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ひがし茶屋街と浅野川

 ここは普通に観光地を観光するページです。

 このページの内容は旧「北陸ローカルバス探見隊」のバス停のページで記述していたものを加筆しました。


最終修正:令和6年4月1日 (4)


 
 格子戸のしっとりとしたお茶屋建ての建物が軒を並べ、風情ある街並みが続く「ひがし茶屋街」です。

 旅行者の方々のブログやツイッターなどを見ていると「ひがし“茶屋町”」と書かれていたり、会話を聞いていても『ちゃやまち』と呼んでいる人もあったりしますが、「ちゃやがい」です。

 しかし、歴史的に見れば、じつは新しい呼び名であるこの「ひがし茶屋街」。ある程度は、言い方に揺れがあるのは当然なのかも知れない……。その末で、いつしか何百年も経たときに固定された言い方こそが、いずれは正しい名称となるのやも知れません(正しい、とは?)。

 「ひがし茶屋街」は、かつては「東廓ひがしのくるわ」と呼ばれていました。

 花町、つまり遊郭だった場所です。

 「東廓」は文政3年(1820年)、12代藩主・前田斉広なりなが公の時代に初めて設置が認められたそうです。


 
 「ひがし茶屋街」という呼び名が一般的になったのは、そう古い話ではなく、昭和の時代の旅行ガイドブックを開いていると、どれを見ても「東廓」や「東の廓」として紹介されており、「ひがし茶屋街」という名称はまったく見当たりません。

 古い時代にさかのぼれば、昭和36年(1961年)に発行された「最新旅行案内 北陸」(日本交通公社)では、地図中に「愛宕遊郭(東廓)」との記載があるのみ。しかも本文には記載がなにも見当たりません。この頃はまだ本来の遊郭としての色彩が強く、観光地として一般的には認識されていなかったのかも知れませんね。

 これが昭和50年(1975年)の「ブルーガイドブックス 能登・金沢と北陸」(実業之日本社)になると、「東の廓」という名称で紹介されていることには変わらないものの、文中では、
『いまではこの情緒溢れる町は男性が通うだけでなく、旅の女性も美しい町並みをもとめて回る町となった』
 と記されていました。なお、この本の著者は金沢出身の女性作家で石川県立近代文学館初代館長も勤めた新保千代子女史です。

 

 昭和52年(1977年)4月発行の「あるく 金沢・能登」(新声社)においては「愛宕(東の廓)」という名称で紹介されており、本文でも、
『まもなくしゃれた格子戸の二階家が両側にずらっと並んだ、時代劇のセットのような所へ出る。愛宕とよばれるもと東の廓である』
 と記されています。著者は金沢出身の作家、かつお・きんや氏です。

 現代のネットでは「愛宕」と「東の廓」は隣接した別の場所であるように記されている例が多く見受けられるのですが、実際のところはどうだったのでしょうか。

 昭和53年(1978年)発刊の「金沢文学散歩道」にも
『愛宕遊廓とも東廓とも呼ばれ、かつてはにぎわった』
 とありました。

 昭和58年(1983年)に発行された「ミニミニガイド文庫 金沢」(昭文社)でも「旧東廓(愛宕)」として記されていました。

 
 ▲「東 事務所」

 昭和61年(1986年)3月発行の「ふるさと探勝50選」(北国出版社)でも、やはり「東の廓」としての紹介。昭和63年(1988年)1月発行の「グランプリ 中部・北陸道路地図」(昭文社)に掲載されている観光案ページにおいても「旧東廓」と記載されていました。

 ところが、平成2年(1990年)1月発行の「ミリオンみどころ金沢・能登・北陸」(東京地図出版)では、ついに「ひがし茶屋街」という記載が見受けられるようになり、どうやらこの頃からその呼び名が一般的になっていったようです。そしていまや、それが当たり前の名称となっているわけです。

 室生犀星の長女・室生朝子さんが昭和55年(1980年)2月に著された「四季との語らい 金沢そして能登」(主婦の友社)というガイドブックでは、「東の廓」の項にて、
『現在子供の成育の過程にある家庭では、子供の教育のためには、廓という言葉に対して、神経質になっているのである』
 とも書いておられます。また、
『私達が好奇心を持って見る家の中で、哀しい女の歴史が繰り返されてきた永い年月のあったことを、考えなければならないと思う』
 ともありました。

 こうした意見のなかで、「廓」という言葉をあえて捨てて、「ひがし茶屋街」へ生まれ変わっていったのかも知れません。

 いまでは「東廓」は完全なる死語でしょう。

 しかし、年配の、観光客に案内する立場の金沢市民の人が『ひがしの茶屋街』と、わざわざ不要な“の”を付けて呼ぶのを私は耳にした覚えがありますが、これはひとえに「東廓」を「ひがし“の”くるわ」と呼んでいた名残りなのではないでしょうか。


 
 かつては“越濱”と名乗っていたという「懐華楼」です。ここは観光客への公開も行われています。

 いまも老舗の料亭が多く、昔のままの風景が残っているために、観光客から人気を得ているのが、この「ひがし茶屋街」です。夕方になると芸妓さんの弾く三味線の音色が聞えてくるかも知れません。


 
 茶屋街の奥には“愛宕”の名前を残す「愛宕加登長」があります。


 
 路地の途中には趣深い米穀店も……。


 
 ひがし茶屋街の最寄りバス停は「橋場町」ですが、茶屋街へのアクセスには浅野川大橋の北詰にある4番のりば「ひがし・主計町茶屋街」がもっとも便利。金沢駅東口6番のりばからの「城下まち金沢周遊 右回りルート」に乗れば、ここで降りられます。


 
 ベンチはまるでお菓子のような洒落たデザインです。


 
 “おんな川”と呼ばれる、優しい流れの浅野川にかかる「浅野川大橋」。現在の橋は大正11年(1922年)12月14日に完成した永久橋で、美しい3連続アーチが大正浪漫を伝えます。

 毎年春には「浅の川園遊会」が開催されています。ぼんぼりに灯りがともされ、川床が用意され、優雅に踊り流しが行われます。昭和62年(1987年)4月12日に第1回が開催されて以来、金沢市の伝統文化をいまに伝える催しとなっています。


 
 浅野川大橋たもとの橋場町緑地には灯台のようにも見える望楼が建てられています。明治中頃まで存在していたという木造の火の見やぐらを写真をもとに復元したというものです。


 
 浅野川大橋から梅ノ橋へと歩いていくと、「滝の白糸」の像があります。

 泉鏡花の作品『義血侠血ぎけつきょうけつ』の主人公である水芸人の像で、“水”と書かれたセンサーに触れると扇子から水が噴き出て水芸が再現されます。

 平成3年(1991年)9月24日に完成。製作に携わったのは「老舗・文学・ロマンの町を考える会」という団体だそうです。像のモデルはひがし茶屋街に実在した芸妓の美ち奴さんという方で、お披露目の際、最初にセンサーに手をかざしたのもこの方だったそうです。


 
 浅野川の南側には、川筋に沿って主計町かずえまち茶屋街が軒を並べています。浅野川大橋から見ると木造3階建ての古風な家並みが連なっており、風情たっぷりです。

 前田藩の家臣・富田とだ主計かずえという人の屋敷があったことが町名の由来だそうです。

 「主計町」という町名は平成11年(1999年)10月1日に尾張町二丁目から改称され、復活しました。山出保市政の頃に盛んに行われた旧町名復活の第一号で、廃止され使われなくなった町名が復活した例は全国的に見ても初めてのことだったそうです。


 
 主計町の裏通りには、このような人一人がやっと通れる幅の小路が入り組んでおり、まるで迷路のようです。地図を見ずに迷ってみるのも楽しいですね。


 
 そんな路地の奥に、下新町へと続く「暗がり坂」への登り口があります。

 まるで隠しルートのような階段を上がると、久保市くぼいち乙剣宮おとつるぎぐうという神社の境内に出ます。

 下新町に生まれた金沢三文豪の一人・泉鏡花は、子ども時代、毎朝この坂を下り、中の橋を渡って小学校へ通ったといいます。

 境内を抜けるとはす向かいに生家跡の「泉鏡花記念館」があります。同記念館は「金沢市内1日フリー乗車券」を提示すると割引の対象となります。


 
 城下町を優しく流れる浅野川。まさに“おんな川”の風情です。

 しかし、この“おんな川”も川である限り、突然人に牙を剥くこともあります。

 平成20年(2008年)7月28日の早朝から続いた記録的豪雨は1時間に100mmもの雨量に達し、湯涌温泉や主計町などで氾濫……。床上浸水531件、床下浸水は実に2141件にも及び、茶屋街も泥で覆われてしまいました。

 浅野川にはダムはありません。地形上、ダムを作ることが困難なのだそうです。このため、ダムの代わりとして犀川へと続く全長1.2kmの放水路が作られ、これによって水量を管理しているそうです。放水路は田上町の朝霧大橋近くから分かれ、小立野台地を地下トンネルでくぐって、大桑町の大道割付近で犀川へと合流しています。


 こちらのページもどうぞ
 →(味わいバス停)橋場町


参考文献
 「金沢市住宅詳細図」(刊広社)各年版
 「最新旅行案内 北陸」(日本交通公社)昭和36年
 「能登・金沢と北陸」(実業之日本社)昭和50年、52年版
 「金沢文学散歩道」(毎日広告社)昭和53年
 「あるく 金沢・能登」(新声社)かつお・きんや著
 「ミニミニガイド文庫 金沢」(昭文社)昭和58年版
 「みどころ 金沢・能登北陸」(東京地図出版)平成2年版
 「ふるさと探勝50選」(北国出版社)
 「グランプリ 中部・北陸道路地図」(昭文社)
 「北國新聞縮刷版」各号
 「市史年表 金沢の百年 大正・昭和編」金沢市
 「四季との語らい 金沢そして能登」(主婦の友社)室生朝子著


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