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関野鼻せきのはなパークハウス

最終修正:令和6年4月16日 (3)

    

 志賀町富来の外浦沿い、ヤセの断崖にも近い関野海岸。カルスト地形の岩肌に奇岩怪石の連なる景勝地となっています。

 
 いまはもう廃止されてしまいましたが、かつては富来と門前を海岸線に沿って丹念に結ぶ外浦線というバス路線があり、その途中にあった「関野」バス停には、かなり大規模な待合所があり、能登ブームの頃は多くの利用客があったことをしのばせていたものでした。

 
 ▲待合室内は荒れていました

 その関野バス停前にあったのが、「関野鼻パークハウス」というドライブインです。

 観光客へ駐車場を提供するとともに、日本海の絶景を望みながらの食事を楽しむこともできる場所だったようですね。

 「関野鼻パークハウス」は昭和39年(1964年)7月15日オープン。経営は名鉄グループの「能登観光開発(株)」で、もともと同社は名鉄と八幡製鉄、地元出資者が共同で設立した会社だったようですが、昭和61年(1986年)頃からは北鉄と関係の深い会社となっていたようです。

 昭和62年(1987年)4月1日にリニューアルオープンを果たし、1階に売店、2階に80席の喫茶コーナーと大広間、正面ロビーには「カラクリ時計」も設けられ、時報とともに5体の人形が楽器を奏で、楽しい雰囲気を醸し出す新パークハウスが完成しています。

 石川県立図書館所蔵の北陸鉄道社内報「ほくてつ」昭和62年(1987年)5月号によると、このリニューアルにあわせ、海岸ぶちに安置されていた竹生島弁財天の御分身「関野鼻弁財天」もパークハウス後部へ移設されたといいます。

 その後、平成5年(1993年)発刊の「北陸鉄道五十年史」には同ハウスについて一切触れられていないことから、この間に北陸鉄道(株)との関係はなくなったのではないかと思われます。巻末の年表にも記載が全くありません。

 関野鼻パークハウスはその後も営業が続けられ、平成15年(2003年)7月に廃止された定期観光バス「まうら号」も最後まで寄留地とするなど、能登半島でもよく知られたドライブインとなっていましたが、平成19年(2009年)3月25日に発生した能登地震の影響により、崖に面した建物の向かって左側の一部が完全に崩落するなど被害が甚大で、営業は停止。関野鼻そのものも立ち入り禁止区域として指定されてしまいました。

 
 ▲崩落した関野鼻パークハウス

 そして、旧パークハウスの建物は平成30年(2018年)3月頃より解体が開始されました……。

 
 かつて観光客の車やバスで賑わったと思われる駐車場は、コインパーキングとして開放されていました。

 肝心のパークハウスは廃墟となっていることから、おそらく周辺にある「裸弁財天」や、「弁慶の船隠し」「ヤセの断崖」などへの見物客の利用を見込んでいるものと思われますが、状況は厳しいのではないでしょうか。

 
 駐車場前には「関野鼻を活用してくださる方募集」という切実な看板が掲げられていました。かつてのように賑わいを取り戻す日は来るのでしょうか。

 以下は、北陸鉄道定期観光バス「わじま号」の放送テープより抜粋したものです。

『平成19年3月25日の能登半島地震のときには、一部崩れてしまいましたが、関野鼻は、その奇岩怪礁に加えて、紺碧の海、猿山の遠望など、その大景観は素晴らしいものでございます。近くに入口5m、奥ゆき20数mの巨大な洞窟があり、この岩屋を「船隠し」といい、数十隻の船を入れることができると言われております。

 昔、義経主従がしばらく隠れ住んだともいわれております。岩にはそれぞれ名前が付けてありますが、関野鼻の岩を見ますと何かを連想し、誰でも何かしら名前を付けて呼びたくなるようでございます。

 関野鼻は石灰岩台地であるため、雨水で溶けた石灰岩の中に含まれた不純物の粘土が白くたまって、特異な景観を見せているのです。

 また、昭和41年のNHK大河ドラマ「源義経」のロケ地に使用され、その記念として、作家村上源三先生の句碑が建てられております。碑には、「義経の ゆくえも知れず 波の花」と刻まれております』


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