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ホテルニューまうら

最終修正:令和6年4月15日 (2)

 珠洲市北部の真浦海岸には、かつて北鉄のグループ会社「(株)真浦観光センター」が経営していた観光旅館「ホテルニューまうら」がありました。

 奥能登ブームの頃には大変にぎわった模様で、奥能登特急線の終点として、また能登半島定期観光バスの休憩場所としても知られていました。

 同ホテルは昭和38年(1963年)8月1日に巌門観光センターに次ぐ能登観光施設「真浦観光センター」としてオープン。当初は食堂と宿泊施設を持った鉄骨3階建ての建物だったようです。翌昭和39年(1964年)にははやくも客室の増設が行われています。

 そして、昭和41年(1966年)4月26日に日観連指定の「ホテルニューまうら」が完成し、奥能登の宿泊拠点、定期観光バスの受け入れ施設として能登ブームを支えることになります。

 昭和43年(1968年)にも増築工事が行われているようです。

 昭和44年(1969年)3月に北陸鉄道(株)により発行された「やさしい人情・美しい自然 国定公園能登半島」というパンフレットによると、真浦観光センター「ホテルニューまうら」は、
『奥能登の中心曽々木海岸に連なる真浦、仁江、清水とつゞく海岸線のちょうど中央の台地に建設されて、能登の真の味を十分に観賞できる拠点であり、奥能登唯一の真浦温泉が湧出しています。又、磯釣りも観光客を楽しませる一つであり、秋から冬にかけて奥能登独特の風物としての味覚も十二分に味わっていたゞけると存じます』
 と紹介されていました。

 この時点の料金は入浴料50円、宿泊料1泊2食付2,000円〜4,000円とありました。

 昭和47年(1972年)6月にも増改築工事が行われたのち、さらに昭和56年(1981年)9月に本館の増改築が行われ、このとき晩年と同じ外観の建物となったようです。相当な回数の増改築を行っていることから、建物としてもかなり興味深い作りになっていたのではないかと思われます。

 
 ▲在りし日のホテルニューまうら

 昭和57年(1982年)5月31日には政府登録国際観光旅館に認定。昭和63年(1988年)4月には大浴場の改修が行われています。

 まうらの名物は「あえのこと料理」と「ふつふつ鍋」などのオリジナル料理で、夏場には地元・能登の太鼓を集めた「太鼓フェスティバル」を開催、無形文化財「御陣乗太鼓」の実演が披露され、冬には趣きを変えた「饗艶の宴」などのイベントも行われていたそうです。

 客室は45室(バス・トイレ付き29室/トイレ付き16室)、宴会場は大・中・小が揃い、舞台付きレストラン「日本海」、ラウンジ「椿」、売店「偕楽」などの施設があった模様です。

 
 ▲記念碑

 平成2年(1990年)夏頃には大広間を「コンベンションホール」に改装。「レストラン日本海」は海側のコーナーが和式の桟敷席(20席)に改装され、座布団でゆっくりとくつろぎながら食事を楽しめるようになったそうです。同年7月8日からはビアガーデン「サンセットつばき」もオープンしています。

 ホテルの厨房には地元の真浦町住民から新鮮な野菜や魚のお裾分けもあり、ホテルを盛り立てるため、地元住民の方々も宴会にパーティにと、進んで利用されていたといいます。

 最盛期であった平成3年(1991年)には52万8千人の宿泊者があり、「波の花が見えるホテル」として人気を集めていたそうです。

 まうらでは送迎用のバスも所有していたようです。石川県立図書館に所蔵されている北陸鉄道社内報「ほくてつ」平成5年(1993年)10月号には、ホテルニューまうらの団体客送迎などに使用していた車両がこの頃更新されたとの記事がありますが、その車両はもと温泉急行線で使用されていたバスを同ホテルのデザインに塗り替えたものだったといいます。

 同誌平成6年(1994年)3月号に掲載されている防災訓練の記事の写真にそれらしきバスの後部が写っていますが、日野の中型観光タイプのようでした。

 

 特筆されるエピソードとしては、愛知県の安城東高校との交流が挙げられます。同校は昭和57年(1982年)〜平成3年(1991年)にかけて、10年間にわたって修学旅行の宿泊先にニューまうらを利用し、のべ4,500人の生徒さんがまうらの風光と郷土芸能、味覚を楽しんだということです。これを記念し、同高校の敷地内には石川県の樹であり、能登を代表する樹でもある「あすなろ」が植えられたといいます。

 このように様々な人々が思い出を残してきたニューまうらですが、次第に能登半島の観光は冷え込み、和倉や輪島はまだしも、さいはてといわれる真浦への客足は落ちて行ったものと思われます。

 さらに平成9年(1997年)1月2日に発生したナホトカ号重油流出事故や、定期観光バスの衰退という影響もあったのでしょうか、平成12年(2000年)11月30日をもって廃業――。奥能登の観光基地は静かに幕を下ろすこととなりました。

 筆者は残念ながら営業していた当時に訪れたことはありませんが、外浦の海を望む高台からの眺望には素晴らしいものがあったのではと思います。この人里はなれた自然のなかにあるという立地条件が、かえってその寿命をはやめてしまったのは、皮肉なことといえるかも知れません。

  

 ホテルニューまうらの閉館後、奥能登特急線の短縮(曽々木口折り返しに)、定期観光バス「まうら号」の廃止が断続的に実施されました。

 建物については奥能登観光開発(株)が保有し、一時的に同社の社屋として使用することになり、このこともあってかホテル閉館後もしばらくは「ホテルニューまうら」という停留所名が使用されていましたが、それもいつしか「真浦口」と改称されていきました。

 平成15年(2003年)7月17日付け北國新聞朝刊によると、この年の3月期決算で運営会社であった「(株)真浦観光センター」は清算されたようです。

 
 ▲解体……敷地跡は立ち入り禁止に

 その後、建物は解体され、高台へのアプローチ部分に残された立派な庭石のみがかつての面影を残しているに過ぎず、旧「ホテルニューまうら」バス停であった「真浦口」バス停も平成23年(2011年)3月31日をもって廃止となりました。

 長い間封鎖されたままとなっていた「まうら」跡ですが、平成30年(2018年)8月1日付け北國新聞朝刊の報道によると、かつて真浦観光センター(株)社長だった方により、跡地に「真浦観光センター追憶」と記された高さ2mの看板や標柱、ベンチが設置されたということです。

 記事によれば、看板は地元の方々への感謝の気持ちを伝えるとともに、観光客が押し寄せた「ホテルニューまうら」を後世に語り継ぐべく設置されたということでした。

 
 ▲設置された追憶の看板

 令和4年(2022年)5月21日に北鉄金沢バス(株)旅行センターにより催行された「第2回北鉄バス車庫巡りツアー(北鉄奥能登バス宇出津・飯田支所編)」では、特別に「ホテルニューまうらゆき」の行き先表示が再現され、お披露目されました。

 まうら閉鎖時にはまだ能登地区にLED表示のバスがありませんでしたので、LEDで「ホテルニューまうら」が示されたのは、これが初めてでしょう。

 行き先表示は往年の「奥能登特急線」の兼六園下〜ホテルニューまうら間の便をイメージしたもので、まず路線車がその表示を出すということ自体が夢のような話なのですが、北鉄の輝かしい歴史の一翼を担ってきた「ホテルニューまうら」の名が令和によみがえり、愛好家の熱い視線と共に数々のシャッターを浴びるということもまた、夢のような出来事といえたでしょう。

 
 ▲ホテルニューまうらゆき

 
 ▲側面表示


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