、それが続いたのです。93年ですよ。昭和と平成を合わせた長さです。

 しかし、尾山御坊は佐久間盛政らによる攻勢を受け、ついに織田軍の手に陥落、その後、もともと要塞のように造られていたという御堂は、お城として改造されたのだそうです。

 

 この金沢城には天正11年(1583年)6月14日に加賀藩祖・前田利家公が入城し、以来、明治2年(1869年)まで加賀藩14代の居城として栄えたということです。

 しかし、その城郭は度重なる大火により石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫を残し全て焼失――。さらに明治4年(1871年)の廃藩置県によって明治政府の兵部省の管轄となり、明治31年(1898年)には第九師団設置に伴い、師団指令部および第六旅団指令部が置かれるなど、陸軍施設として変貌を遂げていったそうです。

 お城というのは元々、軍事施設ですからね。

 太平洋戦争の終結後に旧陸軍は解体されますが、昭和24年(1949年)5月31日、跡地に金沢大学「城内キャンパス」が開かれ、長い間、城は外側から眺めるだけの場所となっていました。


 
 眺めるだけの城となっていた頃の象徴、「石川門」は宝暦9年(1759年)の大火で焼失したあと、天明8年(1788年)に再建されたもので、金沢城址では三十間長屋、鶴丸倉庫とともに藩政時代から残る貴重な建物です。

 白っぽい瓦屋根が特徴で、これは鉛でできており、有事には溶かして鉄砲の弾として利用できるようにしていたとも云われています。


 

 時代は流れ──、金沢大学の郊外移転へ向けた話が持ち上がります。塀に囲われた城内キャンパスが手狭となったことによるものです。新天地として選ばれたのは城より南東に離れた山間部、角間の里でした。

 そして、平成元年(1989年)8月14日〜31日にかけて文学部・法学部・経済学部の3学部と附属図書館、大学会館が移転。平成7年(1995年)には全施設の退出が完了し、これにより石川県の手で金沢城の復元が開始されることとなりました。

 平成13年(2001年)9月7日、橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓の復元完了により「金沢城公園」がオープン。長い年月を経てお城はよみがえり、こうして兼六園とともに新しい観光名所として知られるようになったわけです。

 その後、平成22年(2010年)4月24日に河北門、平成27年(2014年)3月7日には橋爪門と玉泉院丸庭園が復元されました。


 
 雪の頃の金沢城公園・三の丸広場です。外国人の親子が雪合戦を楽しんでいました。史跡でありながら、そんな光景もマッチするような開かれた公園です。後方に見えているのが「橋爪門続櫓」です。これらの復元された門や櫓は、いずれも絵図や設計図などの文献から可能な限り忠実に再現されたものです。

 この三の丸広場は、金沢大学城内キャンパス時代には教育学部本館があった場所のようです。


 
 左に「菱櫓」、右に「河北門」。河北門は石川門、橋爪門とともに「金沢城の三御門」と呼ばれたそうです。藩政期の金沢城では、この河北門が実質的な正門であったと言われています。藩政期から明治時代にかけては香林坊ではなく橋場町が金沢で最も栄えた町だったそうですが、これも正門である河北門に面していたためでしょう。

 河北門と石川門は、河北郡に面している方角にあるため「河北門」、石川郡に面している方角にあるため「石川門」と名付けられたといいます。現在「石川郡」という地名はなくなってしまいましたが、この石川門は、石川郡のありかを未来へ語り継いでゆくことでしょう。

 河北門を出ると、広々とした新丸広場を経て、正面に「大手門」、左前方へ進めば「黒門」となります。黒門へ抜けると、武蔵ヶ辻・近江町市場へは7、8分もあれば着くほどの至近で、エムザ「黒門小路」の由来となっています。兼六園、金沢城と散策した後、黒門からそぞろ歩き、エムザ黒門小路でおみやげを購入するという流れも良いかと思います。


 
 平成29年(2017年)4月23日、「鶴の丸休憩館」が完成。美しく磨かれたガラス張りのテラスから五十間長屋や菱櫓を一望することができます。ここは金沢大学時代には図書館のあった場所にあたるようです。城址公園として整備された際には池なども造られましたが、休憩館の新築に際して埋め立てられ、芝生の広場となりました。


 
 二の丸広場に面した空堀に「極楽橋」が架かっています。長さ13.54mの太鼓橋です。

 この橋はお城として改造される以前の「金沢御堂」の時代から存在していたとされ、参詣者は朝に念仏を唱えながら橋を渡り、帰りは日本海に沈む夕日を拝んで極楽浄土を祈ってから尾山を後にしたといわれています。

 令和3年(2021年)3月はじめに改修工事を終え、綺麗に整備し直されました。


 
 極楽橋を渡ったさき、階段を上がった高いところに「三十間長屋」があります。石川門、鶴丸倉庫とともに、藩政期よりそのまま残っている建物の1つです。

 「長屋」といいますが、なまこ壁が美しい2階建ての倉庫です。もともとは軍備倉、のちには鉄砲倉として利用されていたということですが、金沢大学時代も書庫として使われていたそうです。

 この三十間長屋より奥のうっそうとした森が、かつて本丸のあった場所だそうですが、もとより度重なる大火により建物はなにも残っていません。森となっているのは金沢大学時代に理学部の植物園となっていたためで、野鳥が生息し自然の多く残る散策路となっています。


 
 平成27年(2014年)3月7日よりお城の南側、玉泉院丸ぎょくせんいんまる跡に「玉泉院丸庭園」が復元され、公開が開始されました。この庭園は寛永11年(1634年)に前田家3代・前田利常公により作庭が始められたものだそうで、宴の場として活用された兼六園に対し、藩主の内庭としての性格が強い庭園であったと考えられているそうです。

 しかし、庭園は廃藩置県とともに廃絶。明治4年(1871年)より明治政府の兵部省の管轄下となり、オランダ人スロイス医師の邸宅が置かれたのち、大正15年(1926年)頃に池を埋め立て、露天馬場が設置されたということです。

 戦後、昭和30年(1955年)に県スポーツセンターへと転用され、昭和40年(1965年)には石川県立体育館が完成。長い間中高生のスポーツ競技の殿堂として知られていましたが、平成20年(2008年)に取り壊され、発掘調査が開始されました。

 それから約7年の歳月を経て、歴代藩主の愛でた庭園が絵図や文献から忠実に再現されたわけです。現代の金沢によみがえり、市民憩いの庭園となった玉泉院丸庭園。入園料はもちろん無料です。


 
 本丸の一角、戌亥櫓いぬいやぐら跡より見た橋爪門。奥に見えるのが石川門です。

 では、石川門より石川橋を渡り、兼六園へ向かいましょう。


 
 特別名勝「兼六園」です。霞ヶ池に浮かぶ様にしてたたずむ「ことじ灯篭」は、兼六園のシンボルですね。

 加賀百万石といわれた前田家が造らせた庭園で、水戸、徳川家の「偕楽園」、岡山、池田家の「後楽園」とともに“日本三名園”の一つに数えられています。

 延宝年間(1673〜81年)に5代藩主・綱紀つなのり公が現在の瓢池付近に蓮池御亭れんちおちんをつくったのが庭園としての始まりだそうです。

 その後、文政5年(1822年)に12代藩主・斉広なりなが公が千歳台に竹沢御殿をつくり、天保8年(1837年)、13代・斉泰なりやす公の時代に、ほぼ現在に近い形となったそうです。


 
 この兼六園は廃藩後の明治7年(1874年)5月7日に一般開放が開始され、大正11年(1922年)3月8日に国から「名勝」として指定されています。

 お殿様のための庭園から、広く民衆へ開かれた憩いの場所となったのです。

 年配の方には兼六園下のことを「公園下」と呼ぶ人が多いように、かつてはあくまで「公園」であり、年中無休、時間制限なしの無料の公園として開放され、園内には「児童苑」も存在し、子どもがキャッチボールや遊具遊びに興じるような光景も見られたそうです。

 子どももお年寄りも、朝でも晩でも気軽に出掛けられる場所だったのですね。花見のシーズンなどは、芝生の上にゴザを広げて弁当を食べたり、花見酒を楽しむ人でごったがえしていたそうです。その習慣が、いまのお堀通り沿いの園地での観桜に受け継がれているのでしょうか。

 昭和51年(1976年)9月1日に有料化され、観光地として特化されるとともに、その優れた景観や構造物が大切に守られていくこととなりました。そして昭和60年(1985年)3月20日、文化財保護法により「特別名勝」として指定され、現在に至っています。


 
 霞ヶ池に面し、冬は雪吊りが美しい「唐崎の松」。13代藩主・斉泰公が近江八景のひとつ・琵琶湖畔の唐崎から松の種子を取り寄せて育てたものといいます。北陸の雪は水分が多く重みがあるため、雪の重さで枝が折れてしまわないよう、このように雪吊りが施されているわけです。

 兼六園には、六勝と呼ばれる6つの要素があります。「宏大(こうだい)」「幽邃(ゆうすい)」「人力(じんりょく)」「蒼古(そうこ)」「水泉(すいせん)」「眺望(ちょうぼう)」です。

 この六勝は普通ならば互いに矛盾しあう要素だそうです。「宏大」広々とした様子を求めると、「幽邃」静かで奥深い風情が少なくなってしまいます。「人力」人工的なものが勝っていれば、「蒼古」古びた趣きはなくなってしまうでしょう。「水泉」水の流れを多くすると、「眺望」遠くを眺めることができません。

 しかし、この兼六園では相反して矛盾するはずの6つの要素を全て兼ね備えており、このことから、松平定信こと白河楽翁公が「兼六園」と命名したということです。

 箱庭のように作り込まれた庭園の遊歩道には、じつにさまざまな道が張り巡らされています。広い道、狭い道、平坦な道もあれば坂道もあり、浜辺を思わせる湖畔に、川沿いの道。そこに架かる橋。行き止まりの山道……。

 広い道から、今度はあの角を曲がって狭い道をたどってみようとか、まるで自分をバスに見立てて遊んでみるのも面白いです。

 この霞ヶ池は琵琶湖をイメージして造られたものとも云われています。唐崎の松もそうですし、池の真ん中に浮かんでいる蓬莱島は竹生島を、池へ突き出している「内橋亭」は堅田の浮御堂を模しているそうです。


 
 霞ヶ池から望む「唐崎の松」。対岸の人の列を見て下さい。金沢市歌の2題目に歌われる通り「眺め尽きせぬ兼六の 園には人の影絶えず」です。


 
 亀甲型の赤戸室石11枚を使用した「雁行橋がんこうばし」。亀甲橋、かりがね橋とも呼ばれています。雁が空へと列を成して飛んでいく姿をかたどっているそうで、卯辰山の眺望を借景とし、緑に映える曲水との調和が見事というしかありません。

 “亀は万年”ということで、雁行橋を渡ると長生きするとされていましたが、あまりに渡る人が多かったためでしょうか、石の磨耗が著しいため、現在は通行できず見るだけのものとなっています。


 
 松の根っこが地上2mの高さにまで盛り上がった「根上りの松」。13代藩主・斉泰公が、松の地表近くに根を成長させる性質に着目し、土を盛り上げて若い松を植え、成長後に土を取り除いて根をあらわにするという方法で、この奇観を作り上げたそうです。

 これはまさに「人力」の美でしょう。


 
 兼六園のなかを流れている小川は「辰巳用水」です。この辰巳用水は犀川上流の上辰巳から取り入れられ、加賀藩の優れた土木技術によって作られたトンネルを経て小立野通り沿いをおだやかに流れ、兼六園へ導かれたあとは園内の美しい曲水や霞ヶ池を形作り、その後は広坂通りの中央分離帯に沿うせせらぎとなり、尾山神社へと至っています。

 寛永9年(1632年)に完成した辰巳用水は、金沢城が大火に見舞われたあと、水利を案じた3代・前田利常公の命によって着工。小松の板屋兵四郎という天才的な土木技術者が設計し、14万人もの人々の従事により、わずか1年で完成したということです。一説では完成後、兵四郎は城内の水路の機密が漏れることをおそれた藩によって亡き者にされたとも伝えられているそうです。

 約380年も昔の地下水路が現在も使用されている例は日本で唯一といわれ、東京都の玉川上水、静岡県の箱根用水とともに、日本三用水の一つに数えられているそうです。平成22年(2010年)2月、上流部から中流部にかけての約8.7kmが国の史跡として指定されています。


 
 「噴水」は現存する日本最古の噴水で、落差から生じる自然の水圧のみによって水を噴き上げています。金沢城二の丸に辰巳用水を上げるため試作されたものと言われています。


 
 かつて、園内に「児童苑」が設けられていたと言いましたが、かつての「児童苑」は広坂側にある時雨亭から梅林の間にあるだだっぴろい空き地のようなところにかけてのエリアにあったようです。平成12年(2000年)3月に時雨亭が復元されましたが、時雨亭と梅林の間には現在も何もない草原のような空間があり、往時の面影が想像されます。


 
 兼六園に隣接して、南側に「金沢神社」があり、ここに「金城霊沢きんじょうれいたく」があります。この金城霊沢こそが、「金沢」の地名の由来となった場所であるという風にも言われています。

 言い伝えでは、このあたりで山芋を採って生活していた芋掘り藤五郎(とうごろう)と呼ばれる青年が、あるとき採った芋をこの泉で洗っていると、なんと芋についた土に含まれる砂金が洗い出され、キラキラ光っているのを見つけたそうです。

 藤五郎は無欲な人柄で、和泉の国の素封家の娘と結婚しますが、妻の実家から送られてきた財宝も人に分け与え、雁の群れを獲ろうとするのに砂金の袋を投げ付け紛失する始末。見かねた妻が問いただすと、「こんなものは芋を掘れば付いてくる」と藤五郎。驚いた妻とともに、さっそく芋を霊沢で洗ってみると、美しい砂金が水のなかで輝いた。と、このような民話です。

 以来、この沢は「金洗いの沢」、すなわち「金城霊沢」と呼ばれるに至ったとされています。

 兼六園の南側、成巽閣に面した「ずいしんざかぐち」料金所から出場すると、そこがもうお金沢神社の境内となっています。兼六園ではいったん外へ出ても、当日日付印の入った入場券を提示すれば再入場ができますので、いったん出て、金城霊沢を見学後、また園内に戻る方法もOKです。


 
 霊沢からは水が涸れたことがないそうです。どういうわけか、トレヴィの泉のように硬貨が投入されています。まさに「金洗いの沢」ですが、金沢駅のもてなしドーム地下の滝つぼでもそうなっているように、泉と見ればお賽銭のようにお金を投げ入れたくなるのが日本人なのでしょうか……。

 お金が投入されることで湧泉が汚れることから、管理する金沢城・兼六園管理事務所では「できるだけやめてほしい」と呼び掛けているそうです。

 室生犀星の長女・室生朝子さんが昭和55年(1980年)2月に著された「四季との語らい 金沢そして能登」(主婦の友社)というガイドブックでは、金城霊沢の項にて、
『よく見ると、五円玉や一円玉が沢山に沈んでいる。若い女性の観光客が、外国の故事にならって、思いをこめて加賀の「愛の泉」に、何かを願って投げたお金だろうと思う』
 と記されています。

 昭和55年(1980年)当時にはすでにあったことなのですね。それから40年以上。もはやこれは歴史のひとつになりつつあるのではないでしょうか。


 こちらのページもどうぞ
 →(味わいバス停)兼六園下・金沢城


参考文献
 「北國新聞縮刷版」各号
 北陸鉄道社内報「ほくてつ」各号
 「金沢の気骨」山出保・著(北國新聞社)
 「能登・金沢と北陸」新保千代子・著 昭和50年(実業之日本社)
 「四季との語らい 金沢そして能登」室生朝子・著 昭和55年(主婦の友社)


MORI SAKETEN.com SINCE 2003


もりさけてんTOP > もりさけ観光開発 > 当ページ





inserted by FC2 system