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レストラン巌門がんもん

最終修正:令和6年4月15日 (2)

 志賀町にある景勝地「巌門」。日本海の波涛が浸食した荒々しい断崖にポッカリと空いた奥行き60mの洞窟は、能登金剛でも随一の奇景といえます。この巌門を見下ろす崖の上に、北鉄グループの千里浜観光開発(株)が営んでいた「レストラン巌門」がありました。

 

 平成26年(2014年)11月30日に惜しまれつつ閉店となった「レストラン巌門」。70年代には「ゼロの焦点」が火を着けた能登ブームを支え、全国から訪れる観光客を迎えていたといいます。また能登半島定期観光バスの昼食場所として多くの旅行者に憩いを与え、最後まで定期観光バス「わじま号」「あさいち号」の昼食場所となっていました。

 しかし、能登ブームの終焉、能登半島地震の影響、観光の多様化もあるのでしょうか、来店客は最盛期の10分の1にまで落ち込んでいたといわれます。翌年に北陸新幹線の開業やNHKドラマ「まれ」の放映を控えているにもかかわらず、そこまで続けることができないほどの状況に陥っていたのでしょう。

 当時の千里浜観光開発(株)社長は北國新聞の記事によると「もう一年という思いはあったが現実的に厳しい。申し訳ない気持ちでいっぱい」。北陸中日新聞の記事にも「先輩方が築き上げ、長年愛されていた施設を閉めるのは申し訳ない」と、それぞれコメントを残しています。

 言葉の節々からレストラン巌門、能登への愛情と、そして苦衷の思いが感じられます。

 
 ▲定期観光バスが相次いで到着

 このレストラン巌門の前身は「巌門観光センター」で、昭和37年(1962年)7月23日に食堂、休憩宿泊室、浴場などを備えたレストハウスとして営業を開始。当初は北陸鉄道(株)、富来町、地区関係者の共同出資による「(株)巌門観光センター」が経営にあたっていたようです。

 能登半島国定公園の一大観光地・巌門は、当時全国から観光客が押し寄せる人気スポットとなっており、翌昭和38年(1963年)4月にははやくも食堂や休憩宿泊室が増築されたといいます。

 さらに昭和39年(1964年)12月23日には別館「ホテル巌門」が完成しています。

 わずか2年の間に2回も拡張が繰り返されていることからも、当時の勢いが分かるというものです。

 昭和42年(1967年)8月には敷地の一角に貝類3,000点を集めた「巌門貝類館」が新設されています。レストラン巌門に隣接する土産物店の女性によると、かつての貝類館はこの土産物店に隣接して存在し、入口にはペンギンの剥製が置かれ、多くの観光客を喜ばせていたということです。

 昭和44年(1969年)3月に北陸鉄道(株)により発行された「やさしい人情・美しい自然 国定公園能登半島」というパンフレットによると、巌門観光センターについて、
『昔から能登といえばその風光の中心はこの巌門であるといわれておりました。巌門は福浦港から富来、増穂浦、関野鼻まで続くといわれる能登金剛の絶景のほぼ中央にあり、巌門観光センター//別館ホテル巌門はこの景勝地の一角に建設され観光客の宿泊、憩いの場所として利用されています。近くの巌門貝類博物館には全国各地の珍しい貝類などと共に能登増穂浦の三十六歌仙貝などが展示されています。』
 と紹介されていました。

 レストハウスとともにバンガローなどを備えた「五色ヶ浜キャンプ場」も併設されていたそうで、石川県立図書館に所蔵されている社内報「ほくてつ」昭和46年(1971年)7月号によると、廃車になったバスをキャンピングカーに改造し、五色ヶ浜キャンプ場に隣接して設置したという記事が見られました。

 結果を見て次年度以降、営業に向かないバスを改造し、将来は旅館やキャンプ場だけでなく土木工事会社など利用範囲を大いに広げることにするとあり、廃車となったバスを倉庫や店舗として売り出すアイディアの先駆となったのではないかと思います。

 昭和47年(1972年)3月には全株式を北鉄グループの北鉄産業(株)が取得し、正式に北陸鉄道の子会社化。翌昭和48年(1973年)2月27日から社名は「巌門観光開発(株)」となっています。

 この頃は能登ブームの真っ只中。従来のレストハウスやホテルでは溢れる観光客を賄いきれなくなってきたそうで、北鉄グループの手でレストラン、ホテルともに全面的な建て替えが開始されることとなります。

 こうして、昭和48年(1973年)4月1日に「レストラン巌門」の建て替えが完成しています。このときの建物が最後まで営業を続けたわけです。1階はドライブインとして土産物などを販売。2階の展望レストランは収容人員700人という能登最大の規模を誇る広大なものとなり、何十台と連なる定期観光バスの乗客を次々に迎えていたようです。

 
 ▲700人が収容できたレストラン

 昭和48年(1973年)6月4日には日観連指定「ホテル巌門」の建て替えも完成。バス・トイレ付きのデラックス部屋6室には「猪ノ鼻」「鵜ノ戸」「増穂」など窓外に眺められる景勝地の名が付けられ、宴会用の大広間、中広間も完備。収容人員は70名だったそうです。

 平成3年(1991年)3月21日には売店、レストランのリフレッシュオープンが行われ、売店内に軽食類やソフトクリームなどのテイクアウトコーナー、2階レストランには1階にあった喫茶店を移転させた和風レストランのコーナーが開設されています。

 一方、巌門貝類館はこのとき閉鎖となっていますが、貝類館の閉鎖後、世界の珍しい貝は巌門観光開発により大切に保管され、石川県立図書館所蔵の社内報「ほくてつ」平成8年(1996年)5月号によると、これらの珍しい貝3,000点は富来町のアスク南側にあった「魚のいない水族館」(平成8年(1996年)4月1日オープン)に寄贈されたということです。

 なお、「魚のいない水族館」は平成20年(2008年)4月、入館者がピーク時の1割未満にまで減少したことなどにより閉鎖され、取り壊されました。跡地は「ファミリーマート志賀富来店」となっています。

 
 ▲1階はドライブイン

 
 ▲メニュー

 平成の時代にはレジャーの多様化もあって次第に観光客は減少したのでしょうか、定期観光バス路線が年を追うごとに縮小して行ったことと歩調を合わせるように、平成12年(2000年)に「ホテル巌門」が閉鎖となっています。

 また同年2月1日よりレストランのほうも北鉄グループ会社で千里浜レストハウスを営む「千里浜観光開発(株)」へ移管され、その後、巌門観光開発(株)という会社は平成14年(2002年)3月31日に清算されています。

 平成20年(2008年)3月20日には、前年3月に発生した能登半島地震からの復興への取り組みとして、外壁塗装と大食堂の改修を実施。美しい海を見下ろす窓は従来のガラス4枚分に相当する大型ガラスが採用され、より開放感のある眺望が楽しめるように。これが最後のリニューアルとなりました。

 
 ▲サザエごはん定食。美味でした

 
 ▲2階の大食堂から見た能登金剛の絶景

 
 ▲この大きな待合室に観光客が溢れていたのでしょうか

 
 ▲巌門を訪れることを夢見る人もいた

 

 能登ブームと定期観光バスを支えた「レストラン巌門」。閉店後も、能登金剛の美しい風景とともに、能登半島を訪れたたくさんの観光客の思い出のなかに生き続けるのではないでしょうか。

 そして、解体――。平成27年(2015年)6月に訪れると、そこには、いままでない風景が広がっていました。レストラン巌門がない巌門の海です。

 レストラン巌門が開発される以前、このあたりはうっそうとした密林が海岸線に沿った崖のすれすれまで覆い尽くしていたそうです。まさかこんな風光が樹々に隠されているとは、地元の方でも知らなかったといいます。林が切り開かれ、海があらわになったとき、住民の方は、ここにこんな風光が隠されていたとは! と驚き、巌門観光の成功を誰もが確信したということです。

 そのときの風景が、いま、再び現出したことになります。

 

 その後、敷地は巌門で遊覧船を運航する能登金剛遊覧船(有)へ売却されたようです。

 平成27年(2015年)7月4日、かつてのレストラン巌門跡地に「旅の駅 巌門」がオープン。遊覧船の待合室、売店、テイクコーナー、トイレを備えた施設として生まれ変わっています。

 
 ▲跡地は再び休憩施設に……


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